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宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)産地づくりと生活づくり

 ア 三崎夏柑の歩んだみち

 **さん(三崎町三崎 明治27年生まれ 98歳)
 **さん(三崎町三崎 明治41年生まれ 83歳)
 **さん(三崎町三崎 昭和2年生まれ 65歳)
 明治10年代(1879~1886年)に導入された南予地方の夏柑は、発祥地の宇和島地区、佐田岬半島の三崎地区、その付け根に当たる保内地区を中心に産地化が進んでいった。そして愛媛県下で占める西宇和地方の夏柑面積は、およそ50%という極めて高い比率であった。
 村上節太郎氏の「柑橘栽培地域の研究」によると、三崎の夏柑は明治32年(1899年)にはその生産量が750tとなり、販路は尾道30%、岡山・広島が各20%、播州・大阪が各15%であった。さらに大正7年(1918年)には、生産量は2,250tに増加して大阪行きが20%を占めるに至った。明治時代の夏柑販売は紀州や岡山の商人が取り扱い、問屋まかせであった。さらに昭和2年(1927年)には、保内町を中心に組織化されていた川之石の㊀組合が三崎の夏柑を取り扱い、初めて東京へ送ったが、品質の良いことで評価された三崎の夏柑は次第に東京送りが多くなり、昭和11年(1936年)には40%までが東京行き、その後も年を追って東京出荷の比率が高まっていったと述べている(⑩)。
 三崎夏柑の生産者の間でも、販売の組織化の動きはあった。昭和5年(1930年)には三崎集落に出荷組合が設立され、その2年後には隣の高浦集落にも組織化されたが、当時の政党であった政友会や民政党の派閥問題が複雑にからみ、三崎夏柑を一元化する大同団結にまでは至らなかった。
 三崎夏柑の本場で、ほとんど農業一筋に生きてこられた**さんは、明治41年生まれの83歳である。
 「わたしが物心ついたころには、夏柑はもう成木になっていました。しかし、それは耕地面積の半分くらいであって、残りの半分には麦、イモ、雑穀などが作られていました。古い時代の夏柑の取り引きは、〝浜売り〟〝浜買い〟、といった海岸での売買がほとんどで、わたしたちが覚えてからは機帆船といってエンジンのついた30tから50t積みくらいの船が夏柑を積み出しにきていました。そのような船で買い付けに来るのは、瀬戸内海の倉敷とか兵庫県の高砂、岡山県の玉島あたりの商人が多かったようですが、遠くは紀州(和歌山県)あたりからも船が回ってきていました。さらに、それ以前の夏柑の初めのころには、帆船を操ってその買入れにきていたということを聞いております。
 また、この帆船・機帆船による浜売りは、夏柑だけでなく換金作物としての甘藷やその切り干しなども重要な取りひき資源であったということです。とくに甘藷は、はじめのころ三崎からほど近い九州の佐伯とか臼杵方面に、多く積み出されていたようですが、夏柑の取り引きが始まってからは、瀬戸内の各地に縁ができ、その交流をとおして甘藷の出荷量も増えていったようです。」と語る。
 当時の三崎村の農産物の流通は、**さんの語られるとおり、ほとんどが浜買い、浜売りによるものであった。昭和の初期に設立された出荷組合も、各地域での農家の寄り集まりといった小さい組織であったため、農家が作ったものを組合に出す。組合はそれをまとめて買い付けにきた商人に売るという浜売りの販売方式を出るものではなかった。
 三崎夏柑が、自力で販売体制を持つようになったのは、戦後の昭和22年からであり、農業協同組合法が新しく公布された年である。新しい時代への夜明けと共に、三崎村農業協同組合(昭和33年三崎・神松名農協の合併により現在の愛媛三崎町農業協同組合)の農家の間でも、「自分たちで作った夏柑は、自分たちの組織力で……」という気運が高まったのである。
 夏柑の導入そのものは、西宇和地方のもう一方の旗頭である保内地域に比べると、三崎の夏柑が一歩早かったのであるが、販売方法では遅れをとっていた。いち早く組織化された保内地域の夏柑出荷組織は、前述の日土の㊆組合をはじめ、大正前期には西宇和果物同業組合(大正5年)、㊀組合(大正7年)などが設立され、川之石港(保内町)を拠点に本格的な共同販売活動を展開していた。流通ルートも東京市場を開拓して「愛媛夏柑」の名声を高める一方で、大阪経由の貨客船に比べると3日以上も東京へ早く荷物の届く、糸崎経由の輸送方法を確立するなど、出荷方法ではつねに三崎夏柑をリードしていた。
