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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(3)ヤナギからスギへ

 柳谷村の人々の生活を支えたミツマタ作りも、昭和30年代後半から急速に衰退する。それは、和紙から洋紙への切り変わり、昭和31年(1956年)に政府が打ち出した百円紙幣の硬貨化によるミツマタ価格の停滞と高度経済成長による昭和30年(1955年)からの木材需要の急激な増大を受け、スギ・ヒノキの植林へと転換したことが原因である。植林によりミツマタ畑は急激に消え、山村に住む女性の仕事や生活も変化した。**さん、**さん、**さんは次のように話す。

 ア 出稼ぎのあとを任されて 

 「ヤナギは、昭和35年(1960年)ころまで作っていました。今でも作っている人はいますが、昭和30年代後半から段々と少なくなってきました。山のヤナギ畑にスギを植林するようになったのです。昭和30年代は、スギの値段が良かったのです。平野部の田んぼよりも杉山の値が高かったぐらいです。私の家でもヤナギは難儀するだけでもうけなくなったので、昭和40年ころから、ヤナギ畑であったところへみんなスギを植林しました。今のように安くなるとは知らずに、ヤナギ畑だけでなく、切り開いたところには、全部スギを植えたのです。1日に300本植えたこともありました。スギを植えてから、男の人は田んぼや畑仕事をやめて、出稼ぎに出て土木作業をするようになりました。山にいても、現金が入らないからです。ちょうど昭和40年代の初めに国道33号の拡張工事が始まりました。その時に、多くの人手がいると言ってみんなが土木作業に行くようになりました。男の人の日当が500円から1,000円ぐらいであったと思います。それから男の人がいろいろなところへ出稼ぎに行くようになったのです。ヤナギをやるより土木作業をした方が収入が良いので、みんなヤナギをやめて山に植林し、出稼ぎに行くようになりました。どこの家も、残っているのは嫁さんと年寄りと子どもだけという生活に変わりました。男の人は、5月から6月にかけて1か月だけ家にいて、田んぼを耕し、田植えを終えます。その後は出稼ぎに行くのです。給料をもらったら1か月に1回帰ってきていました。収入が入って生活は楽になったけど、苦労はしました。
 男の人が、出稼ぎへ出ているので植林したスギの手入れは女の人がしました。下草を刈ったり、カズラを切ったり4、5年はしました。枝打ちもしなければならないですが、男の人が出ているので、できませんでした。残された女の人は、家と子どもと親の面倒を見て、田んぼや畑仕事をしなければなりません。ちょうどそのころ、タバコ栽培からお茶に切り替えました。毎日が忙しく必死で働きました。」

 イ 自給自足のくらし

 「主食はトウキビ(トウモロコシ)、麦、イモでした。主にトウキビを臼(うす)で引いたひきわりに丸麦をひきわったものを混ぜ、その中にお米を少し入れて食べていました。トウキビは、収穫した後、皮をはいで家の前にトウキビ稲木を立てて保存していました。トウキビ稲木は横の長さが4間(約7.2m)ぐらいありました。昔は、焼畑でトウキビを作れば、トウキビがなくなるまで、畑で麦を作れば麦がなくなるまで食べている家もありました。
 戦中・戦後の食糧難の時代には、ホゼという、彼岸花(ひがんばな)のイモの部分をたたいてつぶし、それをさらして真っ白のコンコ(粉)にして、それをお餅にして食べている家もありました。嫁に行ってからもお米は作っていましたが、全部売っていたので食べることはできませんでした。主食は、トウキビのひきわりと麦を混ぜたものを食べていました。お米を食べるようになるのは、昭和38年(1963年)に1か月間大雪が降ったことがきっかけです。その時は、稲木にかけていた麦が全部腐ってしまい、麦が全然とれなかったのです。麦が食べられないので、それから米を食べるようになりました。サツマイモも食べていました。毎日、銅のやかんにいっぱい蒸して、おやつ代わりに食べていました。冬には干したものを食べていました。学校のお弁当にも蒸(ふ)かしイモを持っていきました。お祭りや田休みには、ご馳走(ちそう)を作って食べるのですが、嫁に行ってからは、ご馳走を作らなければならないのでゆっくりと休むことはできませんでした。私たちが小さい時は、お母さんがお味噌(みそ)も醤油(しょうゆ)も作っていました。私たちは、お味噌は作るけど醤油は作りません。お盆やお正月には、ミツマタを蒸す釜を使ってこんにゃくや豆腐も作っていました。
 自給自足の生活でしたが、高知の須崎(すさき)からイワシなどの魚を背負って来る人がいて、それを買っていました。今でも車で売りに来ています。婦人会(10人ぐらい)でまとめて店へ注文をすることもありました。**さんという店へ注文して、店の人が国道までは持って来てくれるので、国道から集落まで品物を自分たちで運び上げていました。買物があるときは落出(おちで)や旭(あさひ)に行きます。昔は落出と旭は街で店がたくさんありました。雑貨屋・飲食店・衣料品店・散髪屋・旅館などが立ち並んでいてにぎやかでした。国道33号線の拡張工事の時に片側の店が全部立ち退きになって、それから店がだんだん少なくなりました。昭和30年代前半までは、落出のバス停前に市が立っていました。バスに乗って高知から行商に来た人が落出で降りて店を出し、久万からはパン屋も来ていました。柳谷じゅうの人が買いに来ていました。診療所もあり、けが人や病人が出たときは、そこへ連れて行っていました。診療所は旭にもありました。昭和33年に3歳の子どもが熱を出した時、落出の診療所まで約6kmの道を子どもを背負って歩いて連れて行ったこともあります。車がない昭和30年代までは、お医者さんが往診に来るのに人力車で来ていました。国道33号の拡張工事が完成する以前は、バスで松山へ行くのに3時間以上かかっていました。対向車が来ると離合もできない箇所がたくさんありました。今のようなきれいな道がつくとは、夢にも思っていませんでした。」