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愛媛学のすすめ

Ⅱ 特別対談「愛媛学提唱者は語る」

讃岐
 本日は、大変お忙しいところ時間を作っていただき、ありがとうございます。現在、愛媛学の構築に向けて徐々に動きつつありますが、まだまだ暗中模索の状態です。そこで、愛媛学を最初に提唱された先生に、愛媛学に対する思い、あるいはその研究の枠組みとか、今後の展望といったことについてお話をお聞かせいただいたらと思いまして、お伺いした次第です。
 まず最初に、愛媛学といったものを思いつかれた動機といいますか、その必要性を感じられたのは、何かきっかけだったのでしょうか。

松友
 具体的に申しますと、一つは昭和26年に奈良県から愛媛県に帰って来たわけなんです。その時に、民生部長をやりまして、そこで愛媛県下をずっと回って見たわけです。その時、随分今まで赴任したいろんな県と違うなと、非常に強い印象を受け、愛媛の特徴というものが、ある程度までつかめたと思いました。
 それから、しばらくたってから、昭和30年直後でございましたか、研修所を作りまして、その研修所で私が、「愛媛の行財政」というテーマの講義を、わりに長い期間受け持つことになりました。そこで、まず行財政を語るためには、行政の対象としての愛媛県とはどういう県であるか。これを明確にして、聴講者に示さなければならないのではないかと思いました。こういうふうなことで、テキストの冒頭、愛媛県とはどういう県かというふうな項目を設けまして、自分なりの感想めいたものを一々書き上げていったわけです。
 その時に思いましたのが、やはり愛媛学というような考え方ができなければならないのではなかろうか。そういうふうな気持ちがかなりわいてきたわけです。
 その後、何十年とたちまして、とくに最近は、ローカリズムの時代になりまして、地域というものが非常に重要に考えられるようになってきた。インターナショナリティ、ナショナリズム、ローカリズム。その中で、ローカリズムのウェイトが非常に高くなってきて、とくにアイデンティティが地域を支える時代になりましたので、愛媛の過去、現在、未来にわたる、ある程度のビジョン的なものを作るのは、県の行政者にとっても、企業家にとっても、県民にとっても大事なことではなかろうかと考えました。そうだとすれば、そういう要求にこたえるために、愛媛学ができなければならないと考えたわけです。そこで、生活文化県政推進懇談会において、愛媛県には、科学技術博物館と、それから歴史博物館と、とくにその真ん中に生涯学習センターを置いて、その生涯学習センターの中で、愛媛学を正式に取り上げてはどうか、こういうふうな提案をしたわけです。

讃岐
 相当昔から、愛媛学への思いはあったわけですね。

松友
 ええ、そういうことです。

讃岐
 今、26年からとおっしゃいましたが、先生が愛媛に帰って来られたその時に、愛媛県というものの印象はどのようなものだったのでしょうか。その時のイメージが愛媛学構想の基礎になっているのではないかと思いますので、少し詳しくその時の印象をお伺いしたいのですが。

