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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(1)農家の子どもの役目

 ア 子守は当たり前

 「私は、周桑郡(しゅうそうぐん)徳田村(とくだむら)(現西条市丹原町徳能(とくのう))の農家に9人兄弟の四女として生まれました。昔は、子だくさんであったといいますが、うちのように9人も子どもがいる家は、そんなにありませんでした。私の上に姉が3人、兄が1人、私の下に妹2人に弟2人、家の中は一つの小さな学校のようでした。当時は、上の子が下の子の面倒を見るのは、当たり前でした。同級生や友だちがたくさんいて、いつも遊んでいましたが、みんな子守をしながら遊んでいました。私も10歳違う一番下の弟を背中におんぶし、親が仕事をしている間、ずっと子守をしていました。遊びの途中で、ねんねこ(幼児を背負った上から羽織る広袖の綿入れはんてん)を脱いで、帯を解き、下ろしておしっこもさせていました。ときには、遊びに夢中になっておしっこをかけられることもありました。弟が大きくなると、手がかからなくなるので、弟の子守は妹がするようになり、私には風呂の水くみの仕事がまわってきました。ポンプでくみ上げた水をバケツに入れて風呂まで運ぶのですが、結構しんどい仕事でした。サトイモ洗いもよくしました。サトイモを桶に半分ぐらい入れて、水を入れ、ごしごしこね板で洗います。桶の中でこね板でこねると板とイモどうしで擦れてサトイモが白くなります。200回ぐらいこねるとイモが白くなってきます。そんなこともやっていました。 
 秋の収穫がはじまると籾(もみ)干しをします。朝、学校へ行く前にむしろを広げ、籾を外に干すのです。家の前だけでは、干す場所が足りないので、家から少し離れた田んぼにもむしろを広げて干してありました。親は田んぼに行って農作業をしているので、昼に干している籾をかえさなければなりません。学校の昼休みに家に帰って急いでご飯を食べ、姉と2人で籾をかえすことが私たちの役目でした。夕方になると、夜露があたらないように、むしろを畳んで、雨が降りそうであれば、全部家の軒へ運び込んでいました。」

 イ 農作業の手伝い

 「田植え前になると、虫とりがはじまります。村の少年団の行事でした。近所の子どもたちが班をつくり、毎朝、学校へ行く前の日課として行っていました。蝉(せみ)とり網を大きくしたような布袋に棒をつけ、苗代をまわって苗の上からなぞって虫をとります。自分の家の田んぼだけでなく、よその家の田んぼもしていました。
 田植えは女の人の仕事で、小学校4年生からやっていました。初心者の私が植えたところは3、4本の苗がバラバラになり見苦しくなっていましたが、姉たちは『チャッチャッチャッ』とリズムを奏でながら植えていき、植えた後がきれいな筋目になっています。初めは、一番上手な姉のそばで特訓を受けながら植えていました。姉の特訓のおかげで、小学校6年生ころには、みんなとおしゃべりや唄(うた)を歌いながら上手にできるようになりました。小学校には田植え休みがあり、3日か4日お休みになりました。子どもがちょっとでも手伝うので大人はずいぶんと助かったと思います。母親が副業でカマス織をしていたので、その手伝いもしました。カマス(わらむしろを2つに折り左右両端を縄でつづった袋)は住友化学に納めて、肥料を入れる袋になっていました。母親が織ったむしろを縫って袋にします。袋にしたとき、縫い端がヒゲのように出ているのでそれを子どもが摘んでいきます。子どものころの手伝いが、つらいとかは思わなかったです。子どもの役目であり、家族の一員としての仕事でした。」