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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(2)良い嫁さんの条件とは

 ア 定規かき

 「田植えは、定規(田植え定規)とよぶ道具(長さ4m、幅60cmの木と竹と針金でできている)を使ってしていました。田んぼの真中に杭を打って一本の縄を引き、その縄に定規を当てて2列づつ後ろへ下がりながら田植えをしていきます。両端に定規かき(田植えをしながら、定規を持って後ろへ下がっていく人)がおり、その中に3人から5人が入り植えていきます。子どもは、定規の中を植えます。2列植えると、定規かきに『早よう、下がっとうりよ。』と言われます。早く下がらなければ、定規の竹の部分が向こうずねに当たるからです。中を植える子どもなどは、自分が植えると腰を伸ばすことができますが、定規かきは、いつも腰を曲げていなければならないので重労働です。両端をきっちりと正確に植えなければ、次の列は前に植えた苗が基準になるので、だんだんずれて曲がってきます。両端の定規かきは、息が合っていなければならないのです。田植えが終わった後、横の列がピッシリとならなければ、定規かきは一人前ではありません。定規かきが下手であると、横がばらばらになって始末がつかなくなります。当時は定規かきが一人前にできることは、いい嫁さんになる条件でした。私が結婚した当時(昭和22年)は、まだ定規を使っていました。」

 イ カマス織

 「小学校を卒業して、壬生川(にゅうがわ)家政(かせい)女学校(じょがっこう)に進学しました。徳田(とくだ)小学校からも同級生が6、7人通っていました。壬生川家政女学校は、壬生川小学校の中に併設されていました。今はありません。家政女学校を卒業して、娘時代は朝から晩までカマスを織っていました。『今日は、何枚織った。』と言うように枚数を競って一生懸命に織っていたのです。出来たカマスは農協に納めます。農協では、検査員が等級をつけます。その後、農協から住友化学へ納められていました。昔は、肥料は全部カマスに入れていたのです。カマス織は、東予地方の農家の副業でした。ときには、コンクールもあり、カマス織名人だった姉は競技会で一等賞になったこともありました。カマス織は、まず縄をなう人がおり、機械で縄をないます。そして、縄を機(はた)にかけ、わらを通してタンタンと織っていきます。学校を卒業したら、カマス織をする、それが農家の娘の仕事でした。田植えをし、草とりをして、秋がきたら稲刈りをして、脱穀をし、籾摺(もみす)りをして、次に麦を作る、それ以外はいつもカマス織をしていました。良い織り手であることは、結婚の条件の一つであったようです。」

 ウ 青春時代は戦争まっただ中

 「小学校6年生の時(昭和12年〔1937年〕)に日中戦争が始まり、さらに女学校の1年生の時(昭和16年)に太平洋戦争が始まりました。昭和19年に兄が兵隊にとられたため、それまで兄がしていた仕事を私と妹がすることになりました。一番つらかったのは牛耕でした。私は牛が怖くて、うまく使うことができないで苦労をしました。妹のほうが牛を使うのが上手であったので妹に任せていました。女学校を卒業してから青年団に入りました。戦争中は、女子青年団で慰問袋を作り、慰問文を書いて毎月送っていました。郷土出身の兵隊の誰が読んでもよいように村の様子や行事のことなどを書いていました。慰問文は、役場の兵事係の人が宛名(あてな)を書いて送ってくれます。ときには返事が来たこともありました。戦争末期になると、慰問文が届かないこともあったと思います。私らの青春時代は、戦争一色でした。」