データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)二宮敬作の歩みと姿

 ア 二宮敬作の生い立ちと少年時代

 二宮敬作は、伊予灘にのぞむ静かな村の半農半商の家に生まれた(写真4-1-4参照)。父親の六弥(ろくや)は妻のシゲとともに農業のかたわら酒の小売商を営んでいた。四女の妹クラは大洲の塩問屋の麓屋三瀬半兵衛(ふもとやみせはんべえ)へ嫁ぎ(のち三瀬周三(みせしゅうぞう)を生む)、五女の妹テツも御荘(みしょう)組の外海浦深浦の庄屋二宮市右衛門に嫁いでいるから、磯崎村ではかなりの富農であったと思われる。また、母のシゲは九町浦浜の組頭(くみがしら)竹内氏から嫁いできた。
 長井音次郎氏によれば、少年時代の敬作は「ブルドッグのような顔つきで、色の黒いあくまで体の頑丈な男児であった。幼少の時から物数を言わぬ黙りこんだ質で、そして非常に正直で、かつ物事に熱心であって、一度思い立ったことはどんなことがあっても、やり通さねばきかぬ気性であった。そして又一面非常に人に親切で、慈悲深い方である。(①)」と伝えている。また、敬作が7・8歳ころのことであるが、皮膚病にかかって毛がはげおちたあわれな子犬を両親が捨てようとしたところ、敬作は両親に嘆願して懸命に介抱し、きれいで愛らしい犬にしてやり、近所の子供たちに愛の思いやりを広めたという(①)。この挿話にも少年時代より情に厚く、慈悲深かった敬作の人柄を物語っている。
 敬作少年に学問への火を灯したのは、大洲から磯崎に来ていた五十歳前後の某村医であった。大変子供好きの彼は磯津の寺子屋で漢字や習字、四書五経などを教えていたが、特に敬作に目をかけ、薬草の採集にはしばしば敬作を伴い実地に教えて少年の心を啓発した。さらに、彼から「医学のこと、蘭学のこと、長崎のことなど、炉辺の夜話に聞かされて、心臓を鼓動さしていた(①)」敬作少年は、16歳の春、医者になろうと志して長崎遊学を決意するに至った。敬作の長崎遊学の決意について「百姓の子は百姓に限る。伝来の田畑を耕して居れば生活の安定は得られる。何を苦しんで故郷を去るか(①)」と両親はじめ親族も反対したが、「死んでも止まぬ(①)」と医学を志す敬作の熱い願いに折れ、仕送りはしないという条件で長崎行きを認めた。このようにして自らの意志を通した敬作は、文政2年(1819年)3月、生まれ育った磯崎を離れ、九州に出張する大洲の商人手成屋(てなるや)に同行して憧れの長崎に向かい、時代の先端的な蘭学に触れることとなったのである。

