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宇和海と生活文化(平成4年度)

(1)くらしと背景

 佐田岬半島及び宇和海沿岸地域における、農家のくらしの背景をみると、時代の移り変わりとともに急速に、あるいは徐々に変遷している。特有の段々畑と、温暖な自然の中で、サツマイモとムギが中心に栽培された。
 明治・大正・昭和前半にかけては、有名な三崎牛の飼育、大正時代を中心にカイコの飼育も盛んであり、また夏柑の栽培も古い歴史をもっている。これらの普及時期や生産量など、地域によって多少の差はあっても、基本的には変わらない。
 したがって、この地域の人々の食生活は、ムギとサツマイモを主食に、自給自足のくらしであった。そこで三崎町においてはムギやサツマイモの栽培、瀬戸町では三崎牛の飼育、三瓶町ではカイコの飼育を、それぞれの地域の背景に取り上げながら、大正から昭和初期における、食とくらしを調査するとともに、戦後のくらしについても聞き取りをした。

 ア 日本一細長い半島の先で

 「三崎町誌(⑦)」によれば、昭和30年代には県下最大の夏柑産地となり、高度経済成長のおとずれとともに、夏柑の好景気によって、農家の所得水準は高まり、食生活は向上の一途をたどりながら、今日に至っている。
 **さん(三崎町三崎 明治41年生まれ 84歳)明治生まれの**さんに、大正・昭和(初期)の、この地域に住む農家のくらしを詳細に聞いた。

  ① よく働く半島の子供

 「やせた腕をすっと伸ばした様な13里(約51km)の半島、その猫の額ほどの山肌斜面にへばりついたような、ひな壇式の家で生まれ育ちました。わたしにも子供時代の楽しい思い出があります。たいてい一人で遊ぶことはなく、5人、10人といった集団で、広い場所はないから、どの家にもあった庭床(穀物を干す所)を誰にも遠慮することなく、そこで遊んだものです。
 陣取り・けつ乗り・石けり・コマ廻し・鬼ごとなどでした。集団で遊んだから、そこには必ずボスがいて、善悪をとわずボスの言うことは、親のいうことよりもよく聞いたように思います。
 「10月農」の終わった頃、初亥の子をついて回り、ご祝儀にお金や果物などをもらって分けあったことや、暮れの大晦日の晩、お宮へお参りしてから、各自がボンボリちょうちんを持って、沖田道(水田のあぜ道)を『金の神様飛びつけ』と連呼しながら一周して帰るのも、子供にとって楽しい記憶として残る行事でした。
 小学校5・6年生になるとぼつぼつ家の手伝いとして、子守りをしたり、麦刈り・夏柑とり・芋植え・芋かるいなど、次第に肉体労働が多くなりました。家と畑の距離は相当遠い所もあり、しかもその畑はあちこちに分散しているので大変苦しかったけれど、弁当持ちで行ったときは、どうしてか、茶を沸かす煙のにおいが、食欲をそそるのが不思議なほど好きでした。」

  ② あさじゃ・おひる・おちゃ・ゆうはん

 「岬地方の農作物は明治初期までは主に、サツマイモやムギ・アワ・キビ・ダイズ・アズキそのほかの雑穀類で、ほかには牛を飼っていました。
 明治の中ころから夏柑が導入され、大正時代には急速に養蚕が盛んになってきたので、労力はますます投入しなければならなくなりました。
 当時はあさじゃ(朝食・季節によるが、平均6時)・おひる(10時頃)・おちゃ(14時頃)・ゆうはん(夕食・日が暮れて)の1日4食で、朝早くから夜おそくまで働いたわけです。主食の麦飯といってもそれは表向きで、大抵ふかし芋を中心に、カンコロ・イモもちなどを食べ、その後口に麦飯を口にするだけでした。
 副食物は大根干し・みそ汁・菜葉汁・キュウリの酢物・煮干しみそ・塩魚・芋うどん・漬物などで、1日の労働を支えるのには十分とはいえなかったけれど、当時の農家ではそれが当たり前だと考えていたので、別に物足りなさを感じることはありませんでした。」

