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宇和海と生活文化(平成4年度)

(3)真穴地域の新しい風

 **さん(八幡浜市真網代 昭和22年生まれ 45歳)
 **さん(八幡浜市真網代 昭和22年生まれ 45歳)

 ア 地域外からの花嫁

 真網代地域の人々の結婚は、昭和40年ころまではほとんど地元同志の間で話がまとまり、地域外との交流は少なかった。これはこの地域が、両隣の村からかなり離れており、宇和島バスの開通する昭和6年までは、海上交通に頼っていた立地条件によるものと、ミカン景気に支えられて地域の経済が安定し、農家生活も豊かであった関係から、嫁に出すなら、いつでも行き来のできる地元の若者へという生活習慣が続いていた。
 **さんや**さんが、真網代の農家に嫁いだ40年過ぎからは、ボツボツその結婚域が広がっていった。「真穴では、嫁を迎えるなれば地元の娘を……という志向が強く、わたしらもここへ来て一番先にそれを感じました。びっくりしましたなァーそれは。もう集落内全体が親せきと思えるほど、ここにも、あそこにも親せきがあって、はじめのころは、どこがどうなっているのか分からないままに、話のできにくいこともありました。今でこそ親せき関係は全部分かってきましたが、ここへきた当初は面くらいました。」と二人は声を揃える。
 いまでは、その反対に地元同士の縁組みはほとんどみられなくなり、真穴の娘さんたちも、どんどんよそへ嫁ぐ時代になってきた。大学進学や就職の関係で、地元に残る若い人達が少なくなったことにも原因がある。
 **さんは、高校を卒業してから2年間の銀行勤めの後、愛情に結ばれて真網代の農家に嫁いだ。農業経験は全くなく、八幡浜市内の街の生活からいきなり、ミカン農家の生活に入っていったのであるが、「わたしは農家に嫁ぐことには何のためらいもなく、両親も特別に反対はしませんでした。当時、同じ銀行員の方から声をかけてもらった人もいましたが、その気には全くなりません。わたしは、結婚は職業よりも人柄だと思います。いまの若い娘さんに話を聞いても、そのような答えが返ってきます。」農業で生きる人生に悔いはないという。
 結婚後の生活は、「部屋は別々にしてあるのですが、家族全部の生活は一緒です。このような生活の仕組みが真穴では普通でしたが、最近では結婚を契機に親子の生活をそれぞれ独立させる、という傾向ができつつあります。これまでは、親子の生活を別々にするということは、家庭不和のイメージが先立ってしまって、若い世代の別居ということは例が少なかったのです。わたしたちは子供の結婚に際して、そのようにさせたいと考えています。」農家生活の仕組みに、新しい時代の変化が現れはじめている。
 **さんはさらに、町の生活と農家の生活を体験した立場から、「わたしの場合は、最近でいう核家族のサラリーマン家庭に育ったため、ささやかな生活の中での親子のきずなは、すごく深い環境にあったと思います。いまは農家生活でも、そのようになってきましたが夫の育った時代には、親子のつながりや会話が少なかったと聞いています。そのことに原因があるのか、夫は家の中でも会話が苦手で嫌いです。その分、わたしがよくおしゃべりするので、つり合いはとれているのですが……。