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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(4)農村の婦人問題への取組み

 ア 世の中を知りたい

 「昭和24年(1949年)4月10日から1週間、『婦人週間』というものがありました。私は大いに関心を持ち、新聞を読んだりして勉強しました。若い時から農家の女性の地位については、おかしいと思っていました。農家の嫁はこんなことではいけない。文句も言わずに黙って働くことが当たり前の時代でしたが、世の中がどんどん進んでいるのに、農家の嫁だけが、母親だけがとり残されると思っていました。昭和20年代から30年代の農業は厳しい仕事でした。私は、農作業だけでなく、家事、育児、子どものしつけに毎日追われていました。家で農作業ばかりしているので、外へ出てみたくなりました。外へ出て世の中がどうなっているのか見たくなったのです。
 そこで、昭和36年(1961年)に、NHKのラジオモニターに応募したら当選し、1年間、ラジオモニターになりました。毎日ラジオを聞いてはレポートを出しました。それがきっかけで世の中が開けてきました。昼間は、みんなで農作業をしているのでレポートは書けません。夜みんなが寝静まってから書いていました。ラジオは食事の時などに聞いて、思ったことはメモをしていました。1番組につき、400字以内のレポートを2日に1回ずつ投函(とうかん)しなければならないのです。たくさん番組がある中で、私は主に農業番組を聞いてレポートを書きました。レポートを書くためには、ラジオを聞いているだけでは書けません。新聞もしっかりと読み、知識を増やしました。それがきっかけで外へ目を向けるようになったのです。黙ってうつむいて働くだけでは、今の私はなかったと思います。」

 イ いつまでも黙って耐えているだけではいけない

 「日本農業新聞が昭和40年代初めに日刊になりました。紙面に『女の階段』という女性専用の投稿欄が設けられました。そのころから封建的な社会が残る農村の女の人が、ペンを持ち、自分の意志でものを書くようになりました。昭和46年(1971年)ころからこの『女の階段』をもとに各地域で回覧ノートが誕生しました。もっと思いっきり言いたい、書きたい、輪を広げたいという農村女性の思いが回覧ノートに綴(つづ)られるようになったのです。私も回覧ノート『いよじ』(昭和46年11月に発足)へ加入しました。最初書く内容は自己紹介や近況報告、悩みなどでしたが、やがて米価や物価問題、農業問題などテーマを決めてノートの中で討論を行うようになりました。さらに、それが発展して昭和47年(1973年)からは会合ももたれるようになり、農村婦人の地位向上を目標に討論が行われるようになりました。これらの活動は、私の生き方を変えさせてくれました。
 昭和49年(1974年)から61年(1986年)まで6期12年間、愛媛県婦人少年室協助員を務めました。主な仕事は、働く婦人の労働条件・福利厚生の状況把握と行政とのパイプ役です。協助員になって農村婦人の意識の低さと地位の低さを知りました。その後も回覧ノート、雑誌・新聞への投稿、婦人大会での発表や討論で農村婦人の実情を知ってもらうように努めました。私が住んでいる農村は、まだまだ封建的な面がたくさんあったので、最初は地元の人にはわからないように気を使いました。結婚してからずっと、こんなことではいけない、世の中が進んでいるのに百姓家の母ちゃんだけがいつまでも黙って耐えているだけではいけないと思っていましたが、みんなが通ってきている道で、私だけが嫌だというわけにはいかなかったのです。口先だけでもいけないので、体を使って自分のすることはしっかりと行ってきました。私は、普通の百姓のおばさんです。農作業は、普通の農家の方に比べるとやっていないと思います。私がこのような活動ができたのは、舅や姑の理解と、『これからの女はどんどん世の中へ出るべきだ。』と言う主人の後押しがあったからです。」