  ③ 母から聞いた嫁としゅうとめ

 「『ふだんから、朝は早よう起きて、一番に火を入れるけれど、マッチ1本の無駄も許されず、へたに失敗すると、2本目のときにはその音を隠すために、大きなせきをして、2本目の音を消したもんよ。いつもの御飯も、麦飯の焦げばかりでは腹はふとらず、サツマイモの冷えたのを、そっと前垂れの下に隠して、畑に行きながら食べよった。』何回も聞いた話ですが、どこの嫁もみな同じだったのでしょう。
 農繁期など、弁当持ちで畑に行きますが、お茶を沸かしても、ほとんど何も入れない白湯で、時には近くの山にある、シャシャブ(グミ)の葉やニレの葉を入れるぐらいで、はしも家からは持たず、木の枝を削って作ったり、ススキの茎を切って使っていました(写真3-1-23参照)。
 食べ物や、ちょっとした道具も自然のもので大抵間に合わせていました。弁当も一番簡単なおかずはみそだけで、それでも『麦飯とみそ菜は長者でも続かん』こんな戒めがあるぐらい、ムギは現金収入源としていかに重要であったか、想像できると思います。また反面、サツマイモが主食として、いかに重要であったかもよくわかると思います(写真3-1-45参照)。
 冬はふかし芋、副食にはイワシの塩干・塩辛・大根汁(ダイコンと小イモ)・菜葉汁・漬物類・雑炊(イチビ入り)などを適宜に食べます。
 夏季はカンコロ・芋もちなど、副食にはキュウリもみ・カボチャ・ナス・塩豆などが主なものです。
 子供の頃、食べたかった白い米飯は盆・正月・それにお祭りなどの、もん日だけでした。が、終戦後、年をおって、麦の中の米の量は次第に増えて、昭和30年後半には完全に米食に変わってきました。」

  ④ 何俵もつくもち

 「主食の麦は脱穀した玄麦をドビツ(穀物用の箱)に入れ、精白した麦はローマイ(木箱)に入れておき毎日使います。サツマイモの生食用は床下の芋つぼ(約1,880kg入る)に保存して、来春3月ころまで食べます。
 長期の保存には、切り干しにして俵(米俵の2倍位)に詰め、一家に7・8俵も用意しておいて、カンコロ・芋もち・イチビ・芋うどんなどにして主食の代用にしました。
 小さいくず芋は芋あめ(かたあめ・水あめ)をつくったり、ひがしやまを作って子供のおやつにしたものです。毎年お盆までに収穫したアワ・キビ・タカキビなどの雑穀は全部正月もちとしてつき、2週間ほどたって堅くなったのを半切(はんぎ)りという桶に入れ、水を張って貯え、主食の代わりにする習慣(現在はない)でした。普通は3・4俵(1俵は約56kg)もつくので食べる期間も3月・4月まであり、部落によると長期間あるのが自慢で、梅雨頃まで保存する家もあるほどでした。何といっても、もちは腹もちが良いので農家ではとても重宝がられていました。
 副食の小芋(サトイモ)やゴボウは畑の隅につぼを掘って入れ、雨の入らないようにムシロなどで覆います。
 大根漬けはコーコ(たくあん)といい、米ぬかと塩で漬けます。年に2・3たる(1たる約150本)、多い家では5・6たるも漬けました。また切り干し大根にして保存する量もかなりありました(写真3-1-46参照)。
 農家の風物詩・つるし大根(15・16 本ずつ縄でしぼり、軒下につるして乾燥させる)も見逃せない保存方法の一つです。
 魚の保存として、煮干しは毎年秋の漁期に、各家で漁師と手間替(漁の手伝賃として魚をもらう)して1年分を確保します。また塩干しとしてイワシやゼンゴ(小アジ)などを目ざしにして保存します。
 このイワシは焼いて芋のさいにすると、芋の甘味とぴったりで、畑へ弁当持ちで行った時などは、ツワブキの葉やクヌギの葉にのせて焼いて食べると最高の味でした。
 調味料の砂糖や塩は購入しますが、ほかのものはすべて自給自足で、みそ(丸麦・大豆・塩)・しょうゆ(小麦・大豆・塩)は各家庭で作っていましたが、現在は全農家の半数ほどになっているでしょう。
 年中1日も欠かせないのが薪で、毎年秋になり草刈り(牛の飼料)や農繁期が終わるとすぐ、山に入って1年分の薪をつくり、薪小屋や山林中に積み重ねて雨が入らぬようカヤで覆い、必要に応じてこだしして使います。」

