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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(2)分校の2年生を担任

 「次いで昭和25年(1950年)から、二名(ふたな)小学校告森(こつもり)分校に10年勤務しました。分校には1年生と2年生が通学していました。本校が遠すぎるというわけではないのですが、山の中から通学する子どもにとっては距離がありました。3年生からは本校に行きます。毎日歩いて通うのですから、大変だったと思います。学級の児童は20人くらいでした。教員は、主任の先生と私の女2人だけです。音楽以外は2人で教科を分けてそれぞれが自分で教えていました。私はいつも2年生を担任していました。忙しかったですが、子どもたちが明るくて素直で楽しかったです。運動会は本校で行っていました。その日はみんなで歩いていって、午前中で終わるのです。
 給食は、お味噌汁から始まりました。それからアメリカから送られてきた脱脂粉乳のミルクもありました。食べ物がない時代でしたから、みんな喜びました。お弁当は持って来ていません。低学年は午前中で授業が終わるので、お味噌汁と小さなコッペパンを食べてから帰っていたように思います。
 農繁期には休業になって、子どもたちは家の手伝いをしていました。父兄との関係、交流はありました。知り合いもたくさんできて、親切にしてもらいました。
 私は、2年ぐらいは大内(おおうち)駅から毎日歩いて通勤していました。台風の日などは大変でした。途中から教員宿舎を建ててもらって、そこに住みました。息子2人もこの分校に通いました。
 2年生の時は私が自分の息子を教えました。でも家庭では放任主義でした。しつけも何もできませんでした。してやれなかったので何でも自分でする癖がついたと思います。
 戦後のことですから、本当に何もないのです。全部自給自足でした。家庭と学校のことばかりで忙しく、いつも『時間がほしい。』と思っていました。寝る時間もないほどで、家庭と学校の両立に苦しみました。母親の役、父親の役、教師の役と、一人で3役しました。学校の準備もある、家庭には子どもが2人いる、買物もある。衣料を買うといっても、近くにないのです。だから全部手縫いでした。服からズボンから、夜なべ仕事で作りました。女の人は皆そうでした。食生活もそうです。食べ物の材料を集めないといけません。野菜を作っていましたが、足りない分は農家に分けてもらいました。まきをかまどにくべて、ご飯を炊いていました。昔のかまどをそのまま使っていました。健康であったことと若かったことで、乗り切ることができたと思います。社会もだんだんよくなるという希望がありました。
 この時の教え子がこの間、同級会をして私を呼んでくれました。一緒にいろいろ話しましたが、教え子も還暦を過ぎました。」