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宇和海と生活文化(平成4年度)

(4)海への感謝と鎮魂の碑

 **さん(三瓶町安土 大正4年生まれ 77歳)
 昔から「板子一枚下は地獄」といわれているように、海に生きる人びとにとって「おそれ」の場所であるとともに、海はまた豊じょうをもたらすところである。果てしなく広がる海の彼方に幸がすむというあこがれの場所である。交流を通して異文化を知り、生活を高め築いてきたところである。海にすむ人びとにとって海こそわが命である。そのために海に対する敬けんな祈りや感謝の心は、魚や貝やクジラに対してまでその霊を信じ供養してきた。
 佐田岬半島から宇和海沿岸にかけて魚の供養碑として、三崎町串の其田惣治さんが個人で建てたもの、瀬戸町三机の魚霊碑(写真1-3-12参照)、八幡浜市諏訪崎の魚霊塔(写真1-3-11参照)、三瓶町下泊の魚霊塔(写真1-3-14参照)があり、真珠養殖の発展で宇和島市にはアコヤ貝の供養碑もある。クジラの供養としては、三崎町の鯨(くじら)地蔵(⑨)、瀬戸町三机、小島、川之浜の鯨塚(⑲)、明浜町高山の金剛寺の「鱗王院殿法界全果大居士」のクジラの位牌をはじめ、楠ノ浦、碆ノ手、子持岩の鯨供養碑(⑳)、西海町の飛場鯨之塚(㉑)がある。

 ア 勢観世音菩薩(須崎観音)

 三瓶町には三瓶湾をやくすように北の須崎に須崎観音(写真1-3-13参照)が、下泊の柏崎に魚霊塔(写真1-3-14参照)が建っている。須崎観音建立の経緯について**さんはつぎのように話された。「第2次世界大戦後、三瓶にも外地から若者が帰ってきた。当時、三瓶の漁民は一時期1,400人から1,500人いた。三瓶が生きる道は、戦前もそうであったように、戦後も海しかない。沿岸では伝統的な小釣りや四つ張り網があったが、四つ張り網は巻き網に転換していった。三瓶漁民の進取な気性は、突棒漁業、サバはね釣り漁業が沖合から遠洋へと進出し、また隆盛をきわめてくるようになった。ところが、昭和38年(1963年)に韓国のリショウバンライン設定で、三瓶の漁船2隻がだ捕され、抑留中に一人が死亡するという不幸な出来事があった。また、サバはね釣り漁業の転換策として、昭和37年に1隻、38年に1隻の計2隻で遠洋マグロ漁業に出漁したが、2隻とも遭難し一度に60人の人命が船と運命を共にするいたましい事故に遭遇した。
 わたしは三瓶漁業生産組合の負債整理が終わったので、遭難した人たちの霊を弔うことがわたしの責任と考えた。昭和51年(1976年)になりますと、わたしのところの巻き網もなんとか格好がついていましたし、三瓶の海運業も順調であり、漁協の組合員の養殖も軌道にのったときでした。皆さんの協力で奉賛会を組織して資金集めをした次第です。
 観音像建立の目的は、三瓶の人びとの極めて旺盛な進取の気性が、三瓶の漁業や海運の発展につくし現在があるのです。その陰には船と運命を共にした殉職者や異郷で志なかばで他界していった人びとがいる。その人びとの鎮魂と供養、さらには船の航行の安全と漁業の繁栄を願ったものです。とともに、三瓶というところは、時代の盛衰の波はあっても、いかなる形にしろ未来に向かっても海で生きていかねばならぬ土地柄です。であるならば、海に生きる若者が、仕事が調子よくいっているときは観音さまをみて、過去に三瓶にはこんな悲惨な歴史があったことを想い、また逆に苦境に落ち入ったときは、先輩たちはその苦境を乗り越えて進んでいったことを知ってもらいたいという願いが込められているのです。」と話された。人生の修羅場をくぐってきた**さんの目にうっすらと一すじ光るものがあった。
 観音像の開眼法要は昭和51年(1976年)9月20日、臨済宗妙心寺派の総本山の管長梶原逸外老師の許で厳粛かつ盛大に挙行された。
 調査で須崎観音に参詣した際、駐車場から頂上の観音堂までの参道、観音堂のある敷地内には、塵やジュースの空かんも落ちていない。昭和51年の建立から17年もたっているのに整然として清掃がいきとどいていているのに大変感心させられた。そこに居合わせた人に聞けば奉賛会会長の**さんの巻き網漁業の職員が、毎朝やって来て観音堂のとびらを開き、清掃して帰る。夕刻日没前に再びきてとびらを閉めるのだという。365日これを続けることは大変である。**さんや担当の日下さんに頭がさがる思いであった。境内には三瓶町出身の詩人、宮内雲子さんの「須崎観音讃歌」の詩碑が建っていた。

   あまねく宇和海を見わたして
   いつくしみの眼差し
   聖観世音大菩薩
   海に眠る霊を御胸に抱き
   永遠の安らぎに導き給う
   海に生きる人々の
   心の驕りを戒め
   日毎の航海能安全を守り給う
   ああ鐘の音よ波に散って
   御仏の慈悲を海に伝えよ
   ああ鐘の音よ潮風に溶けて
   遥かなるひろがりを 
   御仏の慈悲に満たせ

 イ 柏崎の魚霊塔

 須崎観音が昭和51年(1976年)に建立されたのに対し、下泊柏崎にも立派な魚霊塔が建っている。この魚霊塔は昭和57年(1982年)10月に須崎観音像に続き建立されたものである。この二つの像と塔は三瓶湾に出入する船舶からも仰ぎみることができる。魚霊塔の高さは8mで、台座の高さ1mである。魚霊塔建立之碑につぎのように記されている。

   海に生きる精神が築き上げた道標は語りつづける……
   宇和海がいつまでも美しく、豊かで、そして永遠であることを!
   我々は海の恩恵に感謝し併せて後世までの豊漁を祈願し、魚貝類の霊を供養するものである。
   五台の石像は、北太平洋、南太平洋、北大西洋、南大西洋、北極海、南極海、インド洋の七つの海を……
   前面の球体は、我々自身の中に存在する心なる海を……
   全体に敷き詰めた玉石は、海に生きる多様な生命を……
   中央の空隙は、魚霊の供養、豊漁の感謝を祈る合掌と、魚の形態を象徴したものである。

写真1-3-11 八幡浜市諏訪崎の魚霊塔

写真1-3-11 八幡浜市諏訪崎の魚霊塔

平成11年8月建立。平成3年11月撮影

写真1-3-12 瀬戸町三机の須賀公園の魚霊碑

写真1-3-12 瀬戸町三机の須賀公園の魚霊碑

昭和50年10月建立。平成4年8月撮影

写真1-3-13 須崎の標高90mの頂上に建つ勢観世音菩薩(須崎観音)

写真1-3-13 須崎の標高90mの頂上に建つ勢観世音菩薩(須崎観音)

昭和51年9月完成。身丈3.3m、総高11.5m。平成4年8月撮影

写真1-3-14 下泊柏崎に建つ魚霊塔

写真1-3-14 下泊柏崎に建つ魚霊塔

昭和57年10月建立。石材大島石、本体高さ8m、台座高さ1m。平成4年8月撮影

写真1-3-15 須崎観音の眼下の三瓶湾から出漁していく巻き網漁船

写真1-3-15 須崎観音の眼下の三瓶湾から出漁していく巻き網漁船

手前は養殖いかだ。平成4年8月撮影