 昭和に入ってからは、この㊀組合が三崎夏柑の販売の殆どを手がけるようになり、出荷容器である竹かごの荷造りまでも、保内地域の人々が現地へ足を運んで作業を行っていた。
 このような、第三者まかせの販売方法に区切りをつけて、「三崎内の生産者の団結によって、三崎夏柑を独自で販売する」方法を取り決めたのは、前述の農業協同組合法が改正された昭和22年のことである。そして、その先陣を担当し東京市場の開発に赴いたのが、今は98歳(明治27年生まれ)、三崎集落2番目の高齢者となった**さんである。
 **翁は背すじをピンと伸ばしながら「大阪方面への夏柑出荷も、ぼつぼつ試みられていたが、戦争あがりの昭和22年に、三崎夏柑独自の東京進出をはかるために、井上という同僚と二人で東京にかけあいに出かけました。当時は終戦直後でもあり、東京には進駐軍のアメリカ兵が、街中いっぱいにあふれていて目をみはったものです。」
 「東京の神田市場を対象にかけ合ったのですが、三崎の出荷組織としては初めての経験であり、市場関係者とは全く面識も無い段階での取り引きでした。同じ夏柑産地の八幡浜や保内地域の出荷組織は、これまで、すでに東京市場との販売系列ができあがっていて、我々が東京へ夏柑取り引きの交渉に出かけた情報をつかむと、『三崎から出かけたけれど、ほどほどに。』という電話連絡を東京市場に入れていたそうです。ということは、八幡浜の出荷組織としては、三崎の夏柑を含めた大きな組織を作りたいのに、三崎単独の出荷交渉には賛成できないという考えがあったようです。ただ三崎の側としては、これまで一度も三崎夏柑の自主性が保たれていないので、今回からは三崎の思ったような方向でやってみたいという、独立出荷の方針が立てられていました。また三崎の夏柑は〝日本一の果実〟という自負心があって、それを他の産地と混同されて売られたのでは、値打ちが半減するという気持ちも作用していました。」と語る。
 「何しろ、東京市場への独自の出荷計画は、三崎夏柑としては全く新しい試みであったが、それでも関係市場との粘ばり強い交渉の結果、交渉相手を東印から丸東に変えて、20万貫の予定をやっと10万貫(375t)だけ出荷契約に持ち込むことができました。それでも出荷を始めたころの価格は、当初の予想よりも安く、これまでの浜売り価格を下回っていたので、地元の農家の反応には様々なものがあり、中には別々に出荷したいという人もでてきました。東京市場のせりに立ち合った時なども、三崎夏柑としての実績や顔見知りが居らなかっただけに、馬鹿にされたり安く値切られることもあって、悔しい思いもしました。ポッカリ市場を訪れても、実績を持たないところは『いちころ』の目に合うのが、当時の市場通念でもあったようです。
 したがって、『三崎の夏柑には間違いが無い』と名が通るようになるまでの4~5年間は、大変な苦労が伴いました。『どうしてもやる』と言って始めただけに、途中でひき下がることはできなかったのです。」間もなく「白寿」を迎える**翁の自力による産地づくりを目指した若き日の男の執念が、闘志が、いまも伝わってくる。
 **翁に、若き日の思い出を尋ねると、「わたしの子供のころは、農作業よりも幼い兄弟の子守りばかりしていた。そのころにはどの家にも子供が多くいて、年の順に上の者が下の者の子守りをするか、弟妹のない者は山へ仕事の手伝いに行くかで、遊んでいる者は一人も居なかったと思います。青年期に入り、農業に携わるようになった頃の作物は、夏柑よりも麦・イモのほうが多かったなァ……。他にダイズ、アズキ、アワ、キビなど作れる作物は何でもやりよった。当時の農産物は、麦を少しとイモを何ぼか売りよったが、ほとんどは自分の家で食べていました。夏柑はまだ面積が少なく、1反(10a)にも足りなかったので、その後植え付けました。わたしの20歳のころ(大正初期)には、外に一日働きに出かけると40銭くらいの収入があったが、そのころ三崎ではめったに仕事がなく、石屋の仕事の手伝いや山の木を切る作業なども、毎日というわけにはいきませんでした。
 