  ⑤ 行事食・年中行事

 「正月・盆・もん日の料理もできる限り、お金のかからないようにするので、料理の主役はツト(豆腐)と小芋です。油揚げ(自家製)・コンニャク・ニンジン・ゴボウを使って、買う物はコンブや高野豆腐とお飾り程度のカマボコ・チクワなどです。婚礼とか、男の42歳のお祝いの時にはアズキで、ようかんを作るのが最高のぜいたくでした。1年中の肉体労働を支えることができたのは年中行事だったように思います。12か月をうまく盆・正月・もん日と組み合わせ、慰労を兼ねて次の鋭気を養うように仕組まれていて、これも生活の知恵というのかも知れません。」

  ⑥ ムギまきの時期はツワに聞け

 「百姓は自然を相手にして生活しているので、作物の植付・収穫時期・保存や天気と何から何まで自然の移り変わりをよく見定めることが必要になります。例えば『芋苗をつくるには三崎では鎮守の森の桜の花の咲くころがよい。』とか『秋芋を掘るのは、赤べ牛をクヌギ林に追いこんで見えないようになったら掘れ。』『麦まきする時期はツワブキの花に聞け。』『山芋のある所へは麦を2・3粒落としておけ。』といった具合に、自然と密着しています。
 また自然とのかかわりということを考えますと、ほかにいろいろあります。畑の立地条件をみても、耕して天に至るといわれるとおり、畑は海抜10m~200mの間に点在しています。狭い畑では30坪(1a)・広い畑で1.5反(15a)、こうした畑が、大抵30~40度の急傾斜となっています。
 家からの距離をみても近くて100m、遠い所では3kmもあるので、作業能率や技術・仕事の段取りなど床に入ってからも考えます。畑仕事の出来ない雨の日も農具の手入れや、わら仕事(足半(あしなか)ぞうり・縄ない・俵編み・むしろ打など)、冬の夜長には夜なべがあります。年中暇なしといっても過言ではありません。しかし農繁期を無事終え、果物や作物を収穫し、すべての片付けを目のあたりに見ますと、1年間の苦労も一遍に吹っ飛んで満足感に浸ることができ、最高の喜びで、百姓としての生きがいと、誇りをしみじみ感じるものです。」

  ⑦ 昔の家

 「現在の母屋は大正7年(1918年)に建てたものですが、昔の家と全く同じ坪数で間取りも同じです。ただ床の構造が昔は座敷だけが板張りでほかの寝床、勝手、食うとこ(茶の間)などはみなザノコといって、直径4cm程の竹を2つ割りにしたのをシュロ縄で編んだのを敷き、その上にわらむしろを敷き寝床はその上にイグサのござを敷いていました。
 よまの床下には芋つぼがあり、そのほかカマトコ(炊事場)・駄屋(だや)(牛小屋)・漬物置場・うす場・みそしょうゆ倉・俵倉(土倉)があります。」

  ⑧ 病気をして得た生涯学習

 「生まれつき小柄で、人並の仕事をするにも無理があったのか、72歳の暮れに突然、心臓発作を起こしすぐ病院に運ばれましたが、再三の発作に襲われこれで一巻の終わりかと自他共にあきらめていましたが、医師の手当てが効を奏したのか、寿命があったのか奇跡的に何とか命拾いして、今日まで12年になります。朝の急激な動きは禁物ですが、午後は体の諸機能が整ったころを見はからって散歩をしています。医師からの指示でもあり、忠実に実行しているのが良かったと思います。
 午前中の静養時間も無駄ではなく、ふと頭に浮かんだのが『習字』でした。柄にもないことと思いますが、若いころ、友達の家のふすまに見事にかかれた書を思い出したのです。
 せめて通信講座でもと思いまして、月刊誌を取り寄せて書き始めました。なかなか上達は望めませんが、これがわたしの仕事だと思って今日でも続けているのです。講座の中味は漢詩が多いけれど、『門前の小僧習はぬ経を読む。』こんなわけで、漢詩にも興味を持つようになりました。
 もちろん、書道家とか詩人などの夢を持っているのではなく、わたしなりの表現ができればこんな楽しいことはありません。しかし時には人の批判も受けなければと思い、町や県の主催の文化祭とか展示会・美術展などに出品していますが、時に入賞することもあって、努力すれば報われるものだと、ますます心の励みにしています。」

