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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(1)戦争を乗り越えて

 「私は上黒岩(かみくろいわ)(現久万高原町上黒岩)に生まれ、帝国女子医学薬学理学専門学校医学部に進みました。学校は東京の大森(おおもり)にあり、今は東邦大学になっています。身内が慶応堂医院(品川(しながわ)区)を開業していたので、入学試験の時からずっとそこに住み込んで世話になっていました。
 昭和18年(1943年)に松山へ帰り、当時県庁のすぐ前にあった松山赤十字病院に勤めました。院長は俳人で有名な酒井黙禅先生でした。短冊をいただいたこともあります。酒井先生のお付きで、連隊長や日銀支店長のお宅へ往診についていったことがあります。そのころ、病院は呉(くれ)海軍病院の施設になっていて軍人の結核患者が多く、一般の人は外来ばかりで、入院患者は少なかったです。木造2階建ての建物でしたが、松山空襲(昭和20年7月26日)で焼けてしまいました。県庁や図書館は焼け残りましたが、市内は丸焼けでした。空襲で焼け出された後、病院は桑原(くわばら)小学校に一時移転しました。
 私は松山空襲の前から、北条(ほうじょう)(現松山市)のクラボウ(倉敷紡績会社)の医局を兼務していました。クラボウの中に広い部屋をもらって、年配の男性医師とともに、学徒動員の城北高等女学校(現松山北高等学校)の生徒のお世話をしました。今治にもクラボウがありましたが、今治空襲でやけどした人が北条に運ばれてきたので、患部にチンク油とサルファ剤を塗ってあげました。そのころ薬は何もなかったので、そんな処置しかできませんでした。
 北条と桑原を行き来していましたが、国鉄が動いていましたので、駅までは歩いて行きました。当直になったら、ノミが寄ってくるので難儀しました。そうこうしていたら戦争が終わり、戦後の預金封鎖で開業資金がなくなってしまいました。」