わたしは家の事情で分家をしたので、耕地が2反程度と少なく、自分で農地を買うために外で稼いで面積を増やしていきました。売りに出される畑は、山林や麦・イモの普通畑が多いので、石垣の無いところは自分で石垣を築き、そのために石を割ったり運んだりしました。三崎では「エバ」と呼ばれる石垣作りの職人も居て、自分で石垣積みができない人たちは、この職人に頼んでいましたが、私はやっぱり百姓をする限りは、何もかも人まかせではいけない。石垣くらいのことは自分でやらなければ……と、思っていたので、家の新畑は殆ど自分の手で石垣を築いてきました。今でも、その時の石を割ったゲンノウ(工具)は家に置いてあります。」厳しかった開発期のその昔をしのぶ。
 98歳の**翁は、孫が経営の主体となっている柑橘園に今でも出かけ、防風林の杉垣の枝切りや畑の手入れをする。「わたしが山に出かけるのを見て近所では、『あの年をとって山に行かなくてもええのにのォ……。』と笑う人もいるが、わたしが山に行くのは、運動じゃと思うて行きよる。」とまだまだ健在。3歳違いの老妻**さんも炊事・洗濯などの家事には、まだ人の手を借りぬ元気さで、息子や孫とは別世帯を持ちながら老後の二人の生活を楽しんでいる。
 果樹園面積2.5haと三崎町でも指折りの大規模経営を行ってきた**さんは、「わたしの家の夏柑は、父の時代から植付けてあったので、木も大きく5~6mの高さはあり、一本の木から百貫(375kg)くらいは穫れる夏柑園も珍しくなかったです。高い木に登ったり、はしごをかけての収穫作業は大変であったが、このあたりの農家では、女性でも十分その仕事に取り組んでいました。」
 当時の農作業について**さんは「百姓する者にとって、背中の空いていることはありません。」と言う。「山へ行くときには、土に返すことのできるゴミは全部背中で運び、また昔はほとんどの農家で牛を一頭ずつ飼っていたので、そのダエ肥(牛の敷き肥)を〝かるい〟(負い子)で背負って畑にばら播き、帰りには牛に食べさせる草や薪を拾って運ぶことが日課でした。さらに穫り入れのころには、その作業が一段と厳しく頻繁となり、百姓としては体の空く間がほとんど無かったように思われます。それだけに、皆足腰が強く、少々の山坂ではへこたれることはありませんでした。」とのこと。
 また、佐田岬の夏柑作りにとって欠くことのできない作業に防風林の手入れがある。〝台風銀座〟と言われるくらい台風通過の多い三崎地方では、防風林がなければ夏柑の木はもてないだろうと見られており、台風がなくとも南の風が正面から当たるので、風の強い年には擦れ合った果実や若芽に「かいよう病」などが多く発生する。このような果実は、商品価値が著しく下がり、農家の収入にも大きく影響するので、風よけと合わせて病気を防ぐ上からも、三崎町の柑橘栽培での防風林は、絶対欠くことのできないものと言われてきた。
 この点について**さんは、「この半島の風の強さは、塩成(しおなし)(瀬戸町)から東と西とでは格段の差があり、三崎では防風林が無ければ柑橘は育たないと思います。見た目には杉垣の防風林は綺麗ですが、その手入れは大変で、目に見える表面よりも根っ子の手入れに手間がかかります。畑の端にずっと並んでいる防風林の根を、毎年掘り起こして切ってやらなければ、杉の根が畑の中にまで伸びてきて柑橘の育ちを妨げるということです。」市場で高く評価された「三崎夏柑」を育てるためには、風の強い岬端の立地条件を乗り越えた苦労と努力が、そこにはある(口絵参照)。
 昭和3年生まれの**さんは、戦後の三崎農業を支えてきたリーダーの一人である。次男に生まれた彼は、30歳での結婚を契機に60aの夏柑園と共に分家独立した。独立当初は、専業農家としての生計が保てなかったので、地元の製材業に従事しながら少しずつ畑を購入し、専業農家として生き残れる下地を固めていった。
 彼に経営の土台づくりを尋ねると、「畑の購入にあたっては、売り出された普通畑を買い入れて、まず防風林つくりから始めました。『防風林は風は防げるが、日照を妨げることになるので』……と長短を指摘されるむきもありますが、風の強い三崎では、これまでの生活体験からみて防風林あっての柑橘栽培であり、とくに夏柑類では必須条件だと思っています。それで畑の選択に当っては、標高はもちろん考えに入れたが、それよりも風向きを重視しました。風当たりの少ないところ、風を防げるところを目安に面積を増やし、ちょうどそのころ、夏柑に換わる新しい品種として台頭した甘夏をとり入れました。」
