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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(1)農家の女性として

 ア 専業農家に嫁ぐ

 「私は、生まれ育った実家の近くの人と結婚しました。実家も嫁いだ先も農家です。私が農家の人と結婚する時に、母は『やってみたら百姓はしんどかった。だから農家の嫁という道ではなくて、サラリーマンの家の主婦になった方がずっと楽だし、私のような苦労をしなくていいよ。』と言うのです。私は、相手方が『どうしてもうちに来てくれ。』と頼んできているくらいだから、それほどしんどいこともないだろうと思って専業農家に嫁いだのです。
 でも実際は、思っていた以上に、大変なものでした。専業農家で、義父の考えは『働いて働いて、財産を増やして、ゆとりのある暮らしがしたい。』というものでした。葉タバコを作り、栗を作り、ユズを作り、シイタケを作ってというように、単作の農作物を多く作って所得を得ていました。義父の考えは、葉タバコは貯金にあてて、他の所得を生活費にあてるというものでした。年齢が50そこそこの義父と義母、そして夫と私の4人が働きました。」

 イ 花や野菜を育てる

 「義父が亡くなった時、遺(のこ)された棚田があったのです。しかし、人手がなくなったので棚田の耕作ができなくなったのです。それで夫が『棚田はお前にやるから。』と言ってくれましたから、私は『この棚田で何をしようか。』と考えました。そして、棚田にハナショウブの苗を作って植えました。自分の楽しみを持てる田にしていきたい、ハナショウブで棚田をいっぱいにしたいという思いでした。毎年、ハナショウブの苗を育て、棚田に植えました。そしてハナショウブを咲かせて、私の農業のつらさを慰めてくれる、癒(いや)しの場を作ろうとしたのです。
 畑のアド(畦(あぜ)、斜面の所)にも花を植えました。水仙をずーっと植えました。家の前のアドにはツツジ、サツキを挿(さ)し木で植えました。そこに花木を植えれば、アドの草刈をしなくてもよくなるだろうという思いで植えました。今になってみれば、花を植えたことがすごくよかったと思います。労働のつらさを忘れさせてくれる癒(いや)しになりました。
 義父が亡くなった後、経営者になった夫が『月給で月2万円やろう。』と言ってくれました。それまで年に1度20数万円でしたから、毎月もらえるのでうれしかったのです。うれしかったけど、それは一時の間です。いつしか当たり前になってくると、『私はたったこれだけの値打ちしかないんか。』という思いにかられてくるのです。
 もう一つ、夫は私にチャンスをくれました。葉タバコの畑は、8月末に収穫した後に、4月まで休んでいます。『休んでいる間に、野菜を作ってみい、作るのを手伝ってはやるが、収穫してできた金はお前にやるぞ。』と言ってくれました。たぶん、私に仕事の欲をつけるために言ったのではないかと思いますが、私はそれに乗りました。
 畑にはブロッコリーとキャベツの種をまきました。黒いネットをかけて、毎日水やりをしました。できた作物を松山の青果市場に持って行き、売り上げを精算すると130万円できました。この130万円が私のものになったのです。その時私は、『百姓ってすごいなあ。』と思いました。半年の間に130万円ができたのです。その時農業を見直しました。農業のよさ、おもしろさを知りました。一生懸命やっていたら、こういうチャンスがあるかもしれない、そういう思いで一生懸命働きました。
 ほかに何かチャンスがないかなと思っていたところ、平成6年(1994年)、町の広報紙に直売所『内の子市場』開設の案内が出たのです。それまで内子町には直売所はありませんでした。以前、中山町が中山駅前で産直市場を開いており、ここが盛況で、作物を出していた妹から『もうかるし、楽しいよ。』という話を聞いていました。
 それで、私もやろう、楽しみがあるだろうと思いました。子どもも成長して就職していたので、自分でできそうなことにチャレンジしてみる気になりました。
 夫と一緒にやっていた農業は、山の中で働いて働いて、毎日が過ぎていきます。夫と働く時は、自分は労働者に過ぎません。夫を手伝って日が暮れていくという感じなのです。夫は自分が経営者ですから、自分で計画して『これだけ稼ごう。』という目標を持って仕事をしています。私にはそれが一切なかった。見通しも計画性もない。今までの夫に使われる農業より、もっと楽しい農業があるだろう。という思いで直売所参加を申し込みました。申し込みは1番でした。」