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宇和海と生活文化(平成4年度)

(1)夏柑を取り入れた先人たち

 ア 宇都宮誠集(のぶちか)(1855-1907年)三崎町松

 裸麦・雑穀・甘藷を中心とした佐田岬半島の段々畑農業に、初めて柑橘栽培の芽を起こしたのは、神松名村(現三崎町)松の宇都宮誠集(のぶちか)といわれている。
 村上節太郎氏の「柑橘栽培地域の研究(⑭)」によると、「宇都宮誠集は明治16年(1883年)に、大阪の近在から夏柑の苗150本を購入して、松の自宅附近に栽培し、隣人にも勧め成功したのに始まる。」と記してある。彼は温州ミカンを植えて失敗しているが、夏柑栽培は労力が温州ミカンに比べると6~7割でまかなえ、作る技術もそれほど難しいことがないので、半農半漁の技術の幼稚な三崎の農家には、もってこいの作物だと注目したのである。
 夏柑はもともと山口県が原産地であり、藩政時代の文久2年(1862年)には萩を中心に、すでに商品作物としての栽培が始まっている。とくに明治維新後は、士族の生活手段として夏柑作りを勧め、武家屋敷の庭やあらゆる空地にまで夏柑が植え付けられて、明治の前期までは、長州萩の独占的産物であった。ところが明治9年(1876年)の和歌山県、明治12年(1879年)の愛媛県、明治17年(1884年)の静岡県に伝わったのを契機に、明治中期には全国にその栽培が広がり、明治36年(1903年)の第5回国内柑橘品評会には、福島県までが夏柑を出品するほど普及していた。
 本県では、明治12年(1879年)に、宇和島藩のもと船奉行中臣次郎が、山口県萩から夏柑の苗木を導入して、宇和島市藤江の地に植えたのが始まりと言い伝えられ、現地に残る原木(写真1-2-4参照)がその昔を物語る。
 宇都宮誠集が明治16年に購入した夏柑の苗木代金は、一本が1円50銭であり、当時の米の価格が1升(1.5kg) 10銭内外であったところから換算すると、150本の苗木購入代金は、実に225円の大金を投じたことになり、「まだ海のものとも、山のものとも分からない夏柑作りに、このような大金を注ぐことは、とても凡人のするところではない。」と周囲の人たちは息をのんだ。
 彼は、明治4年(1871年)16歳の時に大阪に出て漢学塾で学び、2年後に帰郷してからは、独学で法律を勉強するかたわら、村に寺小屋を開いて若者たちを指導し、村内に小学校が開校されてからはその教員に任ぜられるなど、ともすれば、時の流れに取り残されがちな僻地の教育にも極めて熱心であった。明治13年(1880年)三崎村に郵便局が開設されるや、25歳の若さをもって局長心得に任ぜられ、さらに明治19年には、全国で最年少の三等郵便局長に昇格するなど、公務に対しても、つねに前向きな姿勢が高く評価されていた。
 彼が佐田岬の突端にある僻地の郷土に、夏柑栽培を試みたのは単なる思いつきではなかった。勉学に際して大阪方面での交流や、宇和島地方への出張の機会をとおして、夏柑を知り、他の柑橘と一緒に苗木を取り寄せて試作した結果、夏柑がこの地方の気候や土地になじみ、栽培もしやすいという自らの経験をもとに、本格的な栽培を思いたったのである。