松友
 その当時、一番驚きましたのが、奈良県から来たせいもあるでしょうが、視察旅行をしまして、どこに行っても海なんです。ときには白波も立ちますが、穏やかな海に囲まれているということです。その海を調べてみますと、全国で海岸線の長さが5番目である。この瀬戸内海においては、絶対に優位を占めている。極端に言えば、岡山から宮崎までは愛媛の海というふうな感じなんです。そこで、海と離れて愛媛県は考えることができないのではなかろうか。こういうふうな感じが強くしました。
 次に、愛媛の形というものを考えてみなければならない。そうしなければ、愛媛のことが分からないのではなかろうか。こんな気がしたわけです。
 そこで、形を考えておりましたら、強く気が付きましたのは、石鎚山脈がべらぼうに高い。こんなに高い山はいらないのではないかと思われるほど高い山です。聞いてみると、関西で一番高いという。私が赴任していた熊本県なんかでは到底考えられないような高い山です。これが後ろにデーンとそびえて、その前の平野が非常に薄いんです。前の瀬戸内海と後ろの高い石鎚山に挟まれた、細長い県土がわが愛媛県である。これを考えてみなければならないのではないか。
 そこで、石鎚山の雨量に対する影響とか、愛媛県の気候を海と一緒に、非常にマイルドなものにしている。そういうふうなことをまず考えなければならないのではないかということに強く気が付きました。
 そして、第三番目ですが、これは私だけの思い込みかもしれませんが、愛媛は峠が多い。これが旅行するたびに、どこへ行っても、峠にぶつかるわけです。これは例えば山形県とか、私が赴任しておりました兵庫県とか熊本県とか奈良県とか、そういう所とは全く違う。しかもその峠が非常に小さい。要するに石鎚山脈の支脈なんです。そこで峠の及ぼす影響を考えてみなければならないと思ったわけです。
 このようなことで瀬戸内海と石鎚山と峠。この三つが愛媛県の風土を形成している一番大きなモーメント(要因)ではないかと考えついたわけです。
 そこで、石鎚山が非常に高いでしょう。南側からのモンスーンを遮断してくれる。それは気候を非常に和らげてくれて、風水害から愛媛の県土を守ってくれるわけです。そして、そういうふうな守られた中で峠がある。人々は、その峠の中に住んでいるのですから、当時の人々は、必ず桃源郷的な感覚を抱いたに違いない。自分の所は、峠で包まれている。他との交流というものは、なかなか難しいけれども、この地域ぐらい良い所はない。こんな感覚があって。それがドイツの言葉で、ゲマインシャフト的なものを形成する原因になったのではなかろうか。このように考えまして、しかもその峠で包まれておりましても、全部の地域が海岸に通じているわけです。そこで開かれた、他は閉鎖されて、前方が開かれた桃源郷になっている。こういうのが、愛媛県の地域の特性ではないか。
 そこで思い付きましたのが、現在の愛媛県民と接触して、私も愛媛県人なんですけれども、この三つから愛媛県人のメンタリティ(mentality)はできているのではなかろうかと思うのです。
 一つは、優しさです。自然に対する優しさ。それから隣人に対する優しさ、ゼントル(gentle)と言いますが。
 それから二番目は、いやでもおうでも勤勉にならざるを得ない。というのは、高知県と比較しまして、高知県はどんなに努力していても、台風が来たら、もう全てだめですから。それが愛媛県は、台風が来てもびくともしない。だから努力すれば、しただけのリターンがあるわけなんです。そこで、愛媛県民の勤勉性(industry)というものが、場合によっては、えげつないと言いますが。九州あたりで成功した原因の一つは、勤勉性にあると思います。そういうものが生まれてきたのではなかろうか。
 しかもそれが、海に面している。そして海というものは、瀬戸内海は別でありますが、よその海は恐れられた海であるわけです。太平洋にしても日本海にしても恐れられた海でありますが、瀬戸内海は親しまれた海。そこで誰でも簡単に海上に乗り出して行くことができる。そして海ぐらい、無限を誘うものはない。ちょっと向こうに行ったら、もうすぐどこへ行くやら分からないほどの遠い海上に出れるわけです。それが愛媛県民のイノベーションの精神を養成したのではなかろうか。
 そこで、ゼントル(gentle)とインダストリー(industry)と、それからイノベーション(innovation)。これが県民性の基礎になっているのではなかろうか。
 さらに具体的に言いますと、例えば一遍上人です。これはもう何と言いますか、ゼントルとインダストリーとイノベーションの三つを兼ね備えた人です。例えば「賦算(ふさん)」というやり方にしましても、踊り念仏ですか。あれは全く独創的な、日本に誰しも思いつかなかったやり方です。
 あるいは正岡子規の革新性、友達との関係、郷里との関係、草木に対する愛情とか。そういう諸々の根源になっているのではなかろうかというようなことを考えておりました時に、非常に面白いことに気が付いたわけです。
 枕草子をちょっと見ておりましたら、清少納言はその当時の日本のインテリ中のインテリ。社会的にもインテリだったでしょう。その人が、「ならまほしき国司」として、国の司で一番なってみたいもの。彼女は国司になれるはずがないから、旦那(だんな)とか京都のお公家(くげ)さんのことでしょうが、それの筆頭に伊予が挙がっているわけです。
 そこで思いましたのは、瀬戸内海ということをもういっぺん考えなければならないということです。日本は瀬戸内海国家であったのではないかと。ずっと。京都から太宰府に至る間が日本の文明と文化、あるいは経済の中心で、それがずっと来て、それが江戸時代になっても、やはりそのまま続いた。
 例えば、今使う言葉で「くだらない物」というのは、つまらない物という意味ですが、これは江戸の言葉であって、当時は京都や大阪から江戸に下って来た物がいい物で、下って来ない物はだめだということです。はっきりそういうふうに言われているし、考えられていた。
 そこで、少なくとも明治までは、日本の国は瀬戸内海国家であった。これは私が造った言葉ですが、「瀬戸内海国家」である。その中における愛媛県というものを考えてみたらどうであろうか。

