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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(2)娘時代は奉公

 娘時代に女工をしていた**さん、大阪に出て働いていた**さんは次のように話す。

 ア 川之石で女工
  
 「私は父親が早く亡くなったので、16歳から21歳(昭和25年から31年)までの6年間、川之石(かわのいし)の東洋紡績で働きました。1か月の給料が6,000円で、当時としては、かなりの高給とりであったと思います。給料でミシンも買いました。寮に入っており、寮ではお花やお茶の資格やいろいろな勉強を教えてもらいました。給料日には弟が寮の前で待っており、私の給料を家に届けていました。弟3人を学校へ行かすために一生懸命働きました。工場では綿から綿糸、綿糸から綿布を作っていました。私は綿布を織る織婦でした。女工になったのは、募集人さんという会社に口を利く人がいて、その人から声をかけられたからです。昔は、口利きさんが必ずいました。小学校の同級生も4、5人働いていました。女工は全部で500人以上いました。女工がたくさんいるので、川之石の金毘羅(こんぴら)さんの花見の時は、お祭り騒ぎでした。工場が休みの日は衣料品店も大変賑(にぎ)わっていました。
 嫁入り前には1年足らずの間ですが、奉公にも出ました。ご飯の作り方や作法を勉強するために、八幡浜の下駄(げた)屋さんで奉公しました。朝早く起きてその家の家族の賄い、掃除、洗濯、お買物などをしました。いわゆる女中奉公でした。」

 イ 大阪で給仕、事務

 「私は母方の祖母の家で養女として育ててもらいました。学校を卒業して、しばらくは親戚の酒屋で奉公もしましたが、母親のいる大阪へ行きました。戦争中でしたので普通の仕事をしたのでは、徴用にとられると言われ、軍関係の職場に就職しようと思い、紹介所で世話をしてもらいました。試験を受けて合格し昭和18年(1943年)から20年まで大阪陸軍(おおさかりくぐん)糧秣支廠(りょうまつししょう)(戦時において必要な兵隊の食糧や軍馬の飼料を製造・調達・保管するために設置された機関)に勤めました。当時は、乾パンなどを作っていました。最初は給仕をしていましたが、事務員になり、最後は支廠長(ししょうちょう)(陸軍大佐)の秘書をしました。昭和20年に終戦になり、こっちに帰ってきました。」