 イ 長崎の修業とシーボルトの来日

 長崎では、まずオランダ語を身に付けるために通詞(つうじ)(通訳)として名声の高い吉雄権之助(よしおごんのすけ)の塾に入門し、さらに、吉雄権之助の弟子の美馬順三に師事し蘭方医修業のスタートを切った。美馬順三は阿波出身の蘭方医で当時すでに名医といわれ、豊かな学識と誠実な人柄で知られていたが、文政8年(1825年)6月、コレラのため31歳の若さで死亡した。敬作が終生、美馬順三を恩師として尊敬してやまなかったことは、次の敬作の辞世に示されている。
 「我れ死なば 髪は故郷(ふるさと) 遺骸(なきがら)は美馬先生の墓に埋めよ(②)」
 文政6年(1823年)8月11日、幕末日本の医学はじめ自然科学、人文科学の各分野に大きな影響を与えたドイツ人シーボルトが来日した。
 シーボルトは1796年(寛政8年)、南ドイツの名門の医家に生まれ、ヴェルツブルク大学において医学、特に内科・外科・産科の学位を得るとともに博物学・人文地理・民族学を研究した若い学徒であった。医学のみならず植物学・動物学などに関心の深い彼は、極東の世界、中でも特に日本の研究を目指した。
 シーボルトは文政5年(1822年)オランダ国王に嘆願してオランダ外科軍医少佐となり、ひとまずジャワ島に赴任してオランダ東印度会社の陸軍病院付きになった。翌年27歳のシーボルトは長崎出島のオランダ商館医として日本に派遣された。シーボルトを派遣したオランダ政府の目的は、表向きには先進的な西洋医学や博物学・地理学など西洋の諸学芸を日本に伝えることにあったが、真のねらいは鎖国下の日本の制度・自然・風土・物産の実態を把握し直し、対日貿易におけるオランダの優位を図ろうとしたことにあった。                  
 シーボルトに与えられた使命は「日本の万有学(ばんゆうがく)的(総合的科学的)の調査研究(③)」にあった。文政8年(1825年)12月、シーボルトが送ったオランダ領東インド総督あての報告書の内容は、(1)宗教、(2)風俗習慣、(3)法律及び政治、(4)農業、(5)所得及び税、(6)地理及び地図、(7)芸術及び学問、(8)言語、(9)自然研究、(10)薬草学、(11)珍現象、(12)職員関係、(13)会計など広はんな分野に及んでおり(③)、日本の研究に取り組むシーボルトのエネルギッシュな意気込みがうかがわれた。

 ウ シーボルト入門と鳴滝塾(なるたきじゅく)の生活

 シーボルトの優れた医者、学者としての名声はたちまち広がった。二宮敬作は、恩師の美馬順三や阿波出身の高良斎(こうりょうさい)とともに直ちに入門しシーボルトの指導を受けることとなった。シーボルトの講義と治療は、はじめ出島のオランダ商館内で行われていたが、評判が高まるにつれて訪れる患者や入門希望の青年も多くなりオランダ商館では手狭となった。そのためシーボルトは文政7年(1824年)高島秋帆(たかしましゅうはん)のあっせんにより長崎奉行高橋越前守重賢(たかはしえちぜんのかみしげかた)の許可を受け、長崎郊外の鳴滝(なるたき)に学塾を開設して門下生の指導や患者の診療に当たることとなった。厳しい鎖国体制のもとにおいて、出島の外で診療所と学塾を兼ねた施設の開設や薬草採集の許可は破格の処遇であった。