讃岐
 瀬戸内海と石鎚山と峠が愛媛の風土を形成しているとのこと、愛媛学を構築していく場合、この三つがキーワードだということですね。
 それと、日本は瀬戸内海国家であったという御指摘、おもしろい視点を提示していただいたのですが、確かにかつては、瀬戸内海がメインストリートだったと思いますけれども、最近は陸上中心になりまして、瀬戸内海の地盤沈下が起こっているのではないでしょうか。

松友
 そうだと思います。完全に瀬戸内海国家でなくなりましたのが、終戦ということです。それまでは例えば貿易港としまして、明治から貿易港としての神戸が絶対的な力を持っていたわけです。横浜よりもはるかに大きかったわけです。それが終戦で、神戸の地位が落ち、大阪の地位が落ちました。その一番大きな原因というものは、結局アジア貿易がなくなったわけです。アジアの国がペシャンコになってしまって、動乱からなかなか立ち上がれなかった。したがって日本が生きていく道は、欧米との協調貿易になったわけです。それだけが原因でもございませんけれども、東京が中心になって、瀬戸内海は相対的に力を落としていく。こんな具合に私は歴史を見ているわけなんです。

讃岐
 昔ですと、瀬戸内海を通して、九州とのつながりや関西とのつながりが強かった。九州と関西をつなぐ中継点が愛媛であったわけですね。それが、東京中心に動くようになってから、瀬戸内海の交通路としての位置が低くなった。そのために、中間地として栄えていた愛媛の地位も低くなってしまったということでしょうか。

松友
 私の子供の時代でも、紡績業が非常に盛んでした。紡績業の盛んなころは、日本の四、五番の内に入ったものです。それが先生のお話になる、愛媛が中間地であるということが一番大きな原因で、石炭、それを我々は子供の時に。「五平太(ごへいた)」と言いましたが、五平太という人が船を作るんですが、石炭を運ぶ。それで遠賀(おんが)川を下るわけです。そこで乗せた物を五平太と言いまして。それをよく子供の時に取りに行ったものなんです。その九州の五平太と、それから神戸に輸入された綿花と結合するのには、一番いい地点が中間地。そういう意味で、愛媛県は紡績の中心地であった時代がありました。したがって愛媛県の特徴は、先生がおっしゃいました瀬戸内海の中心、それがかなり経済を押し上げたんです。また文化を押し上げていた。そのように考えていいのではないでしょうか。

