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宇和海と生活文化(平成4年度)

(3)開明的な宇和島藩主と二宮敬作

 シーボルト事件で「江戸構え、長崎払い」の処分を受けた二宮敬作が卯之町において開業するようになったのは、敬作の名声を耳にした宇和島藩主伊達宗紀の配慮のある内命によった。
 二宮敬作はじめ高野長英や村田蔵六(むらたぞうろく)(大村益次郎(おおむらますじろう))など幕末の歴史的群像が活躍した宇和島藩の土壌は、歴代の宇和島藩主の開明的なリーダーシップによる藩政改革の中で培われた。歴代の宇和島藩主に課せられた藩政の基本問題は、いかにして窮乏化した藩財政を立て直し、藩体制を強化して富国強兵策を実現するかにあった。
 今日における南予地方の社会経済と生活文化は、江戸時代後半の宇和島藩における積極的な藩政改革の成果に母胎を持つと言えよう。

 ア 伊達村候(だてむらとき)~宇和島藩中興(ちゅうこう)の英主(えいしゅ)

 江戸中期の第五代藩主伊達村候(号、楽山(らくざん)、南強(なんきょう))(1725年~94年)は、寛保(かんぽう)・宝暦(ほうれき)期の改革(寛保3年〔1743年〕以降)によって農村復興と藩財政の立て直しにある程度成功し、宇和島藩「中興の英主」とうたわれ、また「三百諸侯中屈指の良主」と称された。村候は殖産興業政策をはじめとする諸改革の一つとして学問を奨励し、長崎に外科医を派遣して蘭医学を学ばせ宇和島藩の蘭学研究のスタートをきった。
 その後文化年間以降になると、宇和島藩の蘭医学は歴代宇和島藩主の積極的な藩政改革の中で発展し、幕末に継承されて花開いた。宇和島藩において発達した蘭医学の系統は大きく分けると、①江戸の杉田玄白(すぎたげんぱく)・大槻玄沢(おおつきげんたく)・伊東玄朴の系統、②大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾(てきじゅく)の系統、③長崎のシーボルトの鳴滝塾の系統とほぼ三系統(⑧)となる。そのうち①の系統には富沢礼中(とみざわれいちゅう)など藩医の大部分、②の系統には二宮敬作の子の逸二(いつじ)など、③の系統には二宮敬作や甥の三瀬周三(みせしゅうぞう)(諸淵(もろぶち))などがおり幕末の蘭医学の最前線にいた。

 イ 伊達宗紀(だてむねただ)の藩政改革~文政(ぶんせい)・天保(てんぽう)期の改革

 第七代藩主伊達宗紀(号、蘭台(らんだい)、春山(しゅんざん))(1792年~1889年)は、文政8年(1825年)より諸改革を推進し藩財政の再建を図った。藩政改革の重点は、倹約令や負債整理などによる財政再建策と製蠟(ろう)業の専売制を核とする殖産興業政策にあった。特に注目すべき点は、佐藤信淵(さとうのぶひろ)の経済論、農政論を学ぶため家臣の若松総兵衛(わかまつそうべえ)と小池九蔵(きゅうぞう)を入門させたことである。佐藤信淵は伊達宗紀の依頼により天保10年(1839年)「上宇和島藩世子封事(ふうじ)」を書いて藩政改革の要綱を示した。伊達宗紀の在任は文政7年(1824年)から弘化元年(1844年)まで21年に及んだが、積極的な財政政策、富国強兵策によって宗紀が引退した時には6万両の蓄財が藩庫にあったといわれる。
 この文政・天保の改革時代は、二宮敬作がシーボルトの鳴滝塾で学び、シーボルト事件後帰郷、宗紀の内命もあって卯之町で開業し、庶民的な蘭方医として名声が高まりつつあるころであった。

