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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(2)出産から隠居まで

 ア 出産-取り上げ婆さん・産婆さんから産婦人科へ- 

 産婆(さんば)が制度的に確立するのは、明治32年(1899年)に産婆規則と産婆名簿登録規則が発布され、免許制度ができてからである。それ以前は、地域でお産の手助けをする年長者を「取り上げ婆(ばあ)さん」と呼んだりしていたが、昭和になってからも産婆の絶対数が不足していたため、取り上げ婆さんは活躍していた。戦後、法的に産婆は「助産婦(助産師)」と改称されたが、「産婆」の呼称は高度成長時代まで使われていた。「産婆」の呼称が使われなくなるのは、自宅分娩(ぶんべん)がほとんどなくなり、病院の出産が一般化する昭和50年代以降になってからである(図表1-2-5参照)。
 松野町の**さんは、「私の11人兄弟ほとんどは、隣のおばあさんが来て取り上げてくれたと思うのですが、あのお婆さんは産婆の資格は持ってなかったように思います。一番下の弟の時には産婆さんがおりました。お産をするところは母屋の『オクノマ』という奥の部屋で、いつもは布団部屋にしている薄暗いところでした。これは近所の家でもみんなそうでした。昔の農家の主婦は出産ぎりぎりまで野良仕事をしていました。当時、田の草取りは手作業で、母は大きなお腹でこの作業をしていました。子ども心にしんどかろうなと思いました。お産の後は7日たつかたたないかで野良仕事に出ていました。子どもが生まれた家には、『ミヤシナイ』といって隣近所がお祝いとしてお米を一升届ける風習がありました。私は子どものころ、近所の子どもが生まれた家に、親のお使いでこれを届けたことがあります。当時は麦ご飯を食べていた時代なので、米は貴重でした。」
 四国中央市の**さんは、「新宮では昔、家族に取り上げられる場合がほとんどで、私も最初の子(昭和36年生まれ)はおばあさん(母)に取り上げてもらいました。2人目(昭和40年)は産婆さんに取り上げてもらいました。お産の部屋は奥の間でした。座敷なんかではお産はできませんでした。」と話す。
 保内町の皆さんは、「わたしらのお産は、だいたい産婆さんに取り上げてもらいました。私(**さん)が昭和33年(1958年)に最後の子を生んだときにはまだ産婆さんでした。私の住む舟木谷(ふなきだに)地区で出産のとき病院に行ったのは、私(**さん)が初めてです。昭和38年のことですが、保内町に産婦人科の病院ができていました。それより前の出産は産婆さんだったのです。」と話す。
 東温市の皆さんは「この辺では子どもが生まれるときは、石手寺(いしてじ)にお参りして石を納める習慣があります(石手寺にある鬼子母神を祀(まつ)ったお堂の石を持ち帰って安産を祈り、無事出産したらその石に子どもの名前を書き、新しい別の石といっしょに持参して納める。松山市とその周辺地域で安産祈願の習慣として一般的にみられた。)。お産は、私らが生まれたときは産婆さんです。私(**さん)の子どもも全部産婆さんです(昭和35年が最後の出産)。
 県内では、昭和40年(1965年)ころまで産婆さんによるお産が多かったようで、それ以降は病院での出産が一般化してくる。

 イ 大家族の中での育児

 保内町の**さんは、「初めての子どもができたときに、実家の母と姑(しゅうとめ)から親の心がけを教えてもらった中で、『子育てはあんたの仕事。』と言われたことが忘れられません。子育ては母親だけの仕事なのか疑問に思いました。今は男性も女性も子育てをする時代になりましたが、私らのころはそんな時代でした。あるとき子どもが熱を出してどうしようか迷っていたら、おばあさんに『目を見たら大丈夫。水を飲まして一晩寝かしたら治る。』と言われたことがあります。長年の経験からくる言葉でしょう。おなかを下したら片栗(かたくり)粉を練ったものを食べたら治るとか、打ち身はメリケン粉をお酢で溶いたものをはって熱をとるとか、いろいろ教えてもらいました。」と話す。また**さんは「今の夫婦の子育てに関する問題をみていると、どうも子育ての責任があいまいになっているのではないかと私らは古い人間なので思います。昔のやり方がすべて悪いということではありません。親から子へ、子から孫へとよい意味での子育ての考え方、教訓が昔は伝えられていたのではないでしょうか。」と話す。
 国勢調査報告によると、核家族の割合は昔から50~60%で推移しており、大きく増加しているわけではないが、全体の世帯数が増加しているため、核家族数は昭和35年(1960年)に比べ平成12年(2000年)は倍以上に増えている(図表1-2-6参照)。かつて30%以上を占めていた大家族の割合は、大きく低下し、昭和60年以降は単独世帯の割合のほうが多くなった。核家族の増加により、かつて大家族の中で母から子へと受け継がれてきた子育て法を学ぶことができる家庭の割合は減ってきている。
 昭和51年(1976年)の厚生白書によると、若い母親に子育てについての悩みが多く見られるようになったこと(総理府広報室「婦人に関する意識調査」昭和47年)について、「三世代世帯の場合に祖父母が孫の育児に関して良き助言者であったのが、核家族化により身近な助言者を失ったということも一因であろう。」と述べられている。
 愛媛県では昭和33年以降、各地に母子健康センターを設置したが、ここを拠点に若妻学級、母親学級、育児学級などが開かれるようになった。
 新居浜市の**さんは「垣生(はぶ)は農家か漁家とサラリーマンの兼業が多いです。働きに出ている女性も多いのですが、主婦が働きに出ても、家にはおばあちゃんがおり家事をしてくれます。おばあちゃんの世代は、息子が結婚しても嫁が働きに出るので、引き続き家のことをしなければならず、楽になることはなかったのではないでしょうか。お年寄りの口癖に『一つの家に女は2人いらない。』という言葉がありましたが、同じ家に女が2人(嫁と姑(しゅうとめ))いるとうまくいかないという意味でしょう。嫁が仕事に出て、家の中の事は姑がやればうまいこといく。その場合財布のひもは姑が持つのではないでしょうか。新居浜は工業都市のため兼業農家が多く、男の人が外に働きに出ると、女にどうしても野良仕事の負担はかかってきます。私が赤ちゃんのころ、野良仕事が忙しいときには、父親が編んだフゴ(ワラで編んだ入れもの)の中に座布団を敷き、『ここで遊びよれよ。』と田んぼの近くに放っておかれたと聞いています。今のようにつきっきりで子どもの面倒を見る余裕など当時の農家になかったのです。フゴにいったん入れると、子どももそこから出られないため、しばらくはその中で遊んでいました。」と話す。