讃岐
 それが今、瀬戸内海国家といえるものがなくなった。瀬戸内海の地盤がかなり沈下した。その力がかなり弱まってしまったということでしょうね。

松友
 全く弱まりました。終戦後。そして現在に至っております。
 それを具体的に表現してみますと、愛媛県の文化・文政ごろの人口統計があるんですけれども、これは本当に人が多い。それからだんだん減っていって、減る歴史なんですけれども。
 細かいことは私も知りませんが、私が愛媛学を、どうしてもこんなものをやらないといけないと思っていたごろ、愛媛県は面積で1.5%であります。やはり愛媛県の地位を頭の中に入れておきませんと、行政の出発ができませんから。それで面積で25~26番目でしょうか。
 それから不思議なことに人口が1.5%。そうして県民所得が日本の1.5%だったんです。それで私は、1.5%経済と言って、えらい吹聴(ふいちょう)して回ったんです。今、愛媛県は中進県です。中を進む県。決して後進県ではない。そういう努力をしている。もっと海岸に工場が誘致されていったならば、愛媛県は先進県に入るぞというような、希望的観測をもっていたわけです。
 ところがその後、臨海工業地帯がだんだんと力が落ちまして、そして海上交通よりも陸上交通の時代へ、全く変わってしまいました。
 そこで、今の統計を見てみますと、人口で現在1.3%ぐらいでしょうか。県民所得にいたっては1%。その基本は、相対的に経済力は落ちたことです。それは瀬戸内海が陥没したから。具体的には、産業構造の遅れです。
 第一、第二、第三次産業の割合によって、産業構造の高度化が決まるわけです。愛媛県は第一次産業のウェイトが全国的に見てもかなり高い。ちょうど10年の産業構造の遅れがあるんじゃないでしょうか。それから工業自身も、工業の構造があります。これはやはり10年の遅れがあると見なければならないのではないでしょうか。
 それからもう一つの問題なんですけれども、これは愛媛県が分断経済であるということ。分断経済と言いますのは、宇和島の経済、八幡浜の経済と、松山の経済、今治の経済、新居浜の経済、これらの交流が非常に少ないということです。
 例えば、香川県であれば、高松が中心になって、分断されていないわけです。あれはお盆みたいな、おまんじゅうみたいな県ですから。

讃岐
 どこへ行っても1時間ぐらいで。

松友
 そこで分断されていない。高松の経済の強みは、分断性がないからではないか。ところが愛媛県は経済が分断されている。したがって相互の交流がない。各々が大阪なり、東京なりに通じていて、松山の企業の波及効果が、宇和島に及ぶわけではない。宇和島の企業の波及効果が東予に及ぶわけではない。
 これは、原因は結局一番先に言いましたように、細長い県であるということ。それともう一つは峠。峠のために、藩が非常に多くなった。それが分断経済の原因だと思います。そういうことで、経済があまり強くない。こういうことが、第二番目に気が付いたことであります。

讃岐
 先生がよくおっしゃる海の文化と峠の文化。今どちらかと言いますと、海よりも峠の方が力が強くなってきているということですか。

松友
 いや、愛媛県ではそういうふうな現象は起こり得ないと思うんです。なぜならば、愛媛県は臨海度も非常に高い県で、陸地部の深まりがないでしょう。だから何もかも、海にへばりつかなかったら、経済にも社会にもならないわけです。愛媛県ぐらい、工業が海岸にへばりついている、都市が海岸にへばりついている、何もかもが海岸にへばりついている、これを臨海度と言いますが。みかんさえ、臨海物ですから。山の中のみかんは食えたものではない。
 そういう意味で、臨海度の高い県ですから、峠の方に活力を求めることができない。やはり海の臨海度を生かしていくのが、基本的な根幹になる。そんな気がします。

讃岐
 ところで、愛媛がより発展していくためには、その地域特性をはっきりと打ち出していく必要があると思いますけど、グローバルな立場から見られて、愛媛という地域は、今後どういう位置付けでとらえていったらいいものでしょうか。

松友
 私は、今一番愛媛の発展のよすがになるのは、世界の経済が全く変わって、とくに東アジア、東南アジアの経済は、奇跡的にテイクオフ(takeoff)をして、ものすごい力で発展をしているということ。先生も御承知のように、南北経済、南北問題というのがございまして、南の国は永久にだめだと。従属国家になっている。このように、誰しも言っていました。それが韓国から、台湾から、インドネシアから、タイから、日本が驚くほどの成長率の高い国になっている。東アジア、東南アジア、これは西太平洋と考えますと、成長の海というものは、その地域以外にない。
 それからソビエトが没落してから後は、これはアメリカの経済学者のサミュエルソン(P. A. Samuelson、1915~)の次ぐらいに有名な若手なんですが、ソロー(R. M. Solow、1924~)いうのは、これは誰しも気がつくことなんですが、三極体制。ヨーロッパはECの世界になるであろう。それからアメリカ大陸はアメリカの世界になるであろう。それからアジアは、日本がリーダーとなって、更に成長力を高めていく地域になるのであろうが、その日本に力があるのかどうか。過去の因縁、故事来歴がありますから。大変な問題だと思うんですけれども。
 いずれにしましても、東アジアとか東南アジアのテイクオフ(takeoff)ができましたのは、日本というモデルがあったからなんです。
 もう一つは、日本の技術があったから。それからもう一つは、日本の購買力があったから。支えがあったからなったんです。いずれにしても、それらの国が伸びれば伸びるだけ、日本に対する影響の波は、瀬戸内海に押し寄せて来るのではなかろうか。一番重要な地域に瀬戸内海は将来なるのではないか。極端に言えば、関東がヨーロッパ文明との交流で、関西がアジア文明との交流。こういうふうなことで、世界が動いていくのではなかろうか。そうすれば、よみがえる瀬戸内海となるのではないか。あるいは新しい瀬戸内海。瀬戸内海新時代というものが、ぼつぼつ見えてきているのではなかろうか。
 特に最近の福岡県の博多の状況を見まして、そういうことが言えるのではなかろうか。それをよすがとして、愛媛県はもういっぺん頑張ってみなければならないという気がします。

