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宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)沿岸から沖合へ、そして遠洋へ

 **さん(三瓶町安土 大正4年生まれ 77歳)
 **さん(三瓶町周木 大正13年生まれ 68歳)
 三瓶の漁業が明治以降も湾内のイワシ地曳網を中心に営まれている。四つ張り網は沖合に漁場を拡大していく。明治10年(1877年)には二及(にぎゅう)の宮本善吉がサバ釣りで土佐沖へ出漁した。明治15年(1882年)には二及の清水久松が韓国巨済島へ出漁。明治35年(1902年)にはカジキマグロの突棒漁業が対馬近海へ出漁、その後台湾へ移住し台湾での突棒漁業が行われている。明治41年(1908年)には朝立の朝井猪太郎によってカムチャツカ半島西岸のコルサコフ付近でサケ漁が開始されている。サバはね釣りの屋久島沖→済州島沖→東支那海への出漁。大型巻き網の東支那海出漁、遠洋マグロ漁業のサモア島への進出。昭和47年(1972年)金重水産の遠洋イカ釣り漁業のニュージーランド近海漁場への出漁(図表1-3-9参照)と沿岸から沖合へ、さらに遠洋へと進出していく。
 八幡浜市のトロール漁業、西海町中浦の巻き網漁業、城辺町のカツオ一本釣漁業とともに、三瓶も沖合・遠洋漁業の母村として有名である。
 戦前から戦後にかけて、三瓶湾漁業の推進役であった**さんと**さんから当時の状況について話を聞くことができた。**さんは「昭和13年(1938年)ころ周木の吉岡惣右衛門の朝日丸に乗り、屋久島沖でサバ釣りに従事した。当時はまだ天秤釣りであった。土佐沖のサバ釣りから屋久島沖漁場の進出は、昭和6・7年(1931年~1932年)である。田中善左衛門さんが当時3tか4tの船で、宮崎から沿岸伝いに南下して佐多岬まで行き屋久島に到達した。屋久島漁場を知ったのは、二及の機帆船が鹿児島に行っており、鹿児島港にサバが水揚げされている。聞けば屋久島の一湊(いつそう)沖で釣ったサバとのこと。二及に帰った機帆船主から、その話を田中善左衛門さんが聞き出漁した。当時としては遠隔地で全く未知の土地であった。善左衛門さんの果敢な出漁が契機となって、その後の三瓶のサバ釣りが発展してくる。サバ釣りの隆盛の基を築いたのは善左衛門さんである。田中善左衛門さんの事績がどこにも記録として残されてないことは残念である。」と話された。
 サバの天秤釣りから、サバはね釣りの転換についてのエピソードとして、「昭和24年(1949年)まで屋久島沖のサバ釣りは天秤釣りであった。昭和24年に静岡県焼津の漁船が、われわれが操業している漁場に来はじめた。わたしどもが天秤で2尾ずつ釣るのに、焼津の連中は棹を海につけて遊んでいるとしかわれわれの目には映らなかった。われわれが釣っているそばを餌を撒きながら追い越して行く。三瓶の天秤釣りは潮布といって、布を海中に入れる。浮子(うき)をつけ重(おも)りをつけ、潮を受けて、潮の流れと船とが同じ状態で進みながら釣りあげる。焼津の船は潮布を入れない。トコトン、トコトンとエンジンをかけてスロー・スローで進んで行く。わたしたちは潮に流れ、彼らは潮にのぼって行く。焼津の船は夜中過ぎになると鹿児島に向けて走る。病人でも出たのかと思っていたらそうでもない。翌日には漁場に帰っている。焼津の船は鮮度のよい餌を撒くから、われわれの船に付いていた魚まで向うの船に入ってしまう。そこを棹でパッパと釣りあげる。そして鹿児島へ帰って行く。同じことを毎晩くり返していた。調べてみれば毎晩満船にして市場へ運んでいることが分かった。
