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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(3)休む間もなく働いて

 ア 柳行李に子どもを入れて畑仕事 

 結婚当時の仕事や生活について、**さんは次のように話す。
 「昭和21年(1946年)に17歳で結婚したので奉公には行っていません。結婚するまでは、畑仕事など家の手伝いをしていました。結婚したのは、祖母に『私の親戚だから嫁に行かないか。』と言われたからです。親に嫌だと言っても祖母の言うことだからといって聞いてもらえません。当時は、祖父母や親戚の話合いで嫁入り先が決められていました。結婚だけでなく祖父母の言うことは絶対でした。親よりも祖父母が家の中で力を持っていました。結婚式は家でしました。歩いて家から家へ行くだけでした。朝、髪結いさんが家に来て島田に結ってもらい、そして嫁ぎ先の家に行きました。翌日は、訪問着を着て親戚中のあいさつまわりをしました。新婚旅行などはありません。次の日からはすぐに畑仕事をしました。家事は祖母や母がしていました。嫁の仕事は畑仕事が主です。手ぬぐいで頬被(ほおかぶ)りをして、よく働きました。子どもが生まれると、子どもをねんねこで背負って畑へ行っていました。麦の土入れをする時には、子どもを背負ってするのはしんどいので、着物を入れる柳行李(やなぎごうり)の破れたものにねんねこを敷いて、その中に子どもを入れて仕事をしました。」
 また、**さんは次のように話す。  
 「私も祖父と親戚(しんせき)の話合いで嫁入り先が決められました。主人とはいとこ同志でした。当時の嫁さんは家の中で小さくなっていました。お姑(しゅうとめ)さんの言うことは絶対に聞かなければならない、そんな時代でした。嫁入り道具は、全部自分で働いたお金で買いました。結婚した当初は、畑仕事をしていました。子どもが小さい時は、子どもを連れて畑へ行きました。イモの収穫の時期には、風邪を引かすといけないので、イモのつるを丸く輪にして、その中に子どもを寝かせました。子どもがはうようになると、そこからごぞごぞとはい出て、気が付いたら土を食べていたということもありました。サツマイモや麦は、戦争中と戦後のしばらくの期間は、割り当てがあって供出していましたが、結婚した時には家で食べるために作っていました。サツマイモは6月の梅雨の時期に植えます。そして夏場に草とりをして10月に収穫をします。その後にすぐに麦をまき、冬場に麦踏みをして6月に刈りとります。刈りとった麦は、脱穀作業をします。脱穀はまず家で、千歯扱(こ)ぎか動力脱穀機で麦の穂の部分を落とします。その後、麦摺(す)りをするのですが、鳥津の人で麦摺りの機械を持っている人がいないので大成(おおなる)の人が麦摺りの機械を持って浜に来ていました。各家が順番をとって麦摺りをしていました。摺り終わった麦殻はそのまま海に流していました。脱穀が終わった麦は、麦櫃(むぎびつ)に入れて保存していました。」

 イ 一家の大黒柱として

 耕地が少なく、農漁業以外の安定した就業機会に恵まれなかった鳥津地区では、現金収入を得る手段として男は出稼ぎに出た。男が外に出ている間、女は一家の大黒柱として働いた。出稼ぎについて**さんは次のように話す。
 「10月にサツマイモの収穫と麦をまくのを終えると、男の人は現金収入を得るために出稼ぎに出ます。期間は4月ころまでの約半年間です。出稼ぎ先は、九州から北海道まで日本全国でした。主に土木作業・建設業に従事し、造船所や酒造業で働く人もいました。男の人が出稼ぎに出ている間、女の人は家事をしながら畑仕事、子どもたちの世話、親の面倒を見て家を守るのです。主人が居ない時はまさに一家の大黒柱として一生懸命に働きました。出稼ぎには、女の人はほとんど行かないのですが、私は昭和32年(1957年)から5年間、主人と一緒に出稼ぎに行きました。最初行った所は、北海道の松前(まつまえ)でトンネル工事の現場で働きました。その時には子どもが4人いましたが上の2人は小学校に行っているのでこっちで祖父母に見てもらい、下の2人は4歳と2歳だったので一緒に連れて行きました。その後も、神奈川県の平塚(ひらつか)や松山近郊に出稼ぎに行きました。だいたい半年ぐらい働いて帰っていました。出稼ぎに行っていたのでは、家族が離れ離れになるので、昭和37年に思い切って家族で大阪に出て生活をするようにしました。」
 また、**さんは次のように話す。
 「海が荒れてくる10月ころから4月ころまで、主人は出稼ぎに行きます。この辺りの人で1年中漁をしない人は、だいたい出稼ぎに出ました。月に1度給料を送金してくれますが、主人が一生懸命に働いて仕送りをしてくれるので、何に使ったのかがわかるようにしなければと思い家計簿をつけました。家庭雑誌の付録を使ってみんながつけていました。出稼ぎは、私たちの父親も行ってました。戦前に父親が朝鮮の酒屋に出稼ぎに行って、帰ってくるとひねり餅(酒のかすと小麦粉などを混ぜて作った餅)をお土産に持って帰ってきて食べました。主人が出稼ぎに行っている間、女の人は家のことや畑仕事をします。なかでも切り干し作りは現金を得るための大切な仕事で、残った祖父母、嫁、子どもがみんなでやっていました。たくさん作るので1か月以上はかかります。
 切り干しは、サツマイモを洗って、千貫切りで薄く切ります。手で切った方がきれいになるといって手で切っている人もいました。それを家の軒先に竹のシノズで棚を作って干します。寒い時期の夜、触ってやるとよく乾くので手が冷たくなるのを我慢して触っていました。乾燥したものはカマスに入れて浜にある農協の倉庫へ出荷しました。出荷する日が決まっていて、地域のみんながカマスに入れた切り干しを浜まで持っていきました。出荷された切り干しは、12月に大きな船でとりに来ていました。切り干しが売れたら、お金が入るので年が越せると言われていました。昭和40年(1965年)ころまでは切り干しを出していたと思います。出した切り干しは、農協からアルコール工場やでんぷん工場に納められていたと思います。製品にならないものは、家でカンコロにして食べていました。臼(うす)で引いて粉にしてそれでイモ餅(もち)も作っていました。」