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宇和海と生活文化(平成4年度)

(3)宮崎で活躍する県出身者

 宮崎県愛媛県人会の幹事の方々からお話をうかがうことができたが、種々の事情から充分な時間が取れず、以下のような形で簡略にまとめた。(アイウエオ順)
 
 **さん
 富土屋呉服店経営、北宇和郡津島町出身。父が同町の呉服店の支配人であったが、昭和2年に独立して宮崎に店舗を構えられ、市内でも伝統のある呉服店として現在に至っている。ご自身は2代目になり、戦時中は疎開で郷里に帰り、松山経済専門学校(現松山大学)を卒業した。
 
 **さん
 京屋呉服店経営、東予市国安出身。父は製紙業(和紙)であり、ご自身も戦後すぐの時期には周桑和紙協同組合の組合員であったが、斜陽産業となりつつあったため転業を考えた。親戚が行商で宮崎とつながりがあったためこちらに来て、呉服店を開業した。昭和27年に高鍋市に最初の店舗を開き、宮崎の各都市に支店をだして兄弟を分家させ、ご自身は昭和29年に宮崎に店舗を構えた。
 
 **さん
 栗林茶舗経営、南宇和郡内海村出身。父の代に油津(日南市)がまぐろ漁でにぎわっていたため、(母方の実家が酒造業であることから)漁期の間のみ酒の販売に来ており、昭和8年に油津に定住した。戦後、ご自身の代になって、宮崎が茶の名産地でもあったので、将来性を考え現在の商売を始めた。すでに祖父の代(大正年間)に、内海で作ったすいか等を宮崎に発動機船で運んでいた話も聞いており、対岸なので昔からある程度の行き来があったと思われる。
 
 **さん
 信楽酒店経営、西宇和郡保内町出身。父は酒造労働者として延岡の酒屋に勤め、その後独立して酒の販売を手がけ、昭和12年に宮崎市に店舗を開いた。ご自身も戦時中は疎開で郷里に帰り、郷里の小学校を卒業した。また戦後、焼失した店舗や仕入れ資金のために、父は宇摩郡方面までタバコの買い付けを行って、八幡浜方面に売りさばき、資金を蓄えた経験もある。
 
 **さん
 元公団職員、会社役員、南宇和郡御荘町出身。父が宮大工として、宮崎に移りご自身は宮崎商業学校を卒業後、公団職員になられた。
 
 **さん
 宮崎米商監査役、宇摩郡土居町出身。祖父は庄屋であったが、保証人になって借金の担保として土地を無くし、父は下関で人力車夫もして資金を貯め、宮崎県が人材誘致を進めた際にこちらに来て、昭和2年より精米所を経営するようになった。その後酒販売も手がけ、ご自身は2代目として会社経営にあたり、現在に至っている。
 
 **さん
 村上漆器仏具店経営、越智郡吉海町椋名出身。明治末期、祖父の代、漆器行商から宮崎市内に定住して現在に至り、市内でも老舗の一つである。ご自身は宮崎商業学校を卒業し、3代目にあたる。
 
 **さん
 山崎株式会社会長、宇摩郡寒川村(現伊予三島市)出身。大正年間に父が製紙業者(和紙)として、こうぞ・みつまた・木のり等の原料と水の豊富な穂北(ほきた)(現西都市)に定住し苦労の末に製紙会社を興した。長男が製紙会社を継ぎ、次男の**さんは紙関係製品の卸し販売を中心とする現在の会社を昭和28年に創業した。その後、文具、ファンシー用品、事務・OA機器等の小売販売にも進出し、現在は宮崎市内に本社を置いて、関連業種の中での大手企業となっている。
 
 上記のほとんどの方が現在会社・商店を経営され、商店の多くは宮崎市内で最大の繁華街である橘通りに店舗を構えている(口絵参照)。また県や市の商工会議所・商店振興連合会等の理事等の役職に就いておられる方も多く、宮崎県の商業界では、多くの本県出身者が活躍していると言えるであろう。宮崎県では、明治時代に各県から開拓者を募集して未開拓地の開墾を進め、その中には愛媛県出身者も多かったとのことであるが、明治末期から昭和初期にかけては(漆器・反物等の)行商、製紙業(日向杉の間伐材を使い藩政時代から発展)、酒造等の関係で宮崎に定住され、商業面で成功された方が多いようである。県人会の大部分は2代目の方が多く、それより以降の世代はやはり愛媛県に対する親しみは薄く、県人会としては高齢化が進んでいる。また創業時のご両親やご自身の思い出として、「とにかく朝星夜星でひたすら働いて……」という刻苦勉励ぶりと、新しい事業に取り組む進取の気性が印象的であった。「伊予人の通った跡は草も生えぬ」という言葉は宮崎県にもあり、県人にはいい意味での商売人根性と緻密(ちみつ)さは確かにあるように思われるとの話であった。また、愛媛県とのつながりとしては、「ひやじる」料理があげられた。「ひやじる」は、本県南予地方の郷土料理の「さつまじる」とまったく同種の料理である(なお宇和島以南では同じく「ひやじる」と言う)。
 宮崎と愛媛のつながりはこの他にもあると思われ、また各個人の聞き取り調査においても、まだまだ掘り下げる余地が多いが、今回は充分な時間が取れなかった。この他にも、大分県の商業界でも多くの県人が活躍しておられるとのことであるが、日程等の都合で調査出来なかった。九州東部各県のつながりは、陸上交通が発達せず宇和海が交通の中心であった明治から昭和初期にかけてが最も盛んであったが、「西瀬戸経済圏」として新たなつながりが生み出されようとしている現在、その交流を明らかにすることは、大きな意味を持つと思われる。今後、さらに研究が深められていくことを期待したい。