 「昭和40年代に入ると、三崎の農業にも近代的な施設をということで、昭和45年から第2次農業構造改善事業に取り組むこととなり、共同選果場と農道設置が計画されたがこれが大変。選果場は難なく建設されたものの、農道設置は大もめにもめました。『ただでさえ経営面積の少ない耕地を道路には出さない』という反対意見です。労力を軽くすることよりも耕地の減ることに抵抗があり、町長や担当者も困り果てて、岡山の農政局に何度も足を運んだのですが、ええ返事が返ってこなかったそうです。『地元に都合の良い事業だけを取り入れて、後は中止する喰い逃げはできない』ということです。つまり地元としては、退くにも退けず、せっぱ詰まった背水の陣の中から、やっと道が開けてきました。わたしはこの時は、農道設置の農家の代表に選ばれ、地元住民の合意が得られるように話し合いを重ねてきたが、何とか実施に踏み切れたのは幸運でした。49年に完成した4,393mの主幹農道は、その後の三崎農業の発展に大きく役立ち、わたしの家でも、これまで索道(さくどう)やかるい(負い子)に頼っていた運搬作業が、自動車運搬に変わってきて大変便利になりました。」とその発展過程を語る。
 **さんの経営設計には、規模拡大と合わせて将来を見通した品種構成がある。かつて一時代を築いた三崎夏柑も、時の流れにはそれをさかのぼることはできない。昭和30年代にもたらされた経済の高度成長は、国民の食生活を一変させると共に、柑橘類へのしこうも次第に変化をみせはじめたのである。とくに酸味の多い夏柑は、中央市場から順次敬遠され、昭和44年の全国生産量34万6千tをピークに急速な落ち込みをみせたのである。**さんは、これらの情報をもとに、甘夏の栽培をとり入れ、さらに甘夏までが下火になると今度はサンフルーツヘの切り換えを図り、新しい品種として注目をあびている清見タンゴール、栽培しやすい早生伊予柑などを含めた品種構成によって、家族労働を基本とした経営体系をつくりあげた。
 長男の**さんは昭和35年生まれの32歳、農業大学校卒業後、7年間は人生勉強のための就職に費やしたが、昭和57年からは農業後継者として就農し、両親の期待にこたえた。平成2年には両親と**さん夫婦の間に世代交替が行われ、2.5haの柑橘園を引き継いだ新経営主は、さらにその発展をめざして、三崎町では新しい試みである温州ミカンの暖地ハウスの栽培研究にとり組んでいる。「ミカンのハウス栽培は、気温の高いところでは成績が良くないと言われるが、わたしの栽培体験では逆だと思います。暖かいところでは燃料費が少なくて済み、他のハウス産地よりもコストが安くなるので、収量がすこしくらい少なくとも手元に残る収入は多くなる計算です。」と新しい技術の開発に若い夢を乗せる。

 イ 三崎に生きる生活づくり

 **さん(三崎町三崎 昭和20年生まれ 46歳)
 **さんの実家は、三崎町で唯一の牛乳屋さんであった。子供のころから、家にはいつも4~5頭の乳牛を飼っていたので、乳絞りなどもボツボツ手伝い、とくに牛乳配達と牛乳ビン洗いは、小学校1年生のときから高校を卒業するまで、毎日行ってきた彼女の日課である。高校卒業後は三崎町農業協同組合に勤め、3年間の事務員生活も体験した。               
 **さんが、同じ町内の**さんと結ばれたのは昭和42年のことである。当時をふり返って彼女は、「わたしが嫁いだころの結婚式は、三崎町内ではまだ自宅で行う人がほとんどでした。わたしの場合も、赤い打ち掛けを着た花嫁姿で実家から嫁ぎ先までの500mほどの道のりを30分もかけて歩いて行きました。親族やわたしの友達なども一緒になって行列を組み、**の家まで足を運んでくれたのです。」三崎町の古き良き時代をなつかしむ。
 今ではこのような結婚風景は全く見られなくなり、町内の人たちの結婚式は、ほとんど八幡浜市か大洲市あたりの結婚式専門の会館利用に変わってきた。結婚の範囲も、地元同士より町外の人々との結びつきが多くなり、三崎町内の人々の生活の上にも変化が現れはじめている。