 しかし、当時の農家にとって、一本の苗木代金が米1斗5升(22.5kg)分に相当するような高い代金を払ってまで、夏柑を試作しようとする農家はいなかった。「三崎町誌」に記されている一篤農家の見た柑橘の歴史の中でも「当時の百姓気質というものは、ただひたすらに現耕地の維持確保と日常生活の全てを自給自足できることが百姓としての本分であって、あまり冒険はせず、既成作物(甘藷・麦を中心とした)を守り、その余剰物の現金化と家畜(牛)による現金収入が普通百姓の姿であった……後略」と述べている(⑩)。
 このような時代背景の中で、夏柑の導入に踏みきった宇都宮誠集の行動力は、まさに地域としての一大事件ではあったが、一般農家の間では物珍しさと好奇心にかられるだけであって、それ以上は一歩も進まなかった。それでも彼は熱心に夏柑の適地性と有利性を周辺に説いて回った。とくに当時の生活習慣として、若者たちが起居を共にしていた若衆宿へは度々足を運んで、この新作物の導入を熱っぽく説いた。
 三崎町三崎の**さん(83歳)は、その経緯について「当時の人々は、もう亡くなってしまいましたが、先輩たちに聞いた話では、郵便局長の宇都宮さんが若衆宿へしょっちゅうやってきて、山本、川田、溜池などの若者を相手に『これを一つやってみんか』と言うて夏柑を奨励されたそうです。それでもなお昔の百姓気質と言うか頭の堅い連中は危険なことは望まんので、『そんなことやっても良かろうかいなァー』と半信半疑の期間が長かったようですらい。」「そのうち『そがい熱心に言うのやったら、一つやってみるかのォ』ということで、この若衆宿の青年たちが試作するようになったのは、宇都宮さんが夏柑を取り入れてから10年ほど経ってからです。まわりの人達は『あんな物植えるより、麦やイモのほうが安全なのに……。』と余り気にもかけていなかったのですが、それがまあ果実が成り、金になってきだすと、皆がたまげてしもうて『そんなええ値がするのやったら』と今度は、今まで様子をみていた人達も夏柑に手をつけるようになったそうです。」と語る。
 一本の苗木代金、米1斗5升分(22.5kg)の高価な苗木を取り寄せて、人々をあぜんとさせた夏柑園も、植え付けてから7~8年を経過するころには黄金色の果実が見事に実を結んだのである。物事を進めるに当たって「目に物見せる。」ということは、何にも増して説得力がある。そしてこの実績を根拠に宇都宮は、一段と夏柑の導入に力を注いだのである。
 郷土に「金になる木を……。」と訴えた彼の情熱は、守りの強い農家の心を動かし、明治28年(1895年)に至ってやっと若者たちの賛同を得ることができた。この若者たちの試作を手始めに、その1~2年後には三崎の杉山勝蔵、川田熊一、大佐田の大石仲蔵、木野本信吉等が本格的な夏柑栽培に取り組むようになり、その後は年を追って村内一円に、さらに佐田岬半島全域にその栽培が広がっていった。
 明治40年(1907年)52歳でこの世を去った宇都宮誠集の没後、当時の愛媛県知事伊沢多喜男は、夏柑導入に道を開いた彼の功績に対して次のような功労賞を追賞している。
 「功労賞 追賞 愛媛県三崎町 故宇都宮誠集
 (本文)三崎半島農産物ノ豊富ナラザルニ憂ヒ苦心研究ノ結果夏橙ノ極メテ風土二適セルヲ認メ爾来之力栽培二努メ且熱心奔走シテ村民ヲ奨励シ今ヤ多大ノ産額ヲ得ルニ至レリ、殊に品質優良ニシテ常二萩産ヲ凌駕シ、三崎産ノ声価ヲ向上セシメタルハ氏ノ貢献二基クモノニシテソノ功労顕著ナリトス
 仍テ茲ニ之ヲ追賞ス 明治四十三年一月十五日
                愛媛県知事正五位勲四等 伊沢多喜男 」
 またこれと前後して、地元村民の間でも彰功碑建立の話がもちあがり、同年、全村民が協力して三崎村大字三崎の伝宗寺境内に「宇都宮誠集翁果樹栽培彰功碑」を建設した(⑩)。

