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宇和海と生活文化(平成4年度)

(3)三崎の漁業の変容と近代化-共同組合運動の中で-

 **さん(三崎町串 昭和4年生まれ 63歳)
 **さんは3年前に三崎町漁業協同組合の参事を退き、今は串の区長をしている。小学校修了後吉田町の吉田工業機械科(現吉田高校)に入学し昭和21年卒業、卒業後は串に帰り自宅の段畑でイモやムギの耕作をしたり、ときに海に出て海士のまねごとをしていた。今と違ってイモ、ムギが中心の食生活であったから、女子を中心に30人ぐらいのメンバーで4Hクラブをつくり活動していた。昭和26年に漁業協同組合に腰かけのつもりで入ったが、結局40年間漁協で働くことになる。
 **さんは40年の漁協の生活と三崎の漁業の変容について話された。それを年代順にまとめてみるとつぎのようになる。

〇昭和26年(1951年)
 三崎町漁業協同組合に入る。当時は事務職員1名の組合であった。上司として加藤益太郎専務〔大正4年(1915年)生-昭和49年(1974年)没〕がいた。専務は愛媛県の水産業界では知名度も高くアイデアと実行力に富む人であった。この人のもとで漁協運動の基本と精神を教えられ鍛えられた。最初は簿記の学習を一から始めた。
 たった一人の事務職員から40年を経過した平成4年3月現在で33名の正規職員を持つ組合にまで成長した。加藤専務が口ぐせのように言っていた「仕事をふやし人をふやす」結果である。

〇昭和28年(1953年)
 佐田岬漁港第1次漁港整備事業指定。現在第8次(昭和63年より)。昭和26年に第4種漁港(避難港)の指定を受ける。

〇昭和29年(1954年)
 フグ延なわ漁船10t型7隻を建造。農林中央金庫の融資による。技術は山口県徳山市から導入。与侈(よぼこり)の漁民は昔からフグのシーズンになると船子として出稼ぎに行っていた。三崎の海士は10月にアワビ・サザエの漁期が終わると土木作業に出ていた。土木作業にかわりフグ延なわに乗り現金を得ながら技術を習得する。
 **さんらが発起人となって、漁獲物の漁協直販体制が確立。

〇昭和30年(1955年)
 鮮魚運搬船の小型化。従来の鮮魚運搬船を小型をし、機動性と省力化、効率化をはかった。

〇昭和32年(1957年)
 キンメダイ釣りの伊豆沖出漁開始。昭和29年に操業を開始したフグ延なわは一本釣り漁船としてはこの海域で使用ができない。フグの漁期は9月から2月までがシーズンである。シーズンオフの期間をどう転用していくか、大分県佐賀関からの情報を得て、フグ延なわ漁船の転用先として伊豆沖出漁が開始された。

〇昭和34年(1959年)
 静岡県下田に事務所開設。駐在員として4年間出向する。その後も交替で下田と三崎勤務をする。下田の船宿制度を廃除して、出漁者の給与を月給制とする。静岡信漁連とタイアップして系統送金制度を確立。

〇昭和40年(1965年)
 漁船のエンジン部門の鉄工部を設置。それまでは三崎の漁船は佐賀関で修理していた。漁民にとって待望の鉄工部の設置であった。

〇昭和42年(1967年)
 佐田岬突端の御島に蓄養場建設。アワビ・サザエ・伊勢エビを蓄養する。このアイデアは昭和32年に加藤益太郎専務と伊豆沖出漁の準備で下田に行ったとき、三崎では従来からカンヅメ用として出荷していたものが下田では鮮魚と同様高価で取引きされているのを知る。蓄養場をつくることで鮮魚同様流通させることができ付加価値を高め出荷することができる。漁家所得の向上になると考えた。

〇昭和49年(1974年)
 三崎町漁業協同組合事務所建築。昭和27年には漁協の事務所はできていたが、三崎の漁業の発展とともに事務所がてぜまとなり現在地に建築された。
 漁協の附属施設として水産加工場、水産倉庫等が逐次建設された。さらに与侈支所、明神支所、井之浦支所を設置する。名取、松、二名津、正野、串にも集荷所や倉庫を建設した。
 加藤益太郎専務58歳の若さで逝去。あとを受けて参事に就任。年齢45歳であった。

〇昭和55年(1980年)
 タチウオ釣り漁業の導入。佐賀関や広島の漁民から習得。この漁業はハマチ一本釣りと異なり周年操業が可能であること。技術の習得が容易であることなどから普及してきた。タチウオの水揚げも平成3年度で511,846千円で三崎の水揚げ全体の23.3%をしめ、三崎の漁業の中で大きな地位をしめ、漁家経済の安定に役立っている。

〇平成3年(1991年)
 漁協直営物産センター「漁師物語」オープン。

 三崎の漁業が大きく変容していくのは、昭和40年ころからである。漁業構造改善事業による資金が積極的に活用できるようになった。漁業生産手段の漁船、施設・設備の近代化に大きく役立った。漁業後継者が安心して花嫁を迎えるため、清潔で明るく住みよい住宅が必要である。農山漁村住宅建設資金の融資も漁協が窓口となって積極的に推進した。
 ソフト面では漁村の人づくり、後継者づくりである。昭和30年代に入り三崎では後継者づくりの一環として、宇和島水産高校に進学する生徒に対して奨学金を出す制度を設けた。その卒業生の一人は現在漁協職員として活躍している。その後水産高校への進学希望者がおらずこの制度は廃止された。それに変わって千葉県柏市にある全国協同組合学校への研修制度の活用である。今迄に5名が入学しており、現在も1名が留学中である。三崎漁協には1名を除いて4名が職員として活躍している。参事の**さんも三崎から留学した第1号である。祖父や父親の血を受け継いで、持ち前のバイタリティーで漁民の先頭に立って漁村の活性化に取り組んでいる。加藤益太郎氏がいわれた「前にあがるな、後を育てよ」という精神が今も脈々と受け継がれている。