 鳴滝塾には、シーボルトを慕って全国から多くの若い俊才が集まり熱気溢れる学塾となった。その中から、最初の塾頭となった美馬順三(阿波、30歳)はじめ、高良斎(阿波、25歳)・二宮敬作(伊予、20歳)・岡研介(おかけんかい)(周防(すおう)、25歳?)・湊長安(みなとちょうあん)(江戸、30歳?)・高野長英(たかのちょうえい)(陸奥(むつ)、20歳)・伊東玄朴(いとうげんぼく)(肥前(ひぜん)、24歳)・石井宗謙(いしいそうけん)(備前(びぜん)、28歳)・小関三英(こせきさんえい)(出羽(でわ)、37歳)・青木周弼 (あおきしゅうすけ)(長門(ながと)、16歳)・伊藤圭介(いとうけいすけ)(尾張(おわり)、21歳)・戸塚静海(とづかせいかい)(遠江(とおとうみ)、25歳)・児玉順蔵(こだまじゅんぞう)(備前(びぜん)、18歳)(年齢は文政6年〔1823年〕当時(④))など後年幕末における蘭学の第一線を担った逸材が輩出した。
 鳴滝塾におけるシーボルトの指導法の特色は、医学を臨床的、実際的に教授するとともに弟子たちに各分野の課題を与えて実証的に研究させることにあった。さらに研究結果をオランダ語でレポートにまとめさせ討論を加えて内容を深め、弟子たち一人一人の研究業績に応じてドクトル(学位)の称号を与えた。シーボルトの指導方法のねらいは、門下生の学問的、実務的実力を育成するとともに門弟たちが提出した各種研究論文を通して日本の各分野の実情を「万有学的」には握することにあった。
 また、シーボルトは有能で貧窮な門下生を鳴滝塾に住み込ませて勉学と生活の便宜をはかった。彼は、特に二宮敬作の篤実な人柄とひたむきな研究態度を厚く信頼し、医療の手伝い、各種標本資料の整理や鳴滝塾の雑用などをさせ学資と生活の援助を惜しまなかった。鳴滝塾での二宮敬作は日頃、芋に塩をつけてかじっていたので「伊予の芋敬」とあだ名されたりしたが、そこにも懸命に苦学する敬作の姿が見られた。ちなみに鯨と捕鯨を研究していた高野長英は「鯨の長さん」、伊東玄朴は「馬鹿勘」というあだ名が付いていたが(①)、切さたく磨して勉学に励む塾生活でのユーモラスな一面をかいま見ることができよう。
 二宮敬作がシーボルトに厚く信頼されていた例は、敬作が九州の某高山で採集したミズキの一種の高山植物を「ケイサキー」と命名し、次のように「日本植物誌」を通してヨーロッパの学界に紹介したことからもうかがえる。「我が忠実なる書生敬作は、葉と実との形状より十分に鑑別すべき第三の種類を九州の高山中に野生せるを発見したり。余は興味ある植物につき、その産地を、この熱心なる植物学者によりて確定し得たるとともに、これに『敬作アハモチ』(Croylopsis Kesa-kii)と命名するを満足とす(②)」。また、シーボルトは敬作に親愛の情を示し、日頃から遊行や薬草採集の折りに敬作をしばしば伴なっていた。