讃岐
 一番最初におっしゃったみたいな、アジアとの関係で瀬戸内海の重要性というのが、もう一回復活するということですね。

松友
 アジア、それから博多、太宰府。それから京都、大阪。これが昔のメインのルートであったわけです。それがもういっぺん復活すると考えていいのではないでしょうか。

讃岐
 そうしますと、なおのこと愛媛のアイデンティティと言ったらいいんでしょうか、特性とか個性というのを打ち出していく必要があるかと思いますけど。

松友
 まさにその通りではないかと思います。結局、ナショナリズムの時代は、少なくとも成長国家においてはなくなりつつあるのではないか。今は発展途上の諸国においては、極端に言えばナショナリズムの時代かもしれない。ソビエトの没落後のナショナリズム。これが非常な不安定を起こしたんですが、少なくとも先進国か、あるいはテイクオフした国は、インターナショナリズムでなければ生きていけない。それから、インターナショナリズムで生きて行くということは、同時にローカリズムが大事になってくる。結局国家というものが、帯に短い。現在のような多国籍企業の時代とか。それから公害問題、大気汚染問題、宇宙的な公害の問題を考えましても、あるいは平和の問題を考えましても、インターナショナリズムでやる以外には手がない。と同時に、現在の国家というものは、帯に短いだけではなくて、たすきに長すぎるんです。
 地方のことが、これだけ要望が多様化して、噴出する時代には、制度というものの力は非常に厄介なものとして、地方分権が叫ばれ始める。そういうふうなことになりますと、今のインターナショナリズムと、それからナショナリズムの修正という意味でのローカリズム。その時に一番大事になってくるのは、地域のアイデンティティをどう確立していくかである。そういうことになるんじゃないでしょうか。
 そして私は、アイデンティティというものの本質は、歴史的自己同一性ではないかと思います。これを求めていかなければならない。
 ということは、各地域で、自分の過去から現在に至るまでの歴史の流れを確認して、あるいは発見して、歴史的な個性、あるいは歴史的な自己同一性。これを発見しなければならない時代が来た。
 各府県、あるいは各市町村で、県史、市町村史なんかが非常によく作られるようになった。やはりこれは、その感覚から必然的に生まれてきたものではないでしょうか。

讃岐
 いっぺん自分の足元をじっくりと見つめるということですね。その中から個性というものを作り出していくのですね。

松友
 そうすると、自分のことが分かる。足元が分かる。そして同時に、そのことは、これから歩んでいくべき方位が明確になってくる。そして、方位が明確でなかったら、この激動の時代は乗り切れない。変革の時代は乗り切れない。そこで、愛媛を研究するということは、自己のアイデンティティを求めるという意味であるし、同時にこれからの歩みの方向を探っていく、一番大きなよすがになるのではないか。このように考えるわけです。

讃岐
 愛媛を研究する愛媛学というのは、ただ単に過去を知るということだけではなくて、それを土台にして、今後進むべき基本的な方向を明らかにしていくうえからも必要だということでしょうか。

松友
 それから、単にそれだけではなしに、例えば町村にしろ、企業にしろ、その具体的な行動を、日々の行動の中に、方位というふうなおおげさなことではなくて、進むべき指針を求めることが可能になってくる。その材料、素材を愛媛学は提供し得るのではないだろうかという気がします。

