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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(1)地場産業を支えた女性-今治タオル-

 県内の地場産業の中で、高度経済成長期を通じて全国1位の座を確立したのがタオルであった。高度経済成長期における今治タオルの発展をもたらしたのは、タオルケットの出現である。タオルケットの需要により昭和35年(1960年)に今治は日本一のタオル産地となった。これを支えたのは、新規中学卒業者を中心とする女子労働力である(②)。昭和45年(1970年)の愛媛県内タオル工場女子従業員比率は、79.1%と極めて高い(図表2-2-1参照)。四国タオル工業組合によると、平成19年(2007年)の従業員総数は2,896人で、このうち女子従業員の比率は、推定で約66%である。昭和45年の女子従業員比率と比べると減少しているが、平成17年の愛媛県内製造業の女子就業者比率は34.7%、卸売・小売業が52.9%であり、他産業に比べ高い数値である。さらに、関連産業や家庭内職を含めるとタオル産業は多くの女性の就業の場となっている。
 今治のタオル産業を支えてきた女性の労働と生活の変遷について、楠橋紋織株式会社の**さん、**さん(昭和28年生まれ)、**さん(昭和38年生まれ)に話を聞いた。

 ア 集団就職列車で今治へ

 タオル産業に就職したころのことについて、**さんは次のように話す。
 「私は北宇和郡(きたうわぐん)日吉村(ひよしむら)(現北宇和郡(きたうわぐん)鬼北町(きほくちょう))の出身で、地元の中学校を卒業し、昭和43年(1968年)に集団就職列車で今治へ来ました。同じ学校からは私一人でしたが、宇和島(うわじま)周辺のいろいろな学校を卒業した人が同じ汽車にたくさん乗っていました。生まれ育ったところを離れる寂しさと、知らない土地での生活への不安で、本当に涙を流しながら今治へ来ました。列車には、今治のタオル会社に就職する人が団体で乗っており、今治駅にはそれぞれ会社の人が、会社名を書いた札を上げて迎えにきて、自分の就職する会社に分かれていきました。まだ15歳であったので胸がドキドキして不安でたまらなかったのですが、頑張って働こうと思っていました。最初は、今働いている会社ではなく従業員30人ぐらいの小さなタオル会社に就職しました。遠縁にあたる小さな会社でしたので、同期入社は私1人だけでした。」
 また、**さんは次のように話す。       
 「昭和40年(1965年)前後は、集団就職で同じ中学校からでも4、5人は来ていました。高校への進学率が上がってからは、中学校を卒業してから入社する人は徐々に少なくなってきました。」

 イ 見知らぬ土地での寮生活

 寮での生活について、**さんは次のように話す。
 「寮には先輩が8人ぐらいいました。寮はアットホームな雰囲気で、みんな親切でした。寮の部屋は8畳の部屋を4畳ずつ半分に分けて2人で使いました。押入れも上下を分けていました。同じ部屋の人は、5歳上の先輩だったのでいろいろと気を遣いました。寝るときも、その先輩が寝てから私も寝るようにしていました。お風呂も最後に入り、先輩から『お風呂入りよ。』と言われたら入るようにしていました。部屋にはテレビがなかったので、談話室でみんなで見ていました。今なら寮でも1人1部屋があると思いますが、当時はそれが当たり前の状況でした。門限は9時で、外出をする時は必ず外出届を寮母さんに提出します。寮の規則は厳しかったと思います。休日は、先輩たちと一緒に買い物をし、食べたいものを食べることが楽しみでした。ふだんの日は、仕事が終わると寮の中で、みんなでお菓子を食べながら仕事のことや遊びのことなどいろいろな話をすることが楽しみでした。初任給は、3万円ぐらいであったと思います。」
 また、**さんは次のように話す。
 「私は、宇摩郡(うまぐん)新宮村(しんぐうむら)(現四国中央市(しこくちゅうおうし)新宮(しんぐう))出身です。実家は、旧新宮村役場から約4km、山に入った大尾(おお)というところにありました。実家は、紙の原料になるカジ(コウゾ)栽培の農家でした。小学校・中学校の時には、カジの皮むきをよくしていました。地元の中学校を卒業し、昭和53年(1978年)にここの会社に就職しました。この会社に就職したきっかけは、人事担当の方が遠方にもかかわらず、わざわざ求人に来てもらったからです。旧新宮村役場から車の通れない約4kmの山道を1時間以上かけて歩いて家に来てもらって、私や家族に会社のことをいろいろとお話をしていただき『入社して頑張ってくれないか。』と言われ、入社することにしました。
 就職してからは、会社の寮に入りました。当時は約30名が寮に住んでいました。中学を卒業して入社した同期の人が7名いました。中学校を卒業したばかりの15歳で、見知らぬ土地で就職し生活をするわけだから不安もありましたが、私は同じ中学出身のいとこが一緒にこの会社に就職したので、一人で来ている人と比べるとそうでもなかったのです。生活は同年代の友達がたくさんいるのでにぎやかで楽しかったです。部屋の広さは、京間の8畳、最初は2人部屋でした。部屋割りは、会社が同じ中学や出身の近い人を同じ部屋になるように配慮してくれていました。私は小さいころからよく知っているいとこと同じ部屋だったので、そんなに気を遣う必要はありませんでした。家族と離れて生活するのですから、心配や不安もあり、見ず知らずの人が同じ部屋であったら戸惑っていたと思います。寮の中では先輩・後輩の上下関係はありましたが、先輩から仕事やいろいろなことを教えてもらいました。寮母さんがおり、ホームシックになったり、悩みがあったりすると相談できました。実家へ帰るのは、お盆休みとお正月休みの年に2回だけでした。」
 また、**さんは次のように話す。
 「今のように交通が発達していない時代には、寮に入る人は多かったです。昭和30年代後半が最も多く、150名ぐらいいました。昭和40年代前半でも、寮に100名ぐらいが入っていました。昭和40年代後半から少なくなりましたが、それでも40名ぐらいの女性が入っていました。寮に入る人は、大洲近郊や現在の鬼北町、松山近郊出身の人が多かったです。現在は、日本人で寮に入っている女性は1人だけで、中国からの研修生18名が寮で生活しています。」