 エ シーボルトの江戸参府同行と富士山の測量

 長崎のオランダ商館長は、慶長14年(1609年)以来、江戸に上って将軍に拝謁(はいえつ)し日本貿易の御礼の品々を献上することを習わしとしていた。
 シーボルトは文政9年(1826年)、162回目に当たるスチュルレル商館長の江戸参府の随員として同行した。この際、シーボルトは、有効に日本に関する調査研究、資料収集を進めようとし、補助員として高良斎や二宮敬作などを伴い治療や調査の助手をさせた。二宮敬作には富士山測量の課題を与えたが、江戸参府の従者に選び、重要な調査測量を任せたところにも二宮敬作に対するシーボルトの並々ならぬ信頼のほどがうかがえる。
 二宮敬作は、シーボルトの命により文政10年(1827年)4月、まず温泉岳(雲仙岳)の高さを測量し、さらに、翌文政11年に富士山の高さを測量した。この測定はトリチェリの気圧計を用い気圧測高法と呼ばれる算出法によったものである(⑤)が、富士山の測量は敬作の重要な業績の一つとなった(なお、富士山を測量した年については志賀重昂(しがしげたか)など文政9年とする説(⑥)もある。)。

 オ シーボルト事件と二宮敬作

 このようにシーボルトは在日中、極めて精力的に日本の制度・文物・風俗・山海自然・動物・植物等を調査研究し多くの成果を得た。文政11年(1828年)9月、任期が満ちたシーボルトは、膨大な調査研究の資料を土産にオランダに帰国しようとした。ところが、シーボルトの荷物を積んでオランダに向け出帆待機中のコルネリウス=ハウトマン号が8月9日夜の大暴風雨によって稲佐浜に打ち上げられ、船体を修理しようとした際積荷の中から国禁の数々の品物が発覚したのである。その中には、特に国外持出し禁止の日本地図があった。この地図は、幕府天文方(てんもんかた)高橋作左衛門景保(たかはしさくざえもんかげやす)が、父至時(よしとき)の弟子で景保の部下でもあった伊能忠敬(いのうただたか)が作製した「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」を模写した地図で、景保がシーボルトからクルーゼンシュテルンの「世界一周記」を譲られた代わりにシーボルトに贈ったものであった。さらに、積荷の中から将軍家の葵(あおい)の紋服が発見された。この紋服は、将軍家侍医(じい)として名高い眼科医の土生玄碩(はぶげんせき)が、開瞳剤(かいどうざい)(*1)をシーボルトから教えられた代わりに贈ったものであった。
 幕府は、文政11年(1828年)10月から翌12年2月にかけて高橋景保はじめ関係した幕吏・通詞や高良斎、二宮敬作などシーボルトの門人を含め23人を獄に投じたが、幕府の追及はしゅん厳を極めた。土生玄碩は改易(かいえき)(家禄没収の処分)となり、中心人物の高橋景保は獄中で病死するに至ったが、関係者に対する厳罰は一族郎党に及んだ。その間、シーボルトも出島に幽閉され禁足状態におかれたが、多くの友人や門弟が連座したことに深い憂いと自責の念に駆られ、長崎奉行の度々の審問に対しても累が友人、門弟たちに及ばないように極力かばう努力を重ねた。
 二宮敬作に対する判決は文政13年(1830年)3月25日に下り、「江戸構(かま)え、長崎払(はら)い」(江戸立入り禁止、長崎より追放)の処分を受けた。門弟の中で最も重い処分を受けたのは島原温泉岳を測量したことにあったが、富士山の測量について処分されなかったのは、シーボルトが奉行の審問に際して門弟をかばい個人の名前を明らかにしなかったからであった。
 シーボルトは、文政12年(1829年)9月25日、長崎奉行より「日本構え」、すなわち再度日本渡来禁止という国外追放処分を申し渡された。同年12月30日、シーボルトは6年間住みなれた長崎からバタビヤへ向かって出航した後、文政13年(1830年)7月にはオランダに帰国した。
 長崎出港の当日、シーボルトを乗せたオランダ船ハウトマン号が港口の小瀬戸にさしかかった時、一隻の漁船が漕ぎ寄せしきりに手を振って別れの合図を続けた。その小船には、門人の高良斎と二宮敬作がシーボルトの愛人で遊女の滝(たき)(其扇(そのぎ))と3歳の愛児イネ(以祢(いね)、伊篤(いとく))を伴っており、シーボルトに最後のお別れのためひそかに漕いで来たものであった。停止したハウトマン号から降ろされたボートに乗ったシーボルトは漁船に近づき、涙の中に別れを告げた。シーボルトは長崎を離れる前に滝とイネ母娘の行く末を案じて、信頼する門弟の高良斎、二宮敬作に「一たび西に去れば、再来の望みなし。此の一塊の肉身は即ち余と思ひて、何とぞよく養育せられよ。(②)」と涙ながらに将来を託した。二人の門弟も感涙にむせびながらイネの養育を誓ったのであった。シーボルトは大変喜んで高価薬百斤(きん)をイネの養育資金として、また治療具などを二人に贈った。シーボルトから贈られた顕微鏡と拡大鏡は、幕末における熱情的な師弟愛のしるしを今日に伝えている。

 カ 二宮敬作の帰郷と医師開業~地域に尽くした蘭方医

 長崎払いとなった二宮敬作は、文政13年(1830年)6月、11年ぶりに故郷の磯崎の土を踏んだ。彼は故郷でしばらく休養した後、かねてから許婚であった喜多郡上須戒(かみすがい)村(現大洲市上須戒)の西イワと結婚した。
 敬作は、西家で2年半ほど医師を開いたが、敬作の名声を耳にした宇和島藩主伊達宗紀(だてむねただ)の内命もあって天保4年(1833年)、30歳の時、宇和郡卯之町(うのまち)(現宇和町卯之町)に出て開業した(写真4-1-9参照)(図表4-1-1参照)。
 卯之町における二宮敬作は、乳癌の外科手術も行うなど蘭方医の名医の評判が広まり多くの人々が治療に訪れた。患者には「得意の神技妙術を振うて、多くの人命を救い、世人を驚かした。そして患者に対しては貧富の別なく、手当方懇切を極め、急病と聞かば深夜山中にも往診し、徹宵努力することは珍しくはなかった。薬価謝礼などはほとんど念中にないようで書付の帳面などもなかった。(①)」という誠実で清廉無欲な人柄によって名声はますます高まった。
 また、敬作は如山(じょさん)と号したが、その名のとおり豪放らいらくで小さい事にこだわらない人となりで人々に慕われた。し好の面では中々の酒豪で、常々大いに飲んでは談論風発を好んだと言われる(①)。

