データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(1)着るものは家で

 既製服が大半を占めるようになった現代と違い、かつて地方の農家では家で蚕を飼い、綿を作り、機(はた)織り機を使って家族の着る服をつくっていた時代があった。糸を紡ぎ、機を織るのは女性の大切な仕事であった。農閑期や雨で農作業ができない日、機の前に座りトンパタンと機を織る女性の姿は日常的だった。しばらく着て汚れた着物は、木綿の丈夫なものは洗濯板でごしごしと洗い絞って乾かしたが、絹の着物などは、洗い張り(ほどいて洗い、板張りや伸子(しんし)張り〔竹製の細い串の弾力を利用して、布をぴんと張ること〕にしてしわを伸ばし乾かす)し、再び縫って着た。着るものを洗い、そして繕うことも女性にとって大事な家事労働であった。子どもたちは母の手作りの着物を着て育ち、娘は母が紡いだ生糸で織った着物を持ち嫁いでいった。
 また和裁・洋裁は、花嫁修業の大事な位置を占め、端ぎれを買ってきて家庭で服を縫い、古着を再利用して子ども服を縫うといったことが一般的な時代が続いた。しかし戦後の高度成長期を経て豊かな時代になり、既製品が大量に出始めるにつれて、こうしたことは次第に行われなくなっていった。

 ア 家で機を織っていたころ

 新居浜市の**さんは、「近所に機を織るおばあさんがおり、その人が綿から糸をつむぎ、一反いくらかで売っていました。養蚕もやっており、絹も織っていました。母はこのおばあさんが織った生地を買い、着物を縫ってくれました。母は器用で、自分が嫁入りのときに持ってきた着物をこぼして(ほどいて)子どものスカートやズボン、服を縫ったりもしていました。よそ行きの服などめったに買ってくれませんでした。着る物も、ある程度家庭や地域で自給自足ができていたのです。」と話す。
 松野町の**さんは、「私が子どものころ、うちでは蚕を飼っていました。きれいな繭はお金にするのですが、傷がついたものは自分で糸を紡ぎ、京都に出して織って型置き(型紙を置いて模様を染めること)してもらい、嫁入り道具にしてくれました。母の作ってくれた着物は今でも持っています。家には機織り機があり、普段着る綿の着物も織っていました。雨や雪のとき機織り場にいけば必ず母がいました。この辺ではけっこう遅くまで(昭和40年代)蚕を飼っていましたし、綿花畑もありました。」と話す。
 四国中央市の**さんは、「うちの地区では2軒くらい機を織る年寄りがいました。それは戦争ころまでの話です。木綿の糸を買ってきて機を織ることもありました。これを『長着(ながぎ)』といって百姓のおばあさんはこれを着ていました。」と話す。また、**さんは「うちの母も家で機を織っていました。着る物がなかったので、飼っていた蚕から自分で生糸を取って機を織り、私らが着る『モロ』という着物を何反も織ってくれました。昭和25年(1950年)くらいまでは織っていたように思います。まだこの辺に桑畑がたくさんあった時代のことです。私の母は嫁入り道具の布団などは全部織って持ってきたと言っていました。」と話す。

 イ どこでもやっていた洗い張り

 松野町の**さんは、「洗い張りは、吉田にいた専業主婦の時代(昭和20年代後半)にやっていました。きれいにのりをつけて板に張るのと、伸子(しんし)張りと両方したことがあります。洗い張り屋もあったと思いますが、近所の人はみんな自分でやっていました。当時は年中着物で過ごす人が多かったのですが、私は冬だけ着物でした。冬に『袷(あわせ)(裏をつけた着物)』を3枚ほど着ましたが、これをほどいて洗い張りをしました。乾いたら縫うのですが、それも自分でやります。松野に帰ってからは仕事に出たので年中スカートをはいており、洗い張りは一度もしていません。」と話す。
 四国中央市の**さん、**さんは、「昔は各家庭で毎年夏になると、家族全員の布団をほどき、たらいでごしごし洗って、のり付けして乾かしていました。今は布団カバーがありますが、昔はカバーなどなかったので、布団をほどき、綿をのけて包んでいる布を洗っていたのです。綿の打ち直しは3年に1回くらい業者にやってもらいました。洗ってのり付けし、ござの上に張っておくと、夏の強い日差しですぐ乾きました。朝起きてすぐに布団をほどいて洗濯し、のり付けしてはり、夕方乾いたらまた縫ってその布団で寝ました。着物もほどいて洗い、板に貼り付けるか伸子張りにして乾かしました。乾いたら再び縫って着るのです。」と話す。

 ウ 和服から洋服へ

 日本で服装の洋風化が始まるのは明治時代以降で、最初は軍服など男性の改まった装いとしての性格が強かった。大正時代あたりからサラリーマンや子どもにも普及し始めるが、一般庶民に本格的に普及したのは戦後になってからである。
 保内町の皆さんは、「子どもの時、母は着物を着てお太鼓きめて(お太鼓結びで帯をしめて)、髪型はオールバックで束ねていました。しかし昭和30年代後半になると着物は着なくなったように思います。嫁入りするときは、母親が飼っていた蚕から生糸を作り、それを業者に出し着物にして娘に持たせてくれました。着物の取次ぎをする店が八幡浜の本町(ほんまち)にあり、そこの人が注文を取りに回っていました。糸を作るまでは母がしていましたが、織るのは大変なので家で織ることはめったにありませんでした。地域に機織り機がある家は2、3軒くらいあり、それで普段着は織っていました。私たち(**さん、**さん、**さん)が嫁入りのころ(昭和20年代)は、まだ和服でした。私(**さん)が嫁入りしたころ(昭和30年代)、普段着は洋服になっていましたが、正装は和服でした。婦人会活動に参加するときは、婦人会の会服を着ていきました。参観日やPTAの会のときはみんな必ず着物でした。よそ行きは着物だったのです。」と話す。
 東温市の皆さんは、「私らが嫁入りしたころは、主婦の普段着は洋服でした。和服は改まった行事に参加するときに着るくらいになっていました。私たちが子どものときに母は和服でしたので、昭和20年代ころまでは主婦は和服を着ていたように思います。」と話す。
 新居浜市の皆さんは「私たちが結婚した昭和30年代は洋服になっていました。和服は冬に着るくらいでした。私たちが子どもの時、母親は年中着物で、もんぺもはいていました。昭和20年代にじょじょに洋服に変わっていったのです。着物は下まで覆っているので夏特に暑いのです。」と話す。また**さんは、「明治生まれのおばは、女の子の服装に厳しく、半そでの服を着て家に行くと、『女の子は肌を見せるものではない。』としかられました。そのため、おばの家に行くときは必ず長そでの服を着ていきました。おばは真夏でも着物を着てきちっとした格好をしていました。子ども心に暑いのに大変だなと思いました。この辺に明治の女性との違いがあるように思います。」と話す。