子供とのふれ合いについては、わたしは自分の生活体験からみても、会話が大切だと思います。」「経済面も、かなり早くから委されていたので、子供の教育費やおこづかいに気を遣うことはありません。両親からの口出しも全くありませんでしたので……。」
 農作業への取り組みについて**さんは、「わたしは子供が手元に居る間は、農作業は一番最後にしていました。子供のこととか、家の整理を先にして、残った時間で百姓をすると、割合開きなおっていましたので……。農作業は、薬剤散布の薬溶きなど楽な仕事から始めました。動力草刈機が出始めた時でもあり、草刈りは女の人の仕事となっていましたので、わたしも使ったのですが、いま思うと機械の取り扱い方が下手で、すごく時間がかかりました。いまでもことになりません。」
 そこには、農家生活に次第に融け込んでいく、主婦の姿が写し出される。
 **さんは、保内町の柑橘専業農家で育ち、学校卒業後は地元の農協にも勤めていた関係で、農家生活はよく知っていたものの、農作業の体験はほとんどない。それでも40年前後の農業は、「柑橘さえ作っていれば、十分暮らせる。」と言われていた時代でもあり、真網代のミカン農家に嫁ぐことに、何の抵抗もなかったという。ミカン景気のころは、農家の若者たちも生き生きと顔が輝き、作業服のまま腰に剪定鋏をぶら下げてネオンの街に出かけても、背広・ネクタイ族より、はるかに歓迎された時代である。
 **さんも「わたしの娘時代に乗用車が流行り始めたころ、農業用のトラックの他に、大きな農家では、みな乗用車の新車が入るようになり、ワァーと思って見ていました。」「わたしは学校を卒業すると同時に車の免許をとっていたので、それが結婚後、直ちに役に立ちました。真穴では、ミカンの収穫時期には人手が足りないので、大洲や野村、佐田岬半島あたりから、大勢の人手を雇い入れていますが、毎日家ごとに車で送り迎えが必要です。その送り迎えの役を、これまでの男手からわたしに移ったことで、『お前のお陰で助かった、助かった。』と父から大変喜ばれました。そのころ真網代では、車を運転する女の人がまだ少なく、カブの2輪車にもバリバリ乗っていたので、周りの人からおてんばに見られ、気がひけることもありました。」若妻当時の新鮮な活躍ぶりがくっきりと浮かぶ。
 家事や育児と農作業の関係については、「子供が小さくて家に居る間は、家庭のことにも気をつけて、家の中をビシッと片付けてから、山に出かけていたけれど、子供も大きくなり、生活も経営も全部私達の肩にかかるようになってからは、どうしてもミカン山を中心に物を考えるようになりました。ゆっくり山に出かけたのでは、何か主人に済まないような気がして、できるだけ早く家を出るようにしています。それで近ごろは、家の中の仕事はザッと終わらせてしまっております。
 日常生活の中で、この最近どうしても農作業が主体になるので、わたしは単なる労働者ではなかろうか、主婦では無いのじゃないかと思うこともありますが、ミカンの収穫作業の手伝いにきてもらっている、他の地区のおばさんたちの話を聞いていると、真穴の生活が恵まれていると言われるので、そうかなァーと自分で納得させています。」結婚20年を経たいま、家事と農作業のはざまの中で、新しい主婦の活路を模索する姿がうかがえる。