 ウ 泣きながら仕事を覚える

 入社当時の仕事の様子について**さんは次のように話す。
 「仕事は今の子のように手取り足取り教えてもらうのでなく、自分で先輩たちがやっていることを見て学んでいかなければならなかったのです。それまでタオルは使っていましたが、タオルがどのようにして作られるか、タオルを織る機械がどのようなものか、全く知らなかったので苦労をしました。最初の仕事は、糸つなぎでした。タオルの糸はこんなものだと見せてもらって、糸の太さによって番手(ばんて)が違うのでそれを覚えます。糸の色も何種類もあるのでそれも覚えなければならないのです。糸を整えて巻き取るのですが、糸が切れたときは教えられた結び方で糸をつないでいきます。それができるようになると、1つずつ場を踏んで他の仕事を覚えていきました。最初のうちは、家を離れて寂しいという気持ちよりも覚えること、やらなければならない仕事がたくさんあって必死で働きました。勤務時間は、まだ15歳であったので、朝8時から17時まででした。」
 また、**さんは次のように話す。 
 「仕事は、機場(はたば)(タオルを織る部署)に配属になりました。1人で10台の機械を見て、糸が切れると機械が止まるので、どこで糸が切れたかを探してそれをつないでいきます。その場合、柄合わせをうまくやらないとタオルに傷ができたり、段差ができて2等品になってしまいます。それをうまく合わせるのが技術で、慣れないとうまくできないのです。最初は仕事を覚えるまで苦労をしました。覚えるまでは、いつも涙を流しながらやっていました。先輩について仕事を教えてもらうのですが、自分では一生懸命にやっているのに、そのやり方は違うと言われ落ち込むこともありました。やっているうちに先輩から違っていると言われる回数も少なくなり、その先輩からも認められるようになりました。そして、持ち場を1人で任されるようになったのです。勤務は、2交代制で早出が5時から13時半で、遅出が13時25分から22時でした。早出の時は、4時過ぎに起きて準備をして仕事に出るので、朝早く起きるのはきつかったです。朝食は、仕事の途中で8時からとるようになっていました。早出と遅出は、1週間で交代するようになっていました。」

 エ 働きながら学ぶ 

 働きながら定時制高校で学んだ思い出について、**さんは次のように話す。
 「私は、最初は定時制高校へは行ってなかったのですが、寮の人で10人ぐらいが定時制高校へ通っていました。友達と今治西高校定時制の文化祭に行った時に、定時制の先生に勧められて決意し、21歳で入学しました。昭和59年(1984年)に入学し、昭和63年(1988年)に卒業しました。
 定時制高校へ行くようになってからは、8時から17時までの勤務に変更してもらいました。当時は、寮から学校までマイクロバスで送り迎えをしてくれていました。私が通っているころは、10人から15人ぐらいがバスで通学していました。仕事が17時に終わると寮で夕食を食べ、17時半にバスに乗って登校します。定時制の授業は17時50分から始まり、9時に終わります。帰りもバスが学校に迎えに来てくれていました。門限が9時30分なので、定時制へ通っている時は仕事と学校で1日が終わっていました。昼間仕事をしているので、疲れて授業中に眠くなることもありました。それを我慢するのは大変でした。途中、何度か挫折しそうになったこともあったのですが、職場の仲間や学校の友人に励まされて続けることができました。定時制に通っていた4年間は、充実した楽しい期間でした。   
 休日は日曜日で、友達と買物に行くことが楽しみでした。お店に行った時、店頭に並んでいるタオルを見て、柄などからこれはうちのものではないかと思い、ネームを確認して自分の会社のものであると、やはりうれしいものです。」
 また、**さんは次のように話す。
 「花嫁修行というわけではないのですが、女性として一通りのことができるように習い事をしていました。私はお花・編み物・洋裁を習っていました。単車の免許を取って仕事が終わってから習い事の教室へ行き、門限のぎりぎりまで習って、寮に帰ってお風呂へ入って寝ます。それの繰り返しでした。同僚や先輩もみんな習い事はしていました。最初の会社にはなかったのですが、楠橋の寮には、習い事をする部屋があり、寮にお花や洋裁の先生が来て教えてくれていました。習い事の月謝は自分で働いたお金で払います。お金も貯めなければいけないので、ぜいたくはできませんでした。」