 イ 牛はお宝

 藩政時代末期の佐田岬半島は、有名な馬の飼育産地であった。従って当時の馬市の賑いは相当なものであったと伝えられている。馬とともに牛の飼育も、明治20年(1887年)ころから急速に増え、明治35年(1902年)ころには、馬に代わって和牛の飼育が盛んになっていった。そして牛の品種は改良に改良が重ねられ、その結果ついに有名な三崎牛がつくり出された。この三崎牛というのは、生後10か月~1年の子牛の間だけの呼び名で、早肥性と優れた肉質に定評があったわけである。成牛は伊予牛の名で取り引きされた。昭和22年ころの成牛1頭は8万~15万円・子牛は5~8万で売買されたというから、当時の農家の現金収入としては相当な額であったと「瀬戸町誌(⑨)」に記されている。
 瀬戸町ではこの牛の飼育は年をおって増え、昭和25年~昭和35年にかけてが最盛期で、570戸の農家で飼われ、頭数は1,110頭に及んでいる(⑨)。その後昭和40年代には次第に飼育戸数・頭数ともに激減した。

 **さん(瀬戸町大久 大正9年生まれ 72歳)にくらしの背景となった、牛の飼育について聞いた。

  ① 負籠(おいこ)をかついで

 「昔、この山の頂上付近一帯が採草地で、ススキやチガヤの原野でした。段畑の畦や垣に生えている、きし草や干した芋づる、そのほか農業副産物も牛のえさとして大切でした。わたしも小学校の時分から、毎日のように往復1時間はかかる山のてっぺんまで、負籠をかついで、採草地の草を持ち帰り、すぐその足で学校へ行きました。大久の子供は皆なそうしていました。
 牛のえさも束ねてポイとやれば手間もはぶけるのに、牛もこすいもんです。束ねてやると、うまい部分だけ食べて、ほかは残してしまうんですよ。だから草はハミキリで刻んで、ハシ桶(えさ箱)でやりました。」

  ② 牛の駄屋(だや)と練り塀

 牛を飼っている所は、駄屋といって住宅のすぐ横か、住宅の向かいにあって、周囲の練り塀が独特で興味深い(写真3-1-48参照)。
 単なる土塀とはちがって、必ずねり土と、平たい緑色片岩を交互に積み重ねて仕上げている。この構造であれば、いくら牛の角でもこの塀を突き破ることは出来ないし、火災時には、十分防火壁として役立つと思った。またこの練り塀の位置や構造を見て感じることは、いかにこれほどまでに大事に飼われていたのかとつくづく考えさせられた。

  ③ 運動場をもつ大久の牛

 「住宅の密集した中で、夏の駄屋はとてもじゃないが暑い。それで夕方になると、牛を浜に連れ出し、打ち込んである棒杭につないでおくんです。子牛は放しておいても、親の周辺で自由に遊び、親からはぐれたりはしません。
 砂浜を歩いて子牛は足を丈夫にしたんです。まあ100頭に近い牛で浜は真黒でした。浜育ちの大久の牛は、農耕には使わないで、大豆などの飼料も十分与え、子出しといって、1年に1頭の元気な子供の生まれるのを期待します。生まれた子牛は生後7か月~10か月飼育して、毎月6日に開かれる大久の牛市に出して売買されました。当時農家収入の約40%の現金収入だったから、わたしの家でも親牛を2頭飼育したこともあります。
 当時どこへ行っても『牛はお宝』と呼んでいました。それほど、牛は家族の一員のように大切に育てたのです。」
 大久の牛の飼育が昭和35年ころを頂点に、以後牛の数が年々減少し、現在大久には1頭もいない。
 その原因は、柑橘類の栽培に伴う農薬の影響で牧草が出来なくなったためである(⑨)。そのほか、家畜の価格の変動、労力の流出などいろいろ条件が重なったわけであろう。なかでも自然環境の変化が、実に微妙に作用していることも実感する。
 瀬戸町内で現在牛の飼育が行われているのは、高茂(こうも)地区と神崎(こうさき)地区の2か所である。高茂地区は昭和22年頃、復員家族等の移住によってこの地区の開懇が行われ、同時に肉牛の飼育が始まった。当初は80戸で飼育を始めたが現在は飼育戸数は4戸となり、飼育頭数は約300頭・肥育用と繁殖用の両用の飼育が行われている。一方神崎地区には約100頭の乳牛の肥育が行われている(写真3-1-50参照)。
 佐田岬半島の牛がかつてはお宝で、現在は高茂牧場にその顔を見せている。この牛の顔は佐田岬半島の自然の顔にも見える。