 ウ 財布のひもを受け継ぐ

 保内町の**さんは、「財布のひもは長男の嫁が来ても当分の間、姑(しゅうとめ)が握っていました。私の嫁ぎ先では、台所の水屋の中に財布が置いてあり、その中に姑さんがいくらかの生活費を入れておき、嫁はそこからとって使うよう言われていました。そのうちなくなるのですが、なくなっても嫁の立場としては姑に言えません。主人に相談したら『お前が出しとけや。』と言うので、私が持ってきたお小遣いの中から出したこともありました。しばらくすると姑が気づいて入れてくれるのですが、そんなことが続きました。財布のひもが私に渡されたのは嫁入りしてから10年後で、主人の兄弟が大きくなり家を出て、姑が隠居してからでした。昭和38年(1963年)に嫁入りしたときは9人家族で、9人分の炊事洗濯、当時は高校生2人のお弁当も作っていました。お弁当は白ご飯、家で食べるのは麦ご飯の時代でした。そのときは、麦ご飯の真ん中に白ご飯を入れて炊いて、白ご飯の部分をくりぬいて取り、弁当に入れていました。朝ご飯を炊かない日は、鍋で弁当用の白ご飯だけ炊きました。私が嫁入りしたとき、姑は48歳でしたが、他の家と同様、嫁がきたら家事全般(所帯)は任せるということでした。所帯はまかせるが、お金は姑が握ったままでした。隠居するときに、舅(しゅうと)と姑は敷地内に隠居家『へや』を建ててそこに住み、『母屋』は私の家族が住みました。そのとき炊事が別になったので、本当に気が楽になりました。」と話す。
 四国中央市の**さんは、「結婚する年齢は、22、23歳までで、24歳になれば遅いといわれ、25歳を過ぎたら大変でした。私は20歳で結婚しましたが、嫁入り先に女親(姑)がいなかったので、すぐに家事全般をやることになりました。しかし財布のひもは舅がずっと握っていました。主人の給料もみんな舅に渡していました。10年くらいたって主人の兄弟が大きくなり、家からいなくなってやっと私に財布のひもが預けられました。」と話す。**さんは、「昔の女性は50歳を過ぎると老化して、後は暗い人生を送りました。そして嫁いじりをするのです。それに昔は兄弟が9人も10人もおり、小姑が多かったので、嫁は泣いて過ごしていました。家事全般から炊事用の水くみ、お風呂の水くみも全部嫁の仕事で、大変な重労働でした。そんな生活を送っていたものだから50歳くらいになるとかなり老化したのです。そのころになると水くみ等は嫁がやるようになり、今度は姑として嫁いじりをするようになります。今は年金があるので年寄りも独立して生活できますが、昔は子どもと同居し面倒を見てもらう必要がありました。」と話す。**さんは、「今の若い人は、舅・姑、小姑などのいる大家族の中で暮らせないのではないかと思います。わたしらはそれを全部こなしてきました。主人の弟や妹を片付けてきました。その家に嫁いだら、責任上泣いてでも嫁としてがんばらなければなりません。何十年も姑と一緒に生活しましたが、いっさい服従で文句は一言も言いませんでした。嫁と姑の確執はどこの家でもありましたが、苦労している人は自分が姑になったとき、息子の嫁に言わなくなりました。私らが苦労した最後の年代だろうと思います。戦争を経験し、戦後の一番激動の時代を生きたのが私たちです。私たちは昔苦労したことを知っているから、今の時代の幸せを大変ありがたく思っていますが、今の若い世代は、昔のそんな苦労を経験してないから、当たり前のこととしてこの幸せな時代を過ごしているようです。」と話す。

図表1-2-5 自宅分娩割合の推移

図表1-2-5 自宅分娩割合の推移

厚生労働省統計から作成。

図表1-2-6 家族類型別一般世帯数の推移

図表1-2-6 家族類型別一般世帯数の推移

図中「その他の親族世帯」に大家族が含まれる。国勢調査結果から作成。