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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(2)母子会

 今治(いまばり)市波方(なみかた)町在住で、平成20年(2008年)5月まで愛媛県母子寡婦福祉連合会会長をされていた**さん(昭和4年生まれ)にお話を伺った。

 ア 家庭を支える

 「私は、41才の時に夫と死別しました。母子家庭となり、子どもたちを育てるために必死の覚悟で働きました。
 私が生活している波方町は『造船の町』でしたから、造船所のお茶わかし、飯炊(めした)き、食堂の掃除などの仕事で雇っていただきました。飯炊きの仕事は朝5時に家を出てカブ(原動機付自転車スーパーカブ)に乗って行っておりました。
 母子家庭の人の中には、造船の現場に出て、鉄板のサビ落としをするなど、男の人と同じような仕事をしている人もいました。子どもが小さくて、家の外の仕事に出て行けない女性は、タオルの耳縫いをしていました。生活しているヨマから一段下がった板間にタオルを縫うミシンを据えて、タオルの耳縫いをするのです。昼間、子どもに手がかかったら、夜なべ仕事をしなくてはなりません。『明日の朝何時に取りに来る。』ということで、それまでにタオル12枚ずつ仕上げておかなければならないのです。そうして縫い賃をもらっていました。
 百姓仕事もしていました。子どももわかってくれていまして、よく手伝ってくれました。『おかあさんをちいとでも楽させてあげにゃいかん。』と思っていたのでしょう。
 子どもを嫁にやる時と、子どもに嫁をもらう時、この時の判断が一番難しかったです。私は思い切りがつかないのです。『この子をやって幸せになるやろか。』とか、迷いがあるのです。私の兄弟も相談に乗ってくれるのですが、『この後は考えてやれよ。』と言われるのです。主人が生きていたら、『やったらええが。』『やらん。』と言ったらパッと決まるのですが、そうではなくて、私が決めないといけないのです。こればかりはなかなかでした。」

 イ 母子会で活動して

 「母子会は各市町村にあり、それぞれ会長さんがいて活動していました。母子会には、町村から補助金が出ましたし、空き缶や新聞紙などの廃品回収をして売ったお金を積み立てて会の収入としました。年1回、母子みんなで小旅行に行くのを一番の楽しみにしていました。死別の方が多かったためか、みんな仲良しでそれぞれでいたわりあいます。もし母親が行けないときは、行けない家の子どもさんを連れていって、自分の子どもと友達の子どもを一緒に面倒みることもたびたびでした。お互いに自分の本当の気持ち、立場、心の底をわかってもらえる人と話をすることが多かったです。『がんばってやれば、よい子になるよ。』と励ましてもらいました。
 私は母子会の会長でしたので、町内の母子家庭を回って相談に乗ることがよくありました。家に行ったときは庭先で立ち話から始まるのですが、初めは迷惑そうにされます。いろいろ話しているうちに、『まあ、上がってください。』と言われます。上がって話をする中で、私も自分のつらかった気持ちを出して話すので、心を開いてくれるのです。真剣に話していると、お茶が出るのです。そして帰るころには『胸につかえていたものがスーッと下りた。』と言って喜んでくれるのです。それがうれしくて、母子家庭を何軒も回っていました。
 また、先輩の母子家庭、例えば戦争未亡人のおばあちゃんたちのご家庭も回りました。軍人恩給のおかげで生活にはそれほど困らないのですが、親しい仲間がいないので、外へ出にくい方々です。そこで私はどうにかして仲間に入ってほしいと思い、母子会の旅行に誘いました。九州大分県の臼杵(うすき)方面の旅行に御一緒したことがありますが、みんな喜んで行ってくれました。母子会の総会は、年1回鈍川(にぶかわ)温泉でやります。それぞれ自分で弁当を持って行くのですが、温泉にも入れ、芝居興行もありましたから、それが楽しみで喜んで参加していました。私が45歳ごろのことで、60歳代のおばあちゃんたちみんなが、私を立ててくれ、『まだ行かへんの、行かへんの。』と催促があったり、『また行こや。』と注文があったりしました。
 ほかに母子会の活動としては、ボランティア活動として神社の清掃作業や道路の空き缶拾いをしていました。それからお彼岸には『よもぎ餅』を作ってお年寄りに配る活動を、今まで20年以上続けています。年なのでもうやめたいとも思うのですが、要望が強くてやめられません。みんなに喜んでもらうために、こういった活動を続けています。今年(平成20年)秋の叙勲で、母子福祉功労により旭日双光章をいただきました。」