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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(2)職場、地域に出て行く女性たち

 家電品の導入による家事労働の軽減や、少子化に伴い育児が早く終了するようになったこと、平均寿命が延びたことなどにより、女性たちは職場や地域に積極的に出て行くようになる。
 保内町の皆さんは、「家電品の普及で家事労働の労力・時間が削減でき、体に余裕はできました。当時学校の先生が、『参観日の出席が多くなった』と言っていたのを覚えています。それまでは家事や仕事で参観日どころではなかった主婦が、電化製品の普及により子どもの教育に手が回りだしたのです。私(**さん)は結婚した昭和28年(1953年)に学校(教師)を退職し専業主婦になりましたが、昭和38年に復職しました。子どもも大きくなり、家電品の普及でゆとりが出てきたのと、復職の誘いもあったので再び教職についたのです。共稼ぎ家庭においても、家電品の普及は大きかったと思います。
 私(**さん)は昭和25年に結婚して仕事をやめました。外で働きたかったのですが、姑に『自分の子どもは自分で育てなさい。夫の給料でやっていきなさい。外に出たら出たで衣装も買わないといけないし、お付き合いもある。それよりは家にいて、育児や家のことをきちんとしたほうがよい。』と言われたのです。それでずっと家にいましたが、内職(洋裁)はしていました。家事や育児をし、内職もしていたらあっという間に一日は終わりました。
 うち(**さん)は主人が役場に勤めに出ていた関係で、農業は私が主にやりました。昭和35、36年くらいから山ではミカン栽培が広まり、ミカンの景気が良かったため、農業も忙しくなりました。苦労はしましたが、子どもがいなかった分、多少ゆとりがありました。さらに家電品の普及で家事にもゆとりがでてきました。それで婦人会の世話もすることができたのです。昭和38年から婦人会長をしました。地域の婦人会活動は、そのころから活発になっていきました。あのころはキッチンカー(*2)がよく来ました。各地区には公会堂(公民館)があり、一時は婦人会で託児所もやりました。農繁期に頼まれ、それこそ奉仕でやったのです。栄養学級とか婦人学級もありました。女の人の趣味の会はしばらく後にできました。私が詩吟を始めたのは昭和52年(1977年)ですが、昭和40年代初めには吟詠会があったと思います。昭和45年から10年間は生活改善運動にもかかわりました。昭和35年(1960年)からは赤十字奉仕団(昭和23年結成)でボランティアもやりました。募金をしたり、日赤から講師を呼び看護講習、防災講習をしたりしました。」と話す。
 東温市の皆さんは、「家電品の導入により空いた時間は、地域の人と生活改善の工夫をしていました。このあたりではみんな婦人会に入って盛んに生活改善運動をしました。県の大会に婦人会の会服(昭和30年に県の婦人会が指定した服)を着て参加し、帰ってきたら内容を地域のみんなに報告するのです。この時の台所改善運動により土間の床をあげて板張りにし、流しも全部直していったのです。忙しかったのですが、見る間に生活全般が変わっていくのでみんな目の色が違っていました。そのころはまだ既製服がない時代でしたので、婦人会で洋裁を教えたりもしていました。主婦が空いた時間を利用して活動し、何もかもが変わっていったころでした。
 私(**さん)が小学校のときのお昼ご飯は、家から持ってきたお弁当と給食がありました。給食といっても、出されたのはミルク(脱脂粉乳)、味噌汁、シチューのいずれか一つだけでした。昭和30年ころまでは保護者が交代で学校に行き、給食を作っていました。給食当番のときは仕事をしている主婦も休んで行きましたが、当時は子どもが多かったので、年に数回程度しか回ってきませんでした。家からお弁当を持っていかなくてもよい完全給食になるのは少し後(南吉井(みなみよしい)小学校では昭和30年から完全給食を実施)ですが、主婦は助かりました。しかし土曜日には給食がなかったので、婦人会が運動し、土曜日にも給食が始まりました。
 伊予鉄横河原線の一部(平井(ひらい)~横河原)が廃止になるといわれたときも、婦人会は廃止を撤回するよう運動しました。平井から先(横河原まで)の人たちが、一軒に一人ずつ伊予鉄の本社前に座り込みに行ったのです。そのときには婦人会のメンバーも行きました。」と話す。
 四国中央市の**さんは、「家電品の普及などによりサラリーマンなど一般家庭では、家事労働が楽になっていきましたが、農家は忙しく『朝星、夜星』の生活が依然として続きました。夏の夕方、近所のサラリーマン家庭が夕食や入浴をすませ浴衣で涼んでいるときも、それを横目に農家の私はボロを着て農作業をしていました。本当にうらやましかったです。生活様式が変わり、いろいろなものを買う時代になったため、男の人は現金収入を求め外で働き始め、農業は主婦に大きく頼るようになりました。家電品の普及などで家事労働は楽になったとはいえ、農家の主婦にゆとりはなく、負担はかえって増えたのです。特に長男の嫁は親と一緒に住み、農業や家事、親の面倒全部やらなければなりません。このあたりには製紙工場がたくさんあるので、農家でない家の主婦も働きに出ることは多かったです。」と話す。


*2:愛媛県では昭和33年から12地区にライトバンを改造したキッチンカーが配置され、巡回して食生活改善の指導を行っ
  た。