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宇和海と生活文化(平成4年度)

(5)敬作の長崎再遊学とシーボルトの再来日

 ア 二宮敬作の長崎再遊学……イネ・三瀬周三とともに

 安政元年(1854年)の日米和親条約はじめ翌年には日蘭和親条約が結ばれ、日本は鎖国から開国の道を歩み始めた。安政3年(1856年)春、オランダのシーボルトより一・二年のうちに日本に再渡航するとの消息があったので、同年敬作はイネと甥の三瀬周三を伴い長崎を再度訪れることとした。藩命による出張の形で長崎に赴いた敬作は、長崎銅座町のイネの家でイネとともに医院を開業した。しかし診療にはイネの家が狭いため敬作は諏訪町に移って医院を開いた。敬作の長崎再来を伝え聞いて教えを請う青年や治療を願う患者などが数多く敬作宅を訪れ門前市をなす有様であった。
 伊予からも保内組川之石浦の豪商矢野小十郎(やのこじゅうろう)が安政3年(1856年)二宮敬作に診察を請うた。小十郎の旅行記によれば「ソレヨリ長崎へ行キ同所ニテニ宮敬作氏二面会シ診察ヲ受ケシガ同氏ハ病ノ発スル事ナキヲ証ス 当時長崎ニテハ二宮氏ノ右二出ズル医ナキヲ以テ他医二診察ヲ乞(こ)ハサリシ丈二安堵(あんど)セリ。(⑪)」と敬作の名医ぶりを称賛している。
 安政4年(1857年)の夏、54歳となった敬作は暴走馬の騒ぎに高下たで外出しようとして転び、右半身が不随となったが、数か月の休養後再び診療に当たることが出来るようになった。
 安政5年(1858年)、長年連れ添い敬作を支えてきた妻イワが死去したため一度卯之町に帰った。その際三瀬周三も大洲に帰省した。
 周三は同年8月、肱川河原において長崎から持って帰った電信機械の実験に成功した。この実験は、八幡神社の古学堂(*4)から肱川河原に約980mの銅線を架設して送信を試み、かすかに通じたといわれるが、日本における三番目の電信実験で初成功の意義を有した(写真4-1-17参照)。

 イ シーボルトの再来日と二宮敬作の再会、三瀬周三の入門

 安政6年(1859年)、国禁(追放令)を解かれたシーボルト(63歳)は長男アレキサンデル(14歳)を伴って30年ぶりに再び日本の土を踏んだ。出迎えたのは、53歳の滝、33歳のイネ、8歳のタダ、さらに、中風で体が不自由ながら鳴滝塾門弟唯一人の56歳の敬作と甥の三瀬周三等であった。「迎えるもの迎えられるもの感慨無量、只涙につぐ涙で挨拶の言葉も途切れ途切れで(①)」あったという。
 再び長崎の鳴滝に落ち着いたシーボルトは久方ぶりに滝、イネはじめ敬作等と親交を重ねた。敬作の甥周三はシーボルトに師事したが、同時にシーボルトの息子アレキサンデルに日本語を教え「日蘭英仏対訳辞典」をまとめた。周三はシーボルト最後の弟子として懸命に学びシーボルトが驚くほどの語学力を身につけた。
 敬作はシーボルトの来日後も右手が使えない不自由な体で医師を続けた。万延元年(1860年)6月シーボルトの所へ化のう性しゅようの患者が治療に訪れたが、シーボルトは手術は不可能と断った。しかし、敬作は左手でメスを取って患部摘出の手術に成功し完治したので、シーボルトは「西洋にもかかる豪胆にして妙技なるものなし。(②)」と敬作の腕前を称賛したといわれる。
 開国後の激動する情勢下、シーボルトは文久元年(1861年)3月幕府の外交顧問に任じられ、周三を通訳として伴い江戸に上った。周三は、幕府の通訳とは比較にならないほどの正確な通訳として活躍する一方で「日本国民文化的発達史」・「日本歴史」・「幕府建設史」などのオランダ語訳に努めた。しかし、文久年間は尊皇攘夷運動がますます高まった時期であり、シーボルトを排斥する傾向が強まる中で翌年幕府の外交顧問を免ぜられ長崎に帰った。次いで東インド総督の引き揚げの命令に接し日本を離れることになった。
 ところが周三は、文久元年(1861年)10月、幕府の命によって大洲藩邸に幽閉され、翌年4月、シーボルトの通訳として幕府の最高機密を知ったことと武士でないのに苗字・帯刀をしたという理由で江戸佃島(つくだじま)の獄へつながれた。シーボルトも周三の釈放のため幕府に対して懸命に最後の弁明に努めたが無駄であった。周三はそれから4年間(途中一時、病気療養のため大洲藩邸に帰された)にわたり佃島の獄舎で苦しんだが、その間「英文典」・「和蘭外科医書」を和訳するなど学問的な努力を重ねた。

