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宇和海と生活文化(平成4年度)

(1)生活の舞台となった海

 **さん(三瓶町垣生 昭和3年生まれ 64歳)
 **さん(三瓶町周木 大正13年生まれ 68歳)
 宇和海は古来より漁業(イワシ網)の盛んなところである。中世には寛治4年(1090年)の「加茂社古代庄園御厨(みくりや)」の中に伊予国宇和郡6帖網、伊予国内海の御厨(⑪)の名がみえる。近世に入り、伊達秀宗が元和元年(1615年)に宇和島に入封した当時は、本網といわれるイワシ網が97帖存在していた(⑬)。宇和島藩には198ケ村内32ケ浦があり、吉田藩には里分52ヶ村浦分29ヶ浦が存在し、「海中より上る貢物を以て一方の御備二相成(⑭)」とあるように、豊富な宇和海の海の資源は両藩にとって重要な財源の一つでもあった。そのために漁業(イワシ網)に対し、厳しい規制とともに保護、奨励策をとっている。
 三瓶の浦々は宇和島藩から吉田藩の分封(明暦3年=1657年)によって、加室浦・下泊浦を除き吉田領となった。庄屋、村君などの浦の有力者が網を所有し、村びとは曳子として網元のもとで働いていた。「西海巡見志(⑮)」から寛文7年(1667年)当時の各浦の状況を知ることができる(図表1-3-8参照)。
 明治以降も江戸時代の慣行は踏襲され、地曳網や四つ張り網のイワシ網漁業が中心であった。網を持たない村びとたちは、背後の段々畑の耕作をしながら、イワシ網の曳子としての生活を余儀なくされた。
 垣生の**さんは、子どものころの想い出(昭和10年代)として、「父親も漁師であった。兄弟は7人であったから生活は大変でした。小学校4年から地曳網の網元のところで大人たちにまじって働いた。地曳網の場合、陸(おか)で網の綱をとらないかん。大きなわら綱を背中にしばられてとったものです。当時は時計が無かったが、秋のイモ掘りの時期は、あけの明星が出たら3時半から4時というように知っていた。あけの明星が出たらイモをゆでよといっていた。1時間ぐらいでイモがゆがけるので、5時半すぎにはそのイモを昼の弁当にして山仕事に出ていった。
 当時の村は半農半漁の生活であった。網元は海がよく見える山に登って、イワシが回遊して湾に入るのを待っている。魚がわいてくると大声で合図する。魚が多くわいているときは、『走れ!走れ!やれ走れ!』と気忙しく合図した。いまみたいに車の騒音もない時代であったので、マイクなしでも声はよく響いた。曳子たちは段々畑の仕事をやめて一目散に駆け降り浜に出て網を引く。あんまりイワシがわいていないが、ぼつぼつ網船を出そうとするときは、『走れ!』という声でなく、ゆっくりと『オーイ、オーイ』をくり返して合図を送っていた。
 当時は集落の背後の段々畑で、イモとムギを耕作する一方で、網元のもとで地曳網や四つ張り網の曳子として働いた収入が生活の支えであった。」と回想する。
 周木の**さんは、遠洋漁業のイカ釣り船(349t型、国際トン数1,096t)の船主であり、三瓶湾漁業協同組合長である。**さんも「私の小さいころ(昭和5年当時)の周木は非常に貧しかった。一本のタオルを家内中が使う。毎日洗濯する余裕もなかった。決して衛生的とはいえなかった。当時の周木の漁業は小船で沖に出てアマダイやタイやアナゴを釣る零細なものと、網元経営の地曳網があって村の経済を支えていた。周木にサバはね釣りが導入され、その収入によって、みるみるうちに家が新築され、家庭内の生活も豊かになり向上した。」とサバはね釣りが導入されるまでの村の状況を話された。

図表1-3-8 三瓶湾浦々の家数・船数・加子数・イワシ網数

図表1-3-8 三瓶湾浦々の家数・船数・加子数・イワシ網数

「西海巡見志(⑮)」、「三瓶町誌(⑯)」より作成。