 ウ カイコはお蚕様

 宇和海沿岸地域の人々の暮らしは、基本的に共通点が多い。三瓶町の場合も生活の基盤は半農半漁で、地形や気候風土もよく似ている。しかし地理的に八幡浜市・宇和町に隣接して古くから交流があり、明治・大正・昭和を通じて繊維工業の長い歴史をもっている点は大きな違いであろう。
 **さん(三瓶町朝立(あさだつ) 大正12年生まれ 69歳)に、三瓶町で戦前養蚕が盛んであった当時の特色のある暮らしを詳細に聞いた。

  ① 戦前の服装

 「昭和10年(1935年)、三瓶町朝立一区に、当時最盛期を迎えていたカイコの集繭場(しゅうけいじょう)を兼ねた公会堂が建築されました。二階は集会などに使われ、階下は繭(まゆ)の集荷や共同販売に都合のよいように半分は土間・半分は繭を選んだりするように出来ていました。だからこの時分がやはり養蚕の最盛期だったのでしょう。
 若い男の人は当時皆洋服で、作業衣も霜降りの白っぽい木綿の丈夫な生地でした。中年以上の人はまだ6尺フンドシにモモヒキ・ハンテンなどを着て、寒くなると、じゅばん・きゃはん・ておいなどを使っていました。
 女の人はほとんど腰巻きにじゅばん・木綿の長着に前垂れ、作業のときには、着物を短く着て前垂・たすきをかけて、頭には日本手ぬぐいをかむっていました。
 履物はげたが多く、ひらつこ・中歯・さしはまなど、用途によって履き分け、普段にはく履物の鼻緒はシュロの皮が使われ、休み日や祝い事の時のげたは特別上等の鼻緒もつかわれていました。草履では底に自転車のタイヤを縫いつけた大学草履や、ゴム草履が流行して重宝がられ、ちょっとしゃれたものに八つ折・畳表なども履かれだしたのがこの時期でした。
 ですが農家にとっては年中といってよい程、わらで編んだ、足半(あしなか)やトンボ草履を履き、年寄りは足が軽いからと、わらじをはいたもんです。養蚕のあいまや、夜なべには、わら仕事をしました。養蚕期の上履には必ず竹の皮の草履を使います。
 戸外での仕事は作業に合った管笠(すげがさ)、たっころばち、雨ふりには一般にみのが使われていました。田植にはみの笠を着ても、下着までもびしょぬれになったものです。」