 オ 結婚の支度は全部自分で

 **さんは次のように話す。
 「集団就職で来た人は、親に頼れないし、親に頼らないことが小さいころから身に付いています。嫁に行くのでも自分のことは自分でしなさいと親から言われていました。私が結婚する時も電気製品やタンス、着物など結婚の支度は全て自分で働いて貯めたお金で準備しました。豪華なものではありませんが、一応一通りはそろえました。私だけでなく、寮に入っている人はみんな結婚の支度は、自分が貯めたお金でして、親に頼っていませんでした。私のいとこも地元の中学を卒業してタオル工場で働いていたのですが、結婚の支度は全部自分が働いて貯めたお金でしました。みんな給料をもらうと少しずつ貯金をして、結婚資金を貯めていきます。中学を卒業し就職したら、全て自分で生活しなければならなかったので、ぜいたくや派手な生活はできませんでした。」
 また、**さんは次のように話す。
 「給料の使いみちは、服を買ったり、お菓子を買ったりするぐらいでした。みんな結婚資金や将来に備えて入ったときから給料天引きで貯金をしていました。私は、そのお金で嫁入り道具を買いました。」

 カ タオル産業は女性の就業の場

 **さんは次のように話す。
 「それまで勤めていたタオル会社を退職し、昭和48年(1973年)に大きな会社がいいと思って楠橋に就職し、52年(1977年)まで勤めました。昭和50年に結婚し、52年に子どもが生まれたので退職しました。退職後は、家でミシンを使ってタオルの縁縫いの内職をしていました。1日に平均6時間ぐらいしていましたが、子育てをしながらできる仕事があることは、本当にありがたかったです。同僚の女性も結婚や出産を機に退職し、子育ての時期はタオルの内職をして、一段落したら働きに出る人が多かったです。今治は、タオル産業があるので女性の仕事があり、退職しても内職をしたりパートで勤めたりすることができるのはありがたいと思います。私は、平成7年(1995年)に子育ても一段落したので再就職し、この会社でお世話になっています。」
 また、**さんは次のように話す。
 「15歳で就職をし、25歳で結婚、しばらくは勤めていましたが26歳で退職しました。その後、子どもも3人生まれ、子育てと家事に専念していました。子育てが一段落した36歳で職場へ復帰しました。10年間職場を離れていましたが、タオルを作る機械はより高度になったものの手作業で行う部分はほとんど変わっていません。復帰してからは検品の仕事をしています。」
 また、**さんは次のように話す。
 「タオル産業は女性で支えられている部分が多いのです。私がこの会社に入社した昭和48年(1973年)当時、社員数は240から250名いました。そのうち約3分の2(約160名)が女性でした。結婚後も引き続き働く人はたくさんいます。子どもが生まれて出産や育児で一時職場を離れても、**さんや**さんのように復帰する人は少なくありません。復帰してからは、**さんは見回り、**さんは機場ではなく検品の仕事をしてもらっていますが、この仕事は経験が必要になります。タオルを見る目が養われているので助かっています。タオル作りに関わる仕事の年数が長ければ、タオルを見る目が磨かれてくるのです。今はタオル産業の構造的な変化により、中国に工場ができ、中国工場で作ったものを輸入するようになってきました。昔は、全てこの工場で作っていたものが、現在は7割から8割ぐらいが中国工場で作られたものになっています。もちろんこの工場でもタオルは作っていますが、中国工場で作られたものを検品することが女性の主な仕事になってきました。」

図表2-2-1 愛媛県内タオル工場の従業員男女比(昭和45年)

図表2-2-1 愛媛県内タオル工場の従業員男女比(昭和45年)

従業員総数:8,773人。『今治市の地理』から作成。