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宇和海と生活文化(平成4年度)

(1)トロール漁業(沖合底びき網漁業)

 ア 八幡浜の漁業とトロール漁業

 漁業権者としての、市漁業協同組合に関係する漁業種類別では、小型底びき、巻き網、一本釣り、養殖漁業の水揚げが多い。
 これに対して、太平洋沖合を主な操業地域とする、沖合底びき網漁業(通弥中型トロール)は、八幡浜漁業を支える大きな柱であり、その業者は日本西海漁業協同組合に所属する。4統8隻(2隻で1統を構成)が八幡浜を根拠地とし、他に西海組合に所属する船としては、6統12隻が宮崎・高知・鹿児島を根拠地として太平洋海域で操業し、八幡浜に水揚げする。さらに11統22隻が、中間区・以西区として佐賀・福岡・山口を根拠地とし日本海海域で操業をするが、八幡浜への水揚げは、ほとんどない。この組合所属の経営者の出身のほとんどは八幡浜であり、県内での沖合底びき網漁業はすでに八幡浜以外は残っていない。
 八幡浜市卸売市場における、沖合底びきの水揚げ量の占める割合の大きさがわかる。また、昭和29年に沖合底びき業者が16統あった時期の、八幡浜市内のみの漁獲高を見ると、特に中型機船底びき網(当時の名称で、現在の沖合底びきのこと)の圧倒的な数値の高さが分かる。このような高い漁獲高を基盤として、後述の八幡浜のねり製品(かまぼこ)業や出荷業が発展し、またその流通・加工の発展が、水揚げされた魚は必ずさばかれ、しかも高値安定という八幡浜魚市場の繁栄を生み出してきたのであろう。

 イ トロール漁業の沿革

 トロール漁業はイギリスにおいて発達したもので、日本へは明治40年(1907年)前後に導入された。しかし、八幡浜の通称「中型トロール」は、正式なトロール船ではなく、「機船(きせん)底びき網漁業」(沖合底びき)として発展したものである。「機船底びき」とは、トロール漁業の技術を取り入れながら、明治末期から大正初期にかけて手操網(てぐりあみ)漁船を中心にした漁船の動力化(機船化)の試みから生まれたもので、大正2年(1913年)の発動機による網の巻揚機(まきあげき)の発明完成により島根県から本格的な操業が始まった。さらに大正9年(1920年)に二艘曳(そうび)き漁法の操業が島根県から開始された(⑧⑨)。
 八幡浜市向灘(むかいなだ)集落(昭和5年まで矢野崎村)は、打瀬網(うたせあみ)漁業がさかんで宇和海の打瀬船のほとんどを占め、大正4年(1915年)には30余艘を数えたとある。しかし船の大型化・大規模化の必要性が増す一方、帆船であるため利益があがらず、新たな方法が模索されていた。この中で、大正7年(1918年)に八幡浜真穴(まあな)集落(当時真穴村)の柳沢秋三郎が前述の一艘曳き機船底びきを導入し、さらに大正11年(1922年)に二艘曳きを操業し成功を収めたため、向灘の打瀬網業者の多くがこれに転換したのである(⑧⑨)。現在の中型トロール(沖合底びき漁業)の船主の多くが向灘出身である。
 (余談であるが、打瀬船はこの地域の大正~昭和初期におけるアメリカ密航のため、太平洋横断に使われることが多かった。また柳沢氏もアメリカへの出稼ぎ労働で資金を獲得した(⑩)。)
 しかし、その後の全国のトロール漁業の歴史は、その効率的方法による魚資源減少を心配する沿岸漁民の人々との紛争と、それに伴う政府の操業規制の連続であった。すでに大正13年(1924年)には、政府は(東経130度以西での)新規許可・代船建造を禁止し、取締りを強化し始めたが、当時西宇和郡管下で許可21統、無許可10統の業者があった。その後も衝突が相次ぎ、愛媛県内でも昭和2年(1927年)の許可数40統が、昭和3年(1928年)に10統に整理されることになった。昭和5年(1930年)にさらに取締規則が強化され、昭和12年(1937年)の「大整理規則」により全廃の方針が打ち出され、八幡浜の底びき船も違反等のため次々と操業許可を取り消されていき、昭和15年(1939年)に完全に消滅した(②⑧⑨)。
 ところが、昭和19年(1944年)に第2次世界大戦の激化で深刻化した食料不足対処のため、再び機船底びきを許可することとなり、7統が復活した。戦後、申請により業者は著しく増加し、昭和23年には(宇和島等も含め)27統・54隻にまで増加したが、再び沿岸漁民との対立が再燃しはじめたので、国の減船処置により29年に16統、32年に10統、43年に4統となり、現在に至っている(②⑧⑨)。なお、漁期は昭和7年(1932年)から操業禁止期間が定められ、さまざまな曲折を経て、現在は9月1日から4月30日までの操業となっている。

 ウ トロール漁業の内容と生活

 (ア)ねり製品(かまぼこ)製造との関係

 八幡浜市魚市場における水揚高の上位魚種は図表2-3-12の通りである。このうち中型トロールによる漁獲魚種は、エソ、カワハギ、タチウオ、イカが主である。これに対しねり製品の主原料魚種を見ると、エソ、タチウオが中心で、双方の関係は非常に深い。図表2-3-14で、昭和26年前後の数値を見ると、その関係はさらに深いものであったことがわかる(現在のねり製品業界では、後述のように冷凍すり身を利用するようになったため、トロール漁業の漁期に左右されず、製造をしている。)。