 ウ 伊達宗城(だてむねなり)の藩政改革~安政期の改革

 宇和島藩が西南雄藩に連なり、幕末の政局で活躍したのは第八代藩主伊達宗城(号、藍山(らんざん))(1818年~92年)の時であった。伊達宗城が激動の舞台で活躍できた宇和島藩の実力は、第七代藩主伊達宗紀の藩政改革によって基盤が築かれていた。
 文政12年(1829年)、伊達宗紀の養嗣子となり、弘化元年(1844年)就封した伊達宗城は、越前の松平慶永(よしなが)(春嶽(しゅんがく))・薩摩の島津斉彬(なりあきら)・土佐の山内豊信(やまのうちとよしげ)(容堂(ようどう))とともに「幕末の四賢侯(けんこう)」とたたえられた。宗城は第八代宇和島藩主として先代宗紀の藩政改革の実績を受け継いで富国強兵策を強力に推進した。さらに、安政期の将軍継嗣(けいし)問題、日米修好通商条約勅許(ちょっきょ)問題、公武合体運動、大政奉還にいたる幕末から明治維新の激動の時代において、開明的藩主にふさわしいリーダーシップを発揮し歴史に大きな足跡を残した。
 明治新政府では、明治元年(1868年)軍事参謀、外国掛、参議、明治2年民部卿(みんぶきょう)兼大蔵卿(おおくらきょう)など要職を歴任した。明治4年(1871年)には全権大使として日清修好条規(じょうき)を締結するなど内外にわたって活躍し、明治25年(1892年)に死去した。
 宗城は幕臣山口直勝の次男として生まれたが、父直勝は渡辺崋山(わたなべかざん)の絵の門人で西洋事情に通じる開明的なふんい気の中で育った。国際的感覚豊かな宗城が藩主であったからこそ宇和島藩の蘭学も花開き、開明的進歩的な藩政改革が推進されたのである。
 宗城は富国強兵策の実をあげるため積極的に経済政策を推進した。特に、安政3年(1856年)には物産方(ぶっさんかた)を設置して殖産興業を展開し、従来の国産品である木蠟・和紙・干鰯(ほしか)の専売制を強化した。また、陶器・しょうのう・藍玉の製造・かつお節・するめ・いりこなどの多様な産業育成を進め、農村・漁村振興による富国増進に努めた。
 伊達宗城の富国強兵策の重点の一つは、宇和島藩の軍備の近代化と海防策の強化にあった。弘化2年(1845年)に大砲鋳造所を設置し、弘化4年(1847年)にはオランダ式の兵式訓練を始めた。また、安政4年(1857年)には従来の砲術5流派を威遠流(いえんりゅう)西洋砲術に統合した。積極的に軍事の近代化を進める伊達宗城(安政の大獄で穏居)や宗徳(むねえ)(安政5年より第九代藩主)はオランダ式兵式訓練を閲兵したり、自ら陣頭指揮にあたる場合もあった。
 一方、海防策の沿岸防備を強化するため、嘉永(かえい)元年(1848年)来藩中の高野長英の設計によって御荘(みしょう)組(現南宇和郡城辺町)に久良(ひさよし)砲台を築き、安政2年(1855年)には来藩中の村田蔵六(大村益次郎)の指導によって宇和島湾内に樺崎(かばさき)砲台、さらに元治元年(1864年)に蛭子(えびす)山砲台を築造した。
 このような情勢の中、卯之町で医業に励む二宮敬作は、弘化2年(1845年)7月宇和島藩より「右の者医術相励み、治療方実意に出精いたし、組内は申すに及ばず、その外とも為筋に相なり候趣相聞こえ一段の事に候(⑨)」と帯刀を許され、合力米(ごうりきまい)(給与米)5俵を与えられた。また、敬作の二男の逸二にも修業扶持(ぶち)分として一人分が与えられた。さらに安政2年(1855年)には準藩医・御徒士格(おかちかく)(下級武士相当)の身分を受けるようになり、二宮敬作の蘭方医としての精励と名声に対する伊達宗城の処遇が示された。