 当時わたしは朝日丸の甲板長であった。船主の吉岡惣右衛門さんが三瓶の天秤釣りは旧式だということで、焼津のサバ釣りの船頭を迎え漁法や技術を習得した。これが三瓶におけるサバはね釣りの始まりである。」済州島周辺海域への出漁について、「鹿児島の串木野のマグロ船から餌となるサバが済州島東側40マイルの海域でよく獲れるという情報を得て出漁するようになった。昭和26年(1951年)から千葉、静岡、茨城の船が一斉に集まってきた。徳島県も水産試験船がやってきた。
 昭和25・26年は朝鮮戦争の真っただ中であったが、戦争が終結して昭和28年(1953年)に韓国の李承晩(リショウバン)ライン宣言があり、昭和30年(1955年)8月5日僚船である第3朝日丸とカジキマグロ突棒船第11西喜丸がだ捕されるという事件が発生した。当時わたしも沖にいて韓国警備船に追跡された一人である。」
 韓国船によるだ捕事件について、当時三瓶湾漁協の組合長であった**さんからその状況を伺った。「当時11隻のサバはね釣り漁船が済州島周辺海域で操業していた。朝10時ころ無線局から船がだ捕されたからすぐ来てくれとの連絡を受け、急いで行ってみると、『今、韓国の監視船が来た』という連絡を最後に無線が切れた。その後55名のものが2年8か月を超える長期の抑留となった。抑留中に一名が死亡するという不幸な事態を招いた。」
 リショウバンラインの設定で、昭和30年(1955年)から東支那海に出漁するようになった。**さんは「ものすごくサバが集まってきて釣れるんです。100tクラスの船が、サバで持ち上げられるような感じがするんです。飛んで行けばサバの上を歩いて行けそうな、そんな感じでした。わしも船頭冥利につきるなあという気持ちでした。しかしそんな大漁の情報はすぐ知れ渡ります。昭和33年ごろだったと記憶しますが、水産庁の試験船といって長崎県の巻き網がやって来た。そしてわれわれが釣っている漁場を網で巻いてしまう。網を巻いたから出て行けという。なに言うかと、まさに血の雨が降るようなけんかもありました。相手は水産庁のお墨付きを持っているので仕方なく退いた。済州島周辺の巻き網漁船も締め出されており、結局東支那海漁場は巻き網船に占領されるようになった。巻き網との競争では、市場へ水揚げする回数、鮮度、価格の面で負けてしまう。昭和35年(1960年)には三瓶のサバはね釣りは東支那海から姿を消した。」
 **さんは「周木のサバはね釣り業者らが、漁船を大型化したいとの強い要望があった。政府の制度資金を導入し、木造から鋼船で100t程度の船を造っていった。サバはね釣りで鋼船を建造したのは三瓶で、日本では最初であった。1隻50人が乗り組み、一番多いときは12隻で600人ぐらいがサバはね釣りに従事していた。東支那海からの撤退で、それらの船員をどう転換させるかが大きな課題であった。その時分、遠洋マグロはえなわ漁業が脚光を浴びていた時代であったので、サバはね釣りから遠洋マグロはえなわ漁業に転換をはかった。当時は難しい許可条件があり、日本では許可が取れないので、1隻は沖縄を基地に、1隻はサモアを基地に出漁した。ところが2隻とも遭難してしまった。出ばなをくじかれた思いでした。その対策に忙殺されていましたが、引き続き1隻が遭難し60人にのぼる人間が船と運命を共にした。」
 丁度そのころ、昭和35年に青森の八戸に新しくサバはね釣り漁船(39t型)10隻が建造された。神奈川、静岡、愛媛のサバ船団の活躍をみて八戸でもサバはね釣りを導入したのであった。三瓶ではサバ釣り船の船員の処遇に苦慮していた時代であったので、八戸からの呼びかけに、八戸の10隻の操業を引き受けた。