 イ 二宮嘉太郎(1860-1916年)八幡浜市日土町新堂

 佐田岬半島の夏柑栽培を語るにおいて、八幡浜市日土町二宮嘉太郎の存在も大きい。岬端の先人を三崎町の宇都宮誠集とすれば、湾奥の里の夏柑導入は、二宮嘉太郎がその創始者である。日土地域は昭和30年の合併によって八幡浜市に属しているが、もともと佐田岬半島一帯を包括する保内組の一員として存在し、昔も今も農業を中心に成り立っている地域である。明治当初の作物としては、米・麦・甘藷・雑穀の他にハゼやコウゾなどの工芸作物もいくらかはあったが、この時代の日土村の農業は自給自足の形態を保つ農家が多かった。このような守りを基本とした農業に一石を投じたのが、二宮嘉太郎の夏柑導入である。
 日土青果農業協同組合が、地元の小学生を対象に郷土の農業を紹介しようと作成した資料に「夏みかんづくりをひらく」というパンフレットがある。その中で「収入の少ない村の農業の中で、何とかお金をもうけることのできる作物はないかと考え、日土に夏みかんをとり入れた人が〝二宮嘉太郎さん〟です。二宮嘉太郎さんは、小さい時から勉強が好きでものごとについて一生けんめい考えたり、工夫したりする人でした。大人になった二宮嘉太郎さんは、日土にあう作物はないかと四国・九州・中国地方を見て歩きました。そうする中で、26歳のときに松山から苗木をとりよせ家の近くで栽培を始めました。
 夏みかんの木は、一度植えると何年もその実をたわわに実らせるので、農家の人にとって魅力ある仕事でした。しかし、夏みかんを一人前にならすには10年くらいかかるため、ふつうの農家の人はなかなかとり入れることができませんでした。そこで二宮嘉太郎さんは村の人々の相談に応じたり、夏みかんの苗木を売ったりしました。そのころの夏みかんづくりは、細かいせんていや消毒をすることもなく、簡単な肥料だけだったので、とても作りやすい作物でした。……略」と記してある。
 明治19年(1886年)松山市持田町の三好保徳から購入した夏柑苗木を自分で栽培し、周りにも奨めた二宮の導入計画は、日土をはじめ、喜須来、宮内等の近隣地域へも次第に波及し、その後におけるネーブル、温州ミカン等の導入と合わせて、今日の果樹産地発展への足がかりを築いたのである。
 二宮嘉太郎の功績で優れているのは、生産面で力を注ぐと同様に、年々増植・増収された果実の貯蔵販売に先見性を発揮したことである。立地的にも中央から離れた四国の最西端にあって、生果物の有利販売に結びつく道をどのように開くかを考案した、その指導性と努力である。彼は明治44年(1911年)同志の長岡・船山・成田・兵頭・西園寺・河野らと共に7名で㊆組合を設立して共同出荷を始め、それを成功させたのである。日土村よりも一歩早い三崎村の夏柑はまだ商人まかせの取りひきであり、ミカン先進地の吉田町方面でも、生産者の販売組織ができていない段階だったので、二宮等のこの㊆組合は、県下で初めての生産者組織といえる。昭和46年に建設された〝二宮嘉太郎翁の碑〟には、ミカンに栄える日土町の基礎を築く先賢の功を賛えた碑文が寄せられている(写真1-2-5参照)。
 日土町防川の果樹専業農家、**さん(昭和10年生まれ 57歳)の家の床の間には、明治40年頃に植えつけられた夏柑の古木で創作された47cmの聖観音仏像が安置されている(写真1-2-6参照)。**さんは、「この夏柑は、父の時代からずっとわたしの家を守ってくれました。そしてこの夏柑があったからこそ、ご飯も食べられたし、わたしたちも学校へ行くことができました。ところが、時の流れは酸味の多い古い夏柑から味のよい甘夏柑へ地域内の品種を統一するという方針に変わったのです。昭和46年にいよいよこの木を切るという段階になって、わたしは胸がいっぱいになりました。形を変えてでも何とかこの木を残したいという気持ちが、仏像彫刻に結びついたのです。」明治・大正・昭和の時代を通して黄金色の果実をたわわに実らせ、この家族と共に生きてきた夏柑の古木は、いま静かに〝聖観音仏像〟の姿に形を変えて、ほほ笑みを絶やさない。

写真1-2-4 本県夏柑の原木と言い伝えられる古木(宇和島市指定天然記念物)

写真1-2-4 本県夏柑の原木と言い伝えられる古木(宇和島市指定天然記念物)

平成4年7月撮影(宇和島市 藤江)

写真1-2-5 二宮翁頌巧碑(日土町)

写真1-2-5 二宮翁頌巧碑(日土町)

平成5年1月撮影

写真1-2-6 夏柑の古木で創作した**家の聖観音仏像

写真1-2-6 夏柑の古木で創作した**家の聖観音仏像

仏像製作開眼(昭和46年)。四国山健徳寺菅弘宜師。平成5年2月撮影