讃岐
 先程、瀬戸内海新時代が始まりつつあると伺ったのですが、広島と近々橋で結ばれますし、また第二国土軸といったことも言われてきております。こうしたことが愛媛に新しい波を引き起こすことになるのではと思いますが、この点についてはどのようにお考えでしょうか。

松友
 考えてみますと、愛媛県は、ついこの間まで陸上交通がこのように発達しないまでは、国土軸に沿うておりました。例えば、徳川時代の国土軸というものは、中心はどうしても瀬戸内海でした。瀬戸内海の向こうもこちらも同じでありました。それが陸上交通の発達に伴って、本当の意味での最近の必要性に満ちた国土軸が確立されますと、どうしても愛媛県は裏側にならざるを得ない。それは愛媛県にとって面白くないということでもありましょう。
 そこで問題は、愛媛が少なくとも広島に通ずる道が、やがて4、5年のうちにできる。これで愛媛県は、半ば陸上交通の仲間入りをするわけです。しかし国土軸という点においては、まだそれだけでは国土軸にはなり得ません。
 そこで第二国土軸構想というのが浮かんでくるわけなんですが、従来の歴史を考えてみまして、愛媛県で一番必要なものは、第二の国土軸の早急な建設ということではないか。

讃岐
 瀬戸内海という海路は十分ありますので、その上に、陸上交通の面でも九州や本州とつながっていきますと、愛媛という地域は地理的にも大変いい地域になりそうですね。

松友
 それは、愛媛県は昔から三つの頭を持っておりました。例えば高知県は大阪以東に通ずる道しかありません。香川県は大阪以東に通ずる道。徳島は全く大阪への道なんです。愛媛県は、東の方に通ずる道。それから広島に通ずる道、中国に通ずる道。香川県は中国に通ずる道ではないんです。あの道は、大阪に通ずる道なんです。それからもう一つは、南に通ずる道。九州に通ずる道。この三つがあてはまりました。そのメリットが国土軸の完成により完全に生かされるようになる。これは素晴らしいことではないでしょうか。

讃岐
 愛媛という地域の社会的な位置については分かったのですが、この愛媛という地域を対象にして研究を進めて行こうとする場合、どういった局面を切っていったらいいのでしょうか。先ほど、愛媛の風土を形作っているのは瀬戸内海、石鎚山、峠の三つだということでしたが、これらのかかわりで、もう少し説明していただけないでしょうか。

松友
 若干込み入って参りますけれども、私は歴史というものは、人間の生(レーベン、ライフ)の時間的な展開だと思うわけなんです。その生の時間的な展開には、三つの層があると考えております。一番下の方。それを基層と名付けたいんですが。これは主として、風土構造が中心ではなかろうか。それはあまり変動しない。何百年も、あるいは千年にもわたって変化しない。そこで風土構造から精神構造が生まれてくる。これが一番下にある。

讃岐
 愛媛の場合ですと、海があって、石鎚山があって、峠がある、そういう何百年も、何千年も変わることのない風土が、ものの考え方などの精神構造に影響を及ぼしている。そういう風土構造を基層というふうに言ったらいいということでしょうか。

松友
 そうです。それからその上に社会構造とか。経済構造とか。とくに重要なのは、昔から都市があります。都市との連絡。そういうふうな交通部門。こういうふうなものが2層目にある中層構造です。これが生を規定しているということです。
 それから上に、今言いました中層構造というのは、例えば100年に一遍の大きな変化があるとか、200年に一遍の変化がある。どんなに小さくても50年ぐらいの単位でものを考えなければいけない。その上に表層構造がある。これが政治の動きとか、企業の活動とか、我々の人間の日常生活というもので、日々展開しているものです。
 そこで愛媛学がねらうものは、一番下の構造と中層構造とである。例えば瀬戸内海において、一番大きな変化が来たのはいつであったか。それは、どういうふうなメカニズムで瀬戸内海に変化をもたらしたか。こういうことを勉強していかなくてはならない。そして、さらにできれば、時々の偉大なる政治の業績とか、その時々の後世まで影響する発明とか発見とか、こういうふうなもの。
 そこで結論的に言いますと、基層構造と中層構造を中心にして、マクロ的に愛媛県を見る。あるいはトータルとして見てみたい。これが一番重要なのではないでしょうか。そういう意味において、愛媛学というのは、地理的歴史学、そのように理解したらいいのではないでしょうか。地理学ではありません。地理的歴史学。このように理解すべきではないかと思うんですがね。

