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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(2)厳しかった社員教育

 ア 先輩からの指導

 「昔は社員教育も厳しかったです。入社当時に一番厳しかったのは、先輩からの指導や教育でした。本当に厳しくて、みんなが泣いていました。例えば、お客さんがいないときでも、じっと何もしないで立っていたのではいけないのです。ほこりがあってもなくてもショーケースをふくなど体を動かしていなければならないのです。暇なときには、必ずショーケースをふいて、ちょっとした手形もついていないようにしていました。商品を陳列したときには、陳列の仕方が悪いと全部のけられ、最初から先輩がやり直すのです。自分が一生懸命並べて、これで良かろうと思っていたら、先輩が来て全部崩して黙って並べなおす。本当につらかったです。当時は、それがこうして並べるのだという指導であったのです。自分が良いと思っていても、先輩の目から見ると理にかなっていなかったのだと思います。それから、包装のときにお客様におしりをむけてはならないのですが、できていないと先輩からおしりをたたかれました。もちろん、朝は先輩たちより早く出勤し、ショーケースにかぶせている布をとって、はたきをかけることは当たり前でした。そのように、昔は先輩が後輩へ接客方法やマナーを徹底して教えていました。それも昭和40年(1965年)ころまでで、それ以後はだんだんと変わってきました。
 包装紙で品物を包む、包み方の練習もしました。今はセロテープがあるので楽に包めますが、当時はセロテープがなかったので慣れないとうまく包装できないのでよく練習していました。閉店後、各部所対抗で包装紙の包み方の競技会も行われていました。決められた時間に何個包めるか、速さと美しさを競い合っていました。包み方以外にも、そろばんの競技会や接客態度の競技会などもよく行われていました。 
 閉店後には、曜日ごとに習い事の教室もありました。お花やお茶、それから俳句、それぞれの先生が店に来て教えてもらえました。私もその教室で俳句を習い、今でも趣味として続けています。昭和40年代までは、社内のレクリェーションも盛んでした。社員旅行や運動会、三越全店対抗や高松店との対抗スポーツ大会、運動会は、社員の家族も参加します。各部対抗リレーや仮装行列もあってにぎやかでした。」

 イ お嫁さんを探すのなら三越で

 「昭和31年(1956年)11月に、それまでの木造の店舗から鉄筋造りの地下1階地上3階の店舗になり、ずいぶんとデパートらしくなりました。その時、初めてエレベーター2基とエスカレーター1基が設置され、子どもがエレベーターやエスカレーターに乗ろうとよく遊びに来ていました。子どもだけでなく大人も三越に対するあこがれと珍しさを持っており、『行ってみたい。行ってみると楽しい。行ったことをみんなに自慢できる。』存在であったと思います。お客さんが三越に行くときは、ちょっとエプロンがけで買い物に行くというのではなく、よそいきで来ていたのではないかと思います。人々にとっては、あこがれのすてきな場所であったと思います。
 当然、職場としても当時は女性のあこがれでした。そのために、入社するのも難しかったようです。女性社員は、みんな学力優秀、容姿端麗でした。メガネをかけることもいけなかったのです。昭和20年代から40年代ぐらいには三越の店員といえば、上品で行儀もよく、お嫁さんを探すのなら三越でというような風潮もあったぐらいです。三越に行儀見習いのために勤めさせる家庭もありました。厳しい社員教育を行っていたので、花嫁修行としても通用したのだと思います。女性が働く場としては、給料や環境など恵まれた職場であったと思います。男性のお客さんから声をかけられることもあったようです。売場で見初められて結婚し、玉の輿(こし)に乗った人もいます。独身時代の休日には、映画を観たり食べ歩きをしたりしました。映画なら新栄座・国際劇場・グランド劇場、食べ歩きは三越前のロンドン屋のかき氷、アサヒ・ことりのうどんなどよく食べていました。当時は、社交ダンスが盛んで、ダンスホールへ行ったこともあります。」