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宇和海と生活文化(平成4年度)

(1)耕して天に至る

 南予地方の宇和海沿岸一帯は、急傾斜を切り開いて造成された段々畑の偉容さが目をひく。「耕して天に至る。」と形容詞され、海辺から山頂にまで続くこの段々畑は、リアス式海岸特有の出入りの激しい複雑な地形と調和しながら、強烈な感動を呼び起こす美しい風景を写し出している。
 しかし、古くからこの地に住み、この地域に根をおろしてきた人々にとっては、永ごうに生きるための手段として、傾斜地の山林を伐採し、開墾に際して出てきた石を割って石垣を築き、さらにそのまた上段の畑を切り開きながら石垣を積み重ねるという、反復重労働の明け暮れの日々が想像される。つまり石積みで象徴される南予の段々畑は、この地域に住む人々の汗と涙の結晶であり、貧しさと勤勉さをつねに同居させながらも、その時代、時代をたくましく生き抜いてきた、一つの証左である(写真1-2-1参照)。
 南予の段々畑の形成には、いくつかの歴史的な背景や通説がある。山田勝利氏は、南予の段々畑に関する研究の中で、宇和海は、黒潮の影響を受けて、イワシなどの魚が豊富に穫れたところから、初めのころは海に生きる漁労民がまず移り住み、蛋白質の魚貝類の採収に加えて、次第に澱粉質としての穀物類の自給を図るために上地の開墾を進め、新浦としての集落が成立した経緯を述べている(①)。
 また段々畑の開発は、明暦3年(1657年)に行われた宇和島藩7万石、吉田藩3万石の分知に際して、十万石家格の復活をねらった宇和島藩による寛文検地(1670~1672年)が、住民の貢租負担を増加させる結果となり、それを補うために、さらに急傾斜の山腹にまで耕地を開墾したことが、その起源であるというこれまでの通説に対し、近年の郷土史家の間では、これを疑問視する傾向が強い。
 山口常助氏は、その歴史的考察の中で、南予地方沿岸部の段々畑の成り立ちは、元禄時代の石高直しや寛文検地の結果、住民の貢租負担の激増によって生まれたものではなく、宇和海沿岸部漁民の自給食糧の確保がその発端であり、年とともに、そして人口の増加とともに段畑開発の歴史があったと論じている。また新浦の開発や新網の設立と、新畑の開拓との間には密接な関係があって、新しい浦の開発や新網の設立に当たっては、新畑の開拓を進めることを条件に、許可願いが提出されてきた史実が少なくないという(②)。
 佐田岬半島や八幡浜湾など、大小の岬や湾を形成する沿岸部一帯の農漁村にあっても、その発展過程においては同様の傾向がうかがえる。俗に「佐田岬13里」と呼ばれ、およそ50kmに及ぶ馬の背形の佐田岬半島は、先端近くの三崎町伽藍山(414m)、中ほどにある瀬戸町見晴(みはらし)山(395m)、半島の付け根に位置する伊方町の堂々山(397m)をそれぞれ頂点として、そのすそ野は急激に海に落ち込む急傾斜地帯である。陸地の幅は広いところで6.2km、狭い所では0.8kmにも満たない細長い半島であるだけに、耕地の開発に当たっても極めて少ない低地の水田と、谷あいの棚田を除いては、ほとんど急峻な山畑であり、その開墾に当たっても畑の一枚ごとに石垣を築き、次第にそれを積み重ねて今日の段々畑が形成された様子がうかがえる。
 宇和島藩は、寛文検地(1670~1672年)の後に、領内を十組の行政区画に分けているが、佐田岬半島一帯の村・浦は保内組に編成され、郡奉行の管轄下にある代官、庄屋といった役どころがこれを統轄していた。18世紀に宇和島藩庁が編集した「大成郡録」によると、耕地面積の増加率は、里方(村)よりも浦方(海岸)に多く、海岸村での人口増加は段々畑の開発によって補われ、主漁、副農の営みの中で、「貧しいけれど何とか生きてはいける。」という生活環境が形づくられてきた。
 段々畑がいつの頃から、どれくらい山の高さにまで発展してきたのかは、それを実証する史料に欠けるが、漁村の人口は江戸時代の後期から明治時代にかけて著しい増加をみせているところから、この地域の特徴である段々畑の開発とは、少なからぬ影響があったものと推測できる。そして飛躍的な段畑発展と人口増加は、漁業主導の経営体から次第に半農半漁、あるいは農業主導の経営体に形を変えていったことと結びつき、集落の構成もまた、漁村集落から次第に農業色の濃い集落へ移り変わりをみせたものが少なくない。

写真1-2-1 宇和海沿岸の段々畑(水荷浦)

写真1-2-1 宇和海沿岸の段々畑(水荷浦)

平成4年7月撮影