 (イ)トロール漁船船主と乗組員の生活

 日本西海(せいかい)漁業協同組合(参事、**さん)と、船主で共栄(きょうえい)水産・泰宝(たいほう)水産代表取締役**さん(八幡浜市向灘 大正13年生まれ 68歳)を通じて聞くことのできた内容を以下にまとめてみた。
 「向灘では、みかんとこのトロール以外に、生計を支える方法がないため、いろんな規制が合ったにもかかわらず、県内で唯一沖合底びきが残ってきたのでしょう。
 乗組員の構成は、1統21名で(漁撈(ぎょろう)長を除き)1隻10名です。船主(経営者)が当組合の組合員ですが、現在では船に乗り組む方はおりません。漁撈長が全責任をもって漁をします。

  沖合底びき網漁業1統の組織
    漁撈長(1名)―→船長(1名)→機関長・無線局長・甲板長→甲板員・機関員
           └→船長(1名)→機関長・無線局長・甲板長→甲板員・機関員

 乗組員は、操業禁止漁期(5月1日~8月31日)は網造り等で他の漁協で働くか、タンカー船に乗り組む等して、アルバイトをしている者が多いようです。漁期の時期は、月2日の休みで後はずっと船に乗り、ワッチ(当直)も寝るのも交代で、船はずっと動かしています。高知沖の漁場で5~6時間、鹿児島沖で15~16時間片道にかかりますが、ほとんどが『中2日』『中3日』で八幡浜に帰ってきます(中2日とは実際に漁を行う日で、鹿児島沖での操業であれば、出港から帰港まで約4日)。網は1日8回入れ、網の引き揚げは巻揚げ機なので手間がかかりませんが、最も人手がかかるのは船内での魚種ごとに分けて箱詰めする選別作業です。乗組員の出身は、西宇和郡を中心に南予一円からですが、県外を根拠地とする漁船は、他県出身者も何名かいます。給与等で配慮はしていますが、漁期にはなかなか休みがとれないため、しんどい仕事であるのは確かで、乗組員の高齢化と人手不足が、これからの問題点としてあげられます。しかし、八幡浜の水産業を支える柱としての自負を持って、今年も9月1日に向灘の基地から多くの人に送られて出港していきました。(口絵参照)」
 「昔、船を造るには、今のような系統的な金融機関もなく、村の者どうしで無尽講で、十数人が集まってお金を出し合い、誰かが代表に選ばれてやった。東北地方のような、有力者や資産家が(自分では働かず)資金をだしてやらせるという『白タビ漁師』はなかったようです。昔の打瀬船や初期のトロール船はそうやって造ったんです。戦後しばらくしてから、農林漁業金融公庫や漁業協同組合等が整備されてきて、条件が整えば融資を受けられるようになり、漁船の購入や代船建造が、戦前に比べれば大変やりやすくなりました。そのかわり一隻当りの建造費が高いので、金利払だけでも大変です。2年前に建造した会社では、一統(2隻)で6億円かかったようです。現在は公庫より8割の融資を受け、2割が自己資金で、14年ほどかかって払い、払い終わった頃にまた代船を造ることになります。
 昭和の初めからの政府の政策で沖合底びきは一度消滅した。ところが戦時中の食料増産のため、それまでの農林大臣の認可が知事権限に移って、許可数が増えた。戦後水産庁に再び権限が戻ったが、今までの許可を取り上げることもできず、新たにそれを認める形になりました。昭和23年頃で愛媛県で50数隻あった。ところが再び様々な事情から水産庁の規制が厳しくなってきて、減船をどうするかということが、非常に大きな問題となってきたんです。
 わたしが会社役員になった昭和30年頃、政府の規制で減船が焦眉の急になってきたが、ただ止めるわけにもいかんので、合併しようじゃないかという気運が強くなった。中にはもちろん、出資金以上に売れるものなら手を引くという人も多く、業者間で許可の買収も進みました。合併と減船の中で、(太平洋南区では125tが上限なので)20tから40t、60t、120tと船も大きくなり、我々も生き残りのために様々に合理化・効率化を進めてきたわけです。
 最近は労働環境の面からも昔のように体力を使わなくても働けるような船になってきておる。船の中の省力化は、昔とは月とスッポンほども違っている。しかし、それでも今の若い人にとっては、きついところがあるんでしょう。人手不足は確かに深刻で、定員10人のところを、8~9人で出漁している。山口・福岡の西海漁業組合所属の船では、今は1~2割が向灘出身で、後は操業先の地元や各地からスカウトして乗せている。北洋漁船の乗組員も乗っている(八幡浜を根拠地とする4統は8割以上が南予出身)。そこらあたりの乗組員の確保をどうするかを今後考えていかねばならない。また資源を育てる漁業が大事ということで、資源の状態を見て長く取っていかないといけないという考え方になってきてます。」


図表2-3-12 平成3年度八幡浜市魚市場、水揚げ高上位魚種

図表2-3-12 平成3年度八幡浜市魚市場、水揚げ高上位魚種

八幡浜市提供資料により作成。

図表2-3-14 昭和20年代における月別底びき漁業漁獲高と練り製品製造高

図表2-3-14 昭和20年代における月別底びき漁業漁獲高と練り製品製造高

単位:漁獲高(一万貫)、練料製品(一千貫)。漁獲高-昭和26年、練り製品-昭和24年。「八幡浜市のトロールと蒲鉾(⑫)」より作成。