 キ 楠本イネの卯之町来訪と養育

 先に述べたように、文政12年(1829年)9月、シーボルトは長崎に残してきた愛人の滝(其扇)と娘イネの将来に心を痛めながら日本を去ったが、その際、信頼する門人の高良斎と二宮敬作にイネの養育を託した。二宮敬作は、恩師より託されたイネ養育の約束を生涯かけて誠実に実行した。やがて滝は長崎の商人俵屋時治郎(たわらやときじろう)と結婚し、イネも引き取られて養われ、美しく読書好きのそう明な少女として育った。イネは「幼少の頃は弱体であったが、やはり父の血脈(けつみゃく)だけに幼少より学問を好み、日夜勉学に耽っていた。(①)」「母滝子は少女が弱躰なるに蘭学などに余り勉強するので心配して勉学を禁じたこともしばしばあった。(①)」が、イネの将来を心配して二宮敬作に相談し、イネを敬作に預け養育を依頼した。
 天保11年(1840年)14歳となったイネは二宮敬作を頼って長崎から卯之町へ来た(イネが初めて卯之町に来たのは12・3歳より19歳と各説(①②⑦)がある。)。
 宇和町の歴史に詳しい**さん(宇和町文化財保護審議委員)(宇和町卯之町 大正元年生まれ 80歳)によると、イネに関する卯之町の伝承では「卯之町中町(なかのちょう・なかんちょう)に青い目、色の白い可愛い娘をよく見かけ人目を引きました。」「卯之町横丁通りを青い目の娘がよく通り卯之町の人は大変可愛いがっていました。」「松屋旅館のカヤ(敬作の親戚)とイネは大の仲良しでよく縄飛びをして遊んでいました。」と語り伝えられている。
 卯之町に来たイネは19歳まで約5年間敬作のもとで蘭学と医学を懸命に学んだ。敬作はイネの医学修業の方向について「父君も産科に長じたまへり、卿も助産を専門とさるべし、外科はその第一歩なり。(②)」と産科医になるように励ました。
 敬作のもとで5年間修業したイネは、弘化2年(1845年)弟の病死を機に母滝の願いもあって長崎へ帰った。敬作は帰省するイネに、はなむけとしてすずりの裏に次の和歌を刻んで贈った。
   「なせば成(な)る 成さればならぬ何事も 成らぬというは なさざればなり。(②⑤)」
 弘化2年(1845年)、イネは敬作のすすめに応じて岡山で産科を開業しているシーボルトの門人石井宗謙に弟子入りした。石井宗謙も恩師シーボルトに報いるため6年にわたりイネの教育に打ち込んだ。しかし、その間イネは石井宗謙の子タダ(のち、高子)を生み、嘉永5年(1852年)失意と傷心のうちに長崎に帰った。イネは長崎で産科医院を開いて評判の産科医となり、さらに阿部魯庵(ろあん)に師事して産科の研究を重ねた。


*1 眼科手術の際点眼して瞳孔をひらく秘薬。

写真4-1-4 二宮敬作出生地跡(保内町指定文化財)

写真4-1-4 二宮敬作出生地跡(保内町指定文化財)

保内町磯崎。平成4年10月撮影

写真4-1-9 二宮敬作住居跡(宇和町指定文化財)

写真4-1-9 二宮敬作住居跡(宇和町指定文化財)

宇和町卯之町三丁目。平成4年9月撮影