 **さんは「サバ船団の船団長として、三瓶から300人の船員を連れて八戸へ行った。八戸沖、伊豆七島、銚子沖を漁場にして操業した。昭和38年(1963年)まではある程度の成績をあげられたが、昭和40年(1965年)になると収益があがらなくなった。」と回想する。
 「八戸へ行った船員の将来について、船団長としての責任がある。いろいろ模索しているうちに、イカ釣りをやろう、それも画期的なものを作ろうと考えた。当時のイカ釣りといえば40tから50tの船であった。それを400t級の鉄鋼船で冷凍機を装備する。日本の近海のイカ釣りのように毎朝市場に水揚げしていたものを、満船になるまで1ヶ月でも2か月でも操業すれば、50tクラスの漁船の燃料費も400t級の船の燃料費も変わらない。50tクラスの漁船では魚価が市場価格に左右されやすい。わたしのところでは高価格のときに、市場に出荷できる有利さがある。400tクラスに大型化しても十分採算がとれる。」ということで昭和47年(1972年)より南太平洋のニュージーランド沖で遠洋イカ釣りを開始した。漁場はニュージーランド沖からアルゼンチンのフォークランド沖、現在はペルー沖である。
 大型巻き網漁業について**さんは、「漁協を中心として設立された三瓶漁業生産組合は、遠洋マグロ漁船の2隻の遭難事故で経営不能になった。わしは責任を取って組合を引き、生産組合の負債整理にかかわった。三瓶が生きていく道は海であり、大型巻き網でやらざるをえん。国の許可を得て、資金援助も受け巻き網漁業に切り替えた。ところが漁労長が遭難するという不幸があり、それも2隻であった。万策つきて昭和30年代の10年間は、その後仕末に忙殺されました。私が組合を引くときに、将来の三瓶の漁業は養殖になるであろう。債務を漁協から切り離せば三瓶は養殖で生きられるという見通しがあった。わたしの方は生産組合にいて負債整理に忙殺されながらも、なんとか巻き網を続けていた。昭和51年(1976年)に負債整理もでき一段落した。三瓶漁業株式会社を設立して新しく出発した。今も福岡を基地として東支那海で操業している。三瓶に本社を置いている関係でこちらの需用費ぐらいは三瓶でまかなおうということで、三瓶にも巻き網漁船をつくった。現在、三瓶には宇和海を漁場とする巻き網は3会社で操業している。
 東支那海の大型巻き網は、本船135t、運搬船が3隻で750t、附属船が130t、総トン1,000tである。乗組員は以前は80名ぐらいいたが、省力化が進んだ現在は60名になっている。三瓶の巻き網は本船69t型、附属船45tが2隻、運搬船150t、探索船を入れると5隻が1船団をつくる。三瓶では乗組員は30名である。」と三瓶の巻き網船団形成の経緯について説明された。
 宇和海でも八幡浜を中心とする八西地域は、全長15mほどの打瀬船(帆に風を受けて進み網を引く底曳網漁船)でアメリカに密航した地域である。八幡浜市穴井は移民によって成功した人たちの送金や帰国者で「アメリカ村」と呼ばれるほどであった。
 村川庸子氏は『打瀬船物語 アメリカの風が吹いた村』の中で、「彼らの持つこの進取の気性、旺盛な好奇心、海辺の村特有の解放性は、移民や密航者を生み出す第1条件であった。(⑰)」と述べている。もちろんそれだけで密航や移民が行われたのではなく、この地域の経済力も条件として除くことはできないが、村川氏のいわれるように、進取の気性の強い地域である。この地域を歩き、人びとから話を聞いて感じることは、この地域の人びとには住吉や宗像の神を祖神にもつ海人の血、藤原純友や中世以降活躍した八幡船の血を受け継いでいるように思えるほど海洋民としての気慨というものをもっている。

図表1-3-9① 三瓶湾漁業の沖合化・遠洋化過程

図表1-3-9① 三瓶湾漁業の沖合化・遠洋化過程

「三瓶町誌(⑯)」及び**氏、**氏から聞きとりにより作成。

図表1-3-9② 三瓶湾漁業の沖合化・遠洋化過程

図表1-3-9② 三瓶湾漁業の沖合化・遠洋化過程

「三瓶町誌(⑯)」及び**氏、**氏から聞きとりにより作成。