 イ 女が変われば、家族や地域も変わる

 女性の立場から、真穴の地域を望むとき、**さんと**さんは、「真穴としての収入方向は、やはりミカン所得が全部といえるので、少しでも高値を期待する気持ちがあります。やる仕事は毎年同じで、それだけ生産費もかかっているので、これが安値で取り引きされると気までめいってしまいます。
 真穴の農業の柱は、あくまでも温州ミカンと方針が立てられており、周囲からも妥当な線と評価されているのですが、このところの人手不足は深刻な問題でもあり、経営規模の大きい農家が多いだけに、この問題と、どう取り組むかが課題といえます。あまり面積を増やすことは、摘果作業などで苦労するので、これ以上増やすことはやめようと家でも話していますが、品種構成によって作型を分けながら、労力不足を補う方法を考えています。
 ミカン摘みの仕事にきてもらっている人達にも、このところ高齢化がめだち、新陳代謝がないままに雇用が続けられているので、人手の足りなくなることは、もう目の前まできています。おそらく、この人達の平均年齢も60歳の後半と思えますので……。」生活体験からくる鋭い観察眼には、男性とは違ったどう察がある。
 「後継者対策、嫁不足の問題も、結婚に際して一人、一人の生き方を認めるというか、大切にするというか、そのような雰囲気を地域全体で考えなければならないときです。例えば一人、二人がそのような生き方をしたいと思っても、なかなか思いどおりにいかない気質があって、真網代の地域全体がその気にならなければ、明るく住みよい社会に至りません。そのようにしたいと思っても、少数では何となく気づまりで、このあたりの風通しが良くなると、息子も娘も、ここに住みたいという気持ちになるのではないでしょうか。」
 「農業で生き、農村社会で生活するためには、もちろん農業生産が基本で大切です。しかし、生きるということが、それだけでは何か物足りない。話題もそう、生き方もそうです。人間としての思いが出せない社会の仕組みは、何であろうかと考えさせられます。一度、この社会から抜け出して、改めて真穴を見れば、そのような何かが見えるかも知れませんが、あまりこの社会からはみ出ると、『あの人は翔んどる。』と言われそうな気がして、ついつい……。」女も楽しく生きれる方法を考えたいという。
 平成4年9月、真穴青果農協婦人部の主婦たち一行は、インドネシア・バリ島の旅に出かけた。**さんも、**さんも、その一員に加わっている。真穴の柑橘導入百周年を記念した、新しい旅立ちである。
 この企画を立案した真穴青果農協の組合長は、「真穴地域の人々は、生産には力を入れているが生活を楽しむゆとりが少ない。日頃から苦労をかけている主婦の方々に、せめて真穴から離れて海外の空気を味わってもらい、そこから新しい風を送って欲しいと思った。このことが、地域全体の意識改革につながればと念じています。」とのこと。
 研修や視察ではなく、「楽しく遊んできなさい。」の組合長の言葉に、彼女たちの計画が進んだ。「ありふれた農業研修はしたくなかった。ショッピングツアーもしたくない。」これを省いて日数と経費を考え、バリ島に決めたという。**さんと**さんにそのことを尋ねると「バリ島は、単なるリゾートの島でなく、自然が豊かに息づいており、米作りも盛んで日本の農業とよく似ている。神々の宿る島として、それを大切にする心や絵画、彫刻の文化の島としても知られています。もちろんバロンダンスも有名で、必要最少限のショッピングも楽しめます。」何しろ真穴の主婦たちにとって、初めての海外旅行であるだけに、いろいろの情報や資料を集める時間も楽しかったという。
 旅行に際しては、主人も家族も心から賛同してくれて、送り出してくれたことが嬉しい。両親も地図を持ってきて、「バリ島は、どこにあるのか。」と一緒に探すほど、和気あいあいとした雰囲気が家中に流れた。
 バリ島の旅そのものも、すばらしかった。**さんは、「この旅行計画の話がでた時は、近ごろの海外ブームにあきれかえり、それほど行きたいとは思っていませんでした。それがみんなと顔を寄せ集めて資料を調べたり、現地の輪郭がだんだん鮮明になってくると、次第にその気になっておりました。期待以上に充実した、すばらしい旅行だったので病みつきになりそうです。口では簡単に言い表せない何かがありました。」
 バリ島の旅から帰った彼女たちは、思い出の旅行記を綴ろうということになった。楽しかった旅での思い出を、快く送り出してくれた地域の人々みんなに伝えたい気持ちからである。**さんはその手記の終わりに、「一歩外へ出たことにより日本を見直し、今後地球をとりまく、自然の大切さを教えられました。国内旅行とちがい未知の国へ行く不安と期待の半年でしたが、一堂に集まり、楽しみながら下調べもし夢のある毎日でした。一つの大きな楽しみを目標にすれば、仕事をしても楽しく計画的になり、ストレスもたまりません。一番は気持ちよく出してもらった家族があったからだと感謝しています。」と記し、「女が変われば、家族も、地域も変わる。」と結んでいる。
 これまでの真穴地域になかった、〝新しい風〟の香りがする。