  ② 手作りの食べ物

 「主食はどこもサツマイモと丸麦で、丸麦を炊くには一度沸騰させて、途中に冷水(びっくり水)を入れ、再び炊くので時間がかかりました。
 こうした農家の忙しさをうたった歌に、
   『雨は降り出す    むしろ干しゃぬれる
   背中の餓鬼ゃ泣く   さま   飯しや焦げる』      
とあるように、とくに農家の主婦は忙しかったです。麦飯でも腹一杯は食べられず、半分は芋とカンコロで済ませたんです。だから紋日(もんび)といって家で仕事を休み、神や仏にごちそうをお供えし、または夕食のみごちそうを作って家庭内でいただく日を多くつくっていました。またモチをつき、だんごを作る日も多く、平素は質素な中で、このとき食べ物でおいしいと皆んなで喜び、家中で楽しむことは、現代以上のものでした。
 とくに旧正月につくモチはモチ米のほかシャクモチ(うるち)をまぜた俵モチ・高黍(たかきび)・小黍(こきび)・粟(あわ)などの雑穀モチのほか海藻モチなどと2俵(約110kg)位もつき、水モチにして5月ころまで食べ延ばしていました。ほかに子供のおやつとして、大豆や砂糖を入れてついた、おかきは最高のものでした。
 副食のみそ・しょうゆもほとんどの家庭でつくり、しょうゆの絞り粕を、だしなど入れて、焼きみそとして使いました。たくあん・梅干・ラッキョウ・瓜など皆自家製で、乾燥して貯蔵する切り干し・千切り大根・ヒジキ・ワラビ・ゼンマイ・フキなどがあり、イリコは年中切らしません。そのまま土中に貯蔵できるものに、里芋・山芋などあり、紋日には必ず豆腐を作りました。
 食器は平素は木皿やおわんで、各自のお膳箱があって、食事の時にはお膳箱を囲炉裏の周囲に持ち出したことを覚えています。
 この当時うどんは家でよく作られていましたが、うどんを打つ機械も流行しました。またそうめんもよく食べ、そうめん箱に入ったのをどの家庭でも一箱あて買うようになり、うどんやそうめんも副食又は主食として大いに利用しました。」

  ③ 囲炉裏(いろり)には茶瓶

 「家には、囲炉裏があって、自在かぎに茶瓶が掛けられていました。大正以前の建物は大抵入口から広い土間をとっていて、わら仕事などができるように、打ち石も埋めてあり、私の家ではこの土間の分も掛け出し(取り外しができる板の間)をして蚕を飼ったものです。土間ではむしろ打ち・ほご編・俵編・草履作りから、しょうゆ絞り・豆腐作りなど、特に雨降りの日や夜なべ仕事に使われたものです。
 建物は母屋のほかに、隠居・木納屋(薪を入れる)・納屋(二階は蚕具を入れた)・牛の駄屋(だや)などがありました。納屋には織り物をする機(はた)が置かれていて、繭から糸を採る糸とり機もあって、主婦はお蚕さんのいない時期には木綿か絹かの着物を織ったんです。子供らも一枚宛着物を織ってもらうのを非常に喜んでいました。
 当時わたしの家には2頭の牛がいて、一頭は冬分出荷できるように肥育牛として、一頭は田植えが終わると肥育して売って、また使い牛として若い牛を買いました。」

  ④ どの部屋もお蚕様

 「養蚕といえば、春・夏・秋のほかに晩秋蚕・晩々秋蚕もあります。稚蚕の間はクワの葉を細かく刻んで与えるので、手間がかかるけれども場所をとらないから、何軒もの農家が協同で飼育できますが、3齢、4齢と大きくなるとクワの葉はそのまま与えればよいので、刻む手間が省ける代わりに、食欲の方は成長につれて旺盛になるので、クワ摘みが大変になってきます。
 わたしの家ではクワ畑も標高300m位の所にあって、往復に2時間もかかります。夏のクワなど、かごに詰め込むと、熱を出して、それこそ手がつけられないほど暑くなります。家に帰るとすぐ水をかけ、冷やしながらクワつぼ(土間や床下にある)に広げるわけです。
 晩秋蚕や晩々秋蚕には炉があって暖房します。カイコの世話では除沙(じょしゃ)といって排せつ物そのほかの汚物の掃除が毎日あってそれこそネコの手もほしくなります。
 そのうえ、最盛期の4齢に入ると、座敷も床の間もありません。どの部屋も全部蚕棚で一杯になるので、夫婦は蚕棚の谷間に、せんべい布団を出して着のみ着のまま、仮寝の一週間です。
 そのため、一蚕(ひとかいこ)の後には決まって、町の医院に患者が増えたそうです。それにひきかえ、カイコはお座敷で『お蚕様』でした。」     
 「三瓶町誌(⑦)」によれば、昭和11年(1936年)、養蚕家は1,200戸、桑園も150町歩(150ha)とあるが、第二次世界大戦で食糧生産に切り替えられ、お蚕様は三瓶町から完全に姿を消してしまった(写真3-1-53・54参照)。