 **さんは「農家の生活では、結婚と同時に農作業が肩にかかり、大変な苦労が伴うと言われていますが、古い時代はともかく、40年代に結婚したわたし達の世代には、そんな無理な生活を強いられることは一度もありません。農家に嫁いだわたしも、初めのころは少しずつ、少しずつ仕事に馴れる程度に農作業を手伝うこともありましたが、子供の小さい間の若嫁は、どの家でも子供の養育と家事を中心とした生活で、農家の主婦として本格的に農作業を手伝うようになったのは、わたしの場合、4人の子育てがほぼ片付き、末の子供の離乳食が始まったころからです。」と新しい時代に生きる主婦の生活体験を語る。
 さらに「わたしの結婚当初の家族は、祖父母、父母、わたし達夫婦、それに弟が3人の9人家族が同居していました。ご飯でも、大きなお釜に3升(4.5kg)くらいを一遍に炊き、おかずも大きな鍋にいっぱい炊いていたので、今考えると食事風景はまことに壮観と言えました。当時はこのような家族同居の生活が普通であり、同じ釜のご飯を一緒に食べて生活するという同族としてのきずなの意識が強く働いていました。ちまたに伝わる、農家生活での嫁と姑のかっとうの暗い面ばかりがとかく強調されがちですが、家族みんなが助け合い、いたわり合う心の流れが『貧しくとも楽しい我が家』の底辺にあることを忘れないで欲しいと思います。」と熱をこめる。
 最近の三崎町の農家生活では、結婚を契機に炊事場が別々になり、家庭経済も月給制となって、いわゆる近代的な若い人たちの生活が保てるようになってきた。若夫婦の生活がサラリーマン生活と変わりのない営みができるようになったのである。時の流れとも言えよう。
 **さん夫婦は、ご主人が42歳のときに、両親から「これからは、お前たちに世をまかすけん、やりくりを上手にやってくれよ。」と頼まれ財布を預かった。三崎では、とくに男性の42歳の厄年の年に生活の区切りをつける習しがあるようで、今でも毎年1月15日の成人の日には、42歳の厄年の人達全員が神社の境内に集まって、神前でのお伊勢踊りを奉納し、神官の祝詞、おはらいを受けることが恒例となっている。
 両親から経営権と生活権を移譲された**さん夫婦は、働き手のいなくなった高齢者の耕地を購入するなどして経営規模の拡大を図ってきた。農地の購入代金は、宅地に転換できる条件の良い畑を売って、それを補ったので、それほど生活上の経済には響かなかった。現在の経営面積は、早生伊予柑、清見タンゴール、サンフルーツを柱にその他の柑橘を合わせると3.2haの大規模経営になる。結婚当初の経営面積1.5haに比べると2倍以上の増加率であるが、その背景には、県立農業大学校を卒業した長男が、現在は地元の農協関係で技術職員として活躍中であり、近い将来「家業の農業を継ぐ」という明確な意志を持っていることが、両親の大きな励みとなっている。
 農家の主婦の生活時間について、「わたしは、陽の長いときには朝5時ころ起きて7時ころには山に出かけます。そして夕方は比較的早く5時には仕事を終えて帰るようにしています。わたしが本格的に農作業をするようになってからは、まだまだ元気な母が炊事などの家事を受けもってくれており、今もそのような生活が続いていますが、来客や何か事のあるときには、母が『お前にまかす』ということで、その際にはわたしが主婦としての腕を振るうことになります。」「就寝は10時か10時半くらいだから、日常生活での疲れはほとんど残りません。夏の農薬散布は、暑い季節に雨がっぱの完全防備で作業するのでくたびれますが、そんなときには翌日を農休日にして、八幡浜や松山まで買物に出かけ疲れを発散させます。結婚後しばらくしてからとった運転免許は農作業はもちろん、こんな時にも大いに役立っています。」と顔がほころぶ。
 今は昔と違って、農業をするにしても施設化・省力化も大分進んでいるので、専業農家であればそれほど主婦の力を当てにしなくとも、ある程度男子の労力でまかなえる経営環境ができあがっている。
 「農家の嫁不足という声もささやかれてはいますが、今の農家生活はそんなにみじめなものではありません。わたしの周囲の若嫁さんたちも、町内の縫製工場や農協などの臨時職員として勤める人も多く、何もしないで家に残っている人はほとんどおりません。そのうち家の経営や生活が自分たちの肩にかかり、責任を持たなければならなくなったときには、また新しい考えも生まれてくるはず。」古い世代を脱皮した、新しい時代の生活体験には説得力がある。