讃岐
 今、愛媛学というのは、基本的な性格として、地理的歴史学だとおっしゃったのですが、例えば石鎚山が生活の風習とか、芸能とか、生活文化にどのように影響を及ぼしているか、そういうあたりを研究の対象としていくということでしょうけれども、地理的歴史学というものをもう少し御説明いただけませんか。

松友
 今までの従来の歴史学というのは、基本は政治学でした。それには、経済学だとか、社会学だとかが加わったりしているんですが、基本的には政治が中心でした。
 そこで大事なのは、従来の歴史学をもうちょっと下へ下げてみたい。そのためには、やはり民俗学。柳田国男さんの力を借りて、今先生のおっしゃいましたような研究を重ねていかなければならないのではないか。例えば、柳田国男さんの『木綿以前のこと』という本がありますが。あれは素晴らしい本です。徳川時代に人間が木綿を使いだしたということで、いかに人間のメンタリティが変わったか。それから人間の住居環境が変わったか。こういうふうなやり方を、先生がおっしゃった石鎚山、それから石鎚山の行者の問題とかに絡めましても、生活との関係。歴史は生の時間的展開であるというぐらいですから、それをはっきりさせていかなければいけないのではないでしょうか。

讃岐
 よく自然現象との絡み合いで、気候に対することわざみたいなものがあります。どこどこの山に雲がかかったら雨が降るとか降らないとか。

松友
 そうですね。だからそういうことも勉強していかなければならないし。とくに方言なんかの変化とか、残存とか。それがどことの文化交流が一番盛んであったかというような勉強にもなります。

讃岐
 あるいは、郷土料理にしましても、地域によってできる作物が違いますし、料理の作り方も独特のものがあります。研究の対象とする事柄はいろいろあると思いますけど、その場合、風土構造を中心とする基層と、社会構造とか経済構造とか中層を中心にみていく。この点が基本なわけですね。

松友
 そうですね。それにプラス、過去の偉大な改革者も取り上げていくといいのではないか。しかし極力、一番基層と中層を勉強していったらいいのではなかろうか。

讃岐
 ただその場合、誰がそういった研究をしていくか、勉強をしていくかという問題があるかと思います。いわゆる研究者だけでやれることではない。アマとプロが一緒になって、相互に協力しながら愛媛学に取り組んでいくことが重要だと思っております。といいますのは、特定の人だけでなく、できるだけ多くの人たちが愛媛学にかかわる体制を作っていくことによって、愛媛の知的土壌を作り上げていくことも大事だと思うのですが、そのあたりはどう考えたらいいのでしょうか。

松友
 そうですね。最近、各地域でアマと呼ばれる方が、すばらしい研究をしておられる。このような人々も取り込んだ幅広いものにしていかなくてはいけない。ただし、その場合大切なことは、アマの方々に基礎理論をつけてもらうようにしなければいけないことですね。そうでなかったら、単なる風習の収集や、マテリアルの収集になるとか、あるいはそれも十分にいかないかもしれない。
 特に恐れるのは、郷土自慢になることです。それはやはりプロの厳しい目で、歴史を見ていかなければいけませんけれども、アマについては、やはり基本的な勉強の機会が、専門家によって与えられていかなければならないと思います。
 そのためには、愛媛学会のような学習するための組織をつくり、プロとアマ相方の調査研究方法を確立していくことが大切だと思いますね。愛媛の特質と未来像を明らかにしていく愛媛学に、私は大いに期待しています。

讃岐
 まだまだいろいろお話をお伺いしたいのですが、時間になってしまいました。愛媛学というものを愛媛という地域を対象にするにしても、どういった視点から、また枠組みで取り組んでいったらいいものか漠然としておりましたが、先生のお話をお伺いしてやっとはっきりしてきました。松友先生、貴重な御意見どうもありがとうございました。