 エ 女手一つ

 **さん(三瓶町安土 大正10年生まれ 71歳)
 **さん(三瓶町朝立 大正12年生まれ 69歳)
 共に御主人を第二次世界大戦で亡くされ、戦後の混乱を乗り越え、生きてこられた**さんと**さんのお二人から、その暮らしと、福祉活動について聞いた。

  ① **さん

 「わたしは、三瓶一区の寺下の商家に生まれました。兄が6人いて、7番目の女の子ということで珍しかったのか、大変かわいがられて育てられました。地元の女学校を卒業して、昭和15年(1940年)20歳で薬局を経営している主人と結婚しました。ところが、赤紙(召集令状)が来まして、昭和19年(1944年)輸送船で徳之島沖で戦死しました。
 これからがわたしの苦労の始まりでした。家には子供・義父母・姉妹の大家族でしたが、そのころはまだ薬局をしておりましたので、少ない品物は、お客さんの方から値段をつけてこられたり、水枕がほしいからお米と交換してほしいとか、不足の品物は全部こんな調子でした。
 主人が出征する時に、『ヤミだけはするな、買える人はいいが買えない人もあるから。』と言い残したものですから、入荷した時は早い人から売りました。
 重曹が入荷した時は、販売時間を書いて張り紙をしましたら、お客さんが50mも並んだのを思い出します。一袋10銭で何g入れたかは思いだせません。薬をヤミで売れば、相当になるだろうにと、人様にはいわれましたが、薬局も昭和20年まででやめました(写真3-1-56参照)。
 終戦前から、サツマイモは作っていましたが、戦後は自分で作らなければ食べられないので、よく芋作りをしたものです。
 その頃『竹の子生活』という言葉がありましたが、言葉どおりわたし達大家族は、土地や山を、また倉庫をと次々と売って食べるという具合で、全部腹の中に入ってしまいました。
 義父が亡くなってからも、義母は『わたしが死ぬまでは、勤めに出てもろたら困る。』というので勤めに出ることも出来ず、困っておりましたが、ちょうど叔母の家が新聞を売っていたので、1日3時間ほどですが、新聞を10年配りました。
 義母が亡くなってからは、町の老人ホームで、寮母として働きましたが、50名近い老人のお世話も容易ではありません。特に夜勤の場合は、一人でお世話するわけですから、大変気をつかいましたが、過ぎてみれば定年までの17年間も、あっという間でした。」

  ② **さん

 「わたしは八幡浜市で生まれ、父親の勤めていた近江帆布工場が、三瓶町に移転したため昭和5年(1930年)転居してきました。両親や弟妹にかこまれ、なに不自由なく育ち、第二山下高等女学校(三瓶高校)を卒業しました。
 昭和17年(1942年)に軍人である主人と結婚しましたが、任地が満洲だったので、わたしは翌年4月渡満しました。軍人の妻といってもサラリーマンの生活でしたが、軍隊は夏期・冬期と1か月程の演習もあり、それこそ大変だったと思います。
 昭和19年(1944年)7月、主人の所属部隊に動員令が発令され、部隊はすぐ満洲を出発しました。残された家族は、2家族単位で引き揚げを開始しました。私は身重の体でしたので最後に回り、9月初句に帰国しました。
 昭和20年に長男が誕生、昭和21年1月には、主人は左足下腿部を切断して復員し、神奈川県相模原市の国立相模原病院へ入院しましたが、退院することもなく、昭和23年9月に死亡しました。沖縄で戦死しなくて内地まで帰って、我が子の顔を見られたのがせめてもの慰めと思っています。
 昭和21年1月の復員完了と同時に給料の支給はなくなりました。子供と二人の生活をどうしようかと思いましたが、娘時代から好きで勉強してきた和裁を、わたしの職業に選んだのです。お陰で仕立物は、断り切れないほど頼まれまして、朝早くから夜おそくまで働き続けました。秋祭りやお正月などは、1日20時間くらい仕立てた事もありました。
 それも、子供が高校卒業するまでは、実家に同居させてもらったので随分たすかったわけです。わたしもすぐ下の妹2人が年頃になりましたので、親に作ってもらった和服など、思いきって与えました。子供も、わたしの両親や弟妹にかこまれて素直に育ってくれ、これが一番の幸せと思っています。
 和裁の仕事は、完成すれば他人様の品物でも楽しい気持ちになり、一層精が出るものです。でも時には振りそで、留めそで、訪問着など、柄合わせのむつかしい時は、いらいらする事もありますが、すっきりと出来上がると、つらさも忘れてしまいます。
 今年の12月で結婚して50年です。本当に月日の流れの早さには驚きます。」