 ウ 二宮敬作、長崎に永眠~イネ・三瀬周三・高子の足跡

 文久2年(1862年)3月12日、シーボルトは万感胸に抱きつつイネやタダ、門弟たちに別れを告げ長崎を離れた。その夜敬作は息子の逸二やイネたちに見守られながら永遠の眠りについたのである。享年59歳であった。また、その年の7月、二宮逸二は不運にも父に続いて長崎で急死した。敬作の墓は長崎市の皓台寺(こうだいじ)にあり、敬作を父のように敬慕してやまないイネが建てたものである。墓石の裏面には敬作の親友であった上甲振洋(しょうこうしんよう)の名文の墓誌銘が刻まれている。さらに、敬作の遺髪は宇和町光教寺境内に埋葬され、墓石には右から敬作・妻イワ・次男逸二の順で法号が刻まれている(写真4-1-19、図表4-1-1参照)。
 次男の逸二は宇和島滞在中の高野長英が開いた五岳堂の逸材といわれ、その後、大坂の緒方洪庵の適塾に学んだ。逸二は文久元年(1861年)3月、ロシア軍艦ポサドニック号が対馬に来て暴行を働き住民が抵抗した事件を聞いて現地に調査に行くほどの意欲的な青年であった(⑧)が、若くして世を去った(死因には暗殺・毒殺説もある(①②)。)。
 イネは敬作が死去した文久2年(1862年)、周三の釈放運動のため娘タダを連れて宇和島を訪れた。伊達宗城と宗城夫人はタダを侍女として事の外かわいがり、タダを高子と改名させた。イネも請われて宗城夫人や御殿女中の診療にも当たった。さらに、元治元年(1864年)、再度周三の釈放運動のため宇和島を訪れたイネは、これまでシーボルトのなまりで「失本(しいもと)」と称していたが、宗城のすすめで「楠本」(イネの母滝の先祖の通称)と改姓した。
 一方、江戸佃島の獄舎につながれていた周三は、慶応元年(1865年)8月、伊達宗城や大洲藩主加藤泰祉(やすとみ)らの尽力によってようやく釈放され、大洲藩に三人扶持で召し抱えられた。さらに慶応元年(1865年)11月には伊達宗城の招きで宇和島藩に仕え、翌年6月に新設の英蘭学稽古場の教授となって70人の学生に英語とオランダ語を教えた。
 また、同年6月イギリス公使パークスが宇和島湾に来航し伊達宗城・宗徳と会談や閲兵などを通して友好を深めたが、その際パークスは通訳を務めた周三の優れた応対に感嘆したといわれる(②)。
 周三は慶応2年(1866年)3月、伊達宗城の命によりかねてから婚約中の高子と結婚した。結婚式は家老松根図書の司会により藩邸浜御殿の南御殿(天赦園(てんしゃえん))において滝とイネも列席して盛大に行われたが、ここにも周三やイネ母娘に対する宗城の温かい思いやりが示された。
 その後、日本の近代医学のれい明期に貢献し、福沢諭吉以上の語学の天才といわれた三瀬周三と日本最初の蘭方産科女医となったイネの歩みについては、紙数の関係で年代を追った略記にとどめる。

 〇明治元年(1868年)
  三瀬周三、ボードウィンや緒方惟準(おがたこれじゅん)とともに大阪医学校および病院の教授になる。
 〇明治2年(1869年)
  周三、大学少助教となる。この年9月遭難した大村益次郎(*5)(村田蔵六)を大阪病院でボードウィン・緒方惟準・
 イネ・高子とともに看病するが及ばず死去、享年45歳。
 〇明治3年(1870年)
  イネ、東京(京橋区築地)において産科医を開業(44歳)。
 〇明治4年(1871年)
  周三、文部中助教となる。
 〇明治5年(1872年)
  周三、文部省大助教となる。この年、東京・横浜間の鉄道敷設工事に関係する。
 〇明治6年(1873年)
  周三、大阪出向を命ぜられる。大阪医学校(現大阪大学医学部)、病院に勤める。
  イネ、福沢諭吉らの世話で宮内省御用掛を拝命。
 〇明治9年(1876年)
  周三、大阪病院一等医を拝命。
 〇明治10年(1877年)
  10月19日、三瀬周三、胃腸カタルで死去、享年39歳。(墓地は大洲市大禅寺)
 〇明治36年(1903年)
  イネ、東京で死去、享年77歳。
 〇昭和13年(1938年)
  山脇高子死去、享年88歳。(高子は三瀬周三死後、医師・長崎医学校教授山脇泰助(やまわきたいすけ)と再婚し、琴曲の
 奥義を極めて最高位を得た。)


*4 国学者常磐井厳戈(ときわいいかしほこ)の家塾で、三瀬周三も14歳から3か年学んだ。武田成章(たけだなりあき)(函館
  五稜郭(ごりょうかく)を築造した洋学者・兵学者)など幕末の有為の人材が合成された。
*5 明治新政府では兵部大輔(ひょうぶだゆう)(軍事大臣)として近代軍制を創始し、徴兵制を唱えて反対派士族に京都で襲
  撃された。

写真4-1-17 三瀬周三(諸淵)の電信実験記念碑

写真4-1-17 三瀬周三(諸淵)の電信実験記念碑

「日本における電信の黎明 三瀬諸淵先生電信初実験の地」(昭和56年、日本電信電話公社が大洲電信分局開始百周年記念として八幡神社古学堂跡横に立てた。)。平成5年1月撮影

写真4-1-19① 二宮敬作の墓(宇和町卯之町光教寺)

写真4-1-19① 二宮敬作の墓(宇和町卯之町光教寺)

平成4年8月撮影

写真4-1-19② 二宮敬作の墓(長崎市皓台(こうだい)寺)

写真4-1-19② 二宮敬作の墓(長崎市皓台(こうだい)寺)

平成5年2月撮影