  ③ 母子福祉会の活動

 「民生児童委員をしておられた阿部シンエ氏(故人)が、『戦争中出征される兵士さんに、後のことは心配なくといって送り出したので。』といわれ、県内他町村に先がけて戦争未亡人の救済に、母子会を昭和24年8月に発会されました。
 わたし達は同時に入会しまして、支部長だとか事業部長などの役員を続け、会長も引き受けました。
 母子福祉会は、自主促進講習会、若年母子家庭研究会、若年母子家庭育成事業などの行事に参加して、孤立しがちな母子家庭間の交流をはかって、お互いの連携と福祉の向上に努めてきたんです。
 会の運営には資金が必要なため、わたし達もいろいろ苦労をしました。そうそうイリコ作りをして売った事もあったけれど、あの時は多くの人は損をしました。
 何といっても敷紡さんには、色々と協力をしていただきました。会員に10~20羽のヒヨコとえさの世話をして、卵を集めては会社に入れたり、布団の縫い返しや、木管の先についている金具をとる作業もありました。
 野菜を仕入れて、リヤカーに積んで売りに出掛けた事も思い出します。それからよう忘れもしないのが、昭和29年に大きな朝日座で映画を請け合ったのに、まあ入場券が売れて売れて、それが『金色夜叉』でしたが、三瓶町では総天然色初公開とあって、押すな押すなの大盛況となったわけです。
 ところが、お年寄には『そんな古臭いもん』といわれておこられ、朝日座のおばちゃんには『こがいに、ようけ入れられたら二階が落ちる。』といわれましたが、それは収益も多くて大成功でした。
 こうした収益金は会に入れ、会員には1,000円という小口貸付金として、無利子で活用してもらいました。当時高等学校の授業料が700円くらいで、貸付金の1,000円は本当に手頃で、会員の人気も上々でした。
 現在も衣料品や寝具の販売も続けている一方、国民年金の保険料の徴収など頑張っています。わたし達も現在は監事としてお世話していますが、最近の情勢として母子会への入会者が減少し、三瓶町ばかりではなく、全国的に会の先細りが心配されています。」
 戦中戦後の困難な時代を、女手一つで生き抜かれ、さらに福祉活動に精進され、心から敬意を表します。

写真3-1-45 せんば(千歯)

写真3-1-45 せんば(千歯)

昔、ムギの穂を落とすのに使った千歯と呼ばれる農具の一つである。ムギの穂はザルに受けるわけである。麦は収入源になった。平成4年11月撮影

写真3-1-46 カンナ

写真3-1-46 カンナ

生大根をカンナで切り、干し大根をつくる。平成4年11月撮影

写真3-1-48 駄屋の練り塀

写真3-1-48 駄屋の練り塀

現在、牛は飼育されていないが、元、牛の駄屋が、大久で稀に残っている。平成4年10月撮影

写真3-1-50 高茂牧場

写真3-1-50 高茂牧場

300頭の肥育用、繁殖用の牛が飼育されている。平成4年10月撮影

写真3-1-53 4回脱皮成長した幼虫

写真3-1-53 4回脱皮成長した幼虫

やがて、桑の葉を食べなくなり、体の色が透き通ってくると、口から糸をはき繭をつくり始める。川内町川之内。平成4年9月撮影

写真3-1-54 回転蔟(かいてんまぶし)

写真3-1-54 回転蔟(かいてんまぶし)

カイコは蔟(まぶし)の下から登って繭をつくる。川内町川之内。平成4年9月撮影

写真3-1-56 昔の商家

写真3-1-56 昔の商家

明治時代からの商家であった(**家)。平成4年12月撮影