データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)酒蔵から見た宇和海-戦前の杜氏の生活

 **さん(伊方町川永田 明治44年生まれ 82歳)農業
 **さん(伊方町川永田 大正6年生まれ 76歳)農業、元杜氏組合長
   (なおこの項については、後出の**さん、**さんの終戦前後の時期の体験も含めて小項目ごとにまとめて記述してお
   り、お二人の話を個人別に記したのではなく、手作業の時代の酒造労働者としての共通体験と考えられたい。)

 ア 蔵に入った背景

 「まあ、ここらは皆5反百姓で生活が苦しいため、少しでもお金を稼ぎ口減らしをするということで、高等小学校でたら残る者はほとんど蔵夫になりよりましたわい。食事も何も皆、蔵で支給されますけんな。家を守らないけんということで、長男がなることが多かったですわい。芋麦の時代は、11月に麦植えてから行くということで、酒屋への出稼ぎがちょうど農閑期にぴったり合うとりました。今のような柑橘の時代になると、逆に農繁期になってしもうて、(機械化が進んである程度時間の余裕もあることから)取り入れの時だけ、家に飛んで戻ってやるようなことになっとりますが。そのころは、次三男は職人等で、だいたい外にでましたな。杜氏の半年分の出稼ぎの給料は、町長さんのそれより多かったですらい。
 1日分の給与が下働きで酒1升ほど(80銭)で、杜氏は半年で2~300円じゃったでしょうか。
 なぜ、伊方で杜氏がでてきたかについては、伊方人はしんぼう強く実直だとされ、それが杜氏の仕事に向いておるとも言われるし、戦前まではここらは蚕(=生糸)の全盛期で蚕さん飼うために夜ほとんど寝ずに働くけん、それが酒蔵での夜中も続く作業に合(お)うとったからだとも言われます。しかし、はっきりしたことはわかりません。
 とにかく、伊方では冬は酒造りに出るのが当たり前で、酒屋でようしんぼうしきらんような者は男じゃないと言われ、少々つらいことがあっても途中で辞めるような者はおりませなんだな。わたしは最初に父の蔵で蔵夫(くらふ)となりましたが、だいたいは親戚その他のつてで杜氏さんから選んでもらって、働き始めることになります。主人側が度胸がええか、肝が切れるか(給与の支払いや取り扱い)ということや、おやじ(杜氏)さんがうるさすぎるとか人使いが荒い等の人間関係で、蔵夫も蔵を選ぶことも多かったですな。まあ、日仕舞で9人の組やったら、2人かそこらは毎年変わってました。」
 **「わたしの最初の蔵は18の時から三間町(北宇和郡)の虎の尾酒造で、その後高知県幡多(はた)郡奥内村の上田酒造、城辺町(南宇和郡)の谷口酒造と移りました。杜氏となったのは昭和22年、数えの38歳の時で、大分県鶴崎の稲月酒造の杜氏を11年間務め、昭和33年から松野町(北宇和郡)の正木(まさき)本店で27年間お世話になりました。
 出稼ぎに行く時は、柳行李(やなぎごうり)一つ担いで出て、その中には作業着と少しばかりの下着ほどです。今も行李(こうり)で行く人もおります。ふとんは蔵に用意してあって、かちかちのつぎはぎだらけのもので、昔は寒さを防ぐため間にむしろをはさんで寝たりもしました。足元には、よう(よく)ねずみがはいよった(はっていた)ものです。」
 **「わたしは、昭和7年(1932年)に父が杜氏を務めておった松野町の正木本店で、3年間蔵夫として修業しました。その後同じ松野町の正木支店の祖父のもとで働き、兵役を間にはさんで20歳で酛師になり、兵役後は軍隊で記帳(経理=簿記)を習った関係で帳簿の整理が主な仕事となり、『麴造り』等はあまり携わらんかったです。昭和22年に30歳で杜氏になりました。最初は、保内町の勢泉酒造で13年間、それから津島町(北宇和郡)の西村酒造で7年間、昭和43年から現在まで八幡浜の梅美人酒造で、それぞれ杜氏を務めさしていただきました。
 杜氏の技術は『酒屋万流(まんりゅう)』と言われ、各杜氏ごとに独自の工夫をしております。ただ、品評会等で常に優等を取る年配の名杜氏さんが杜氏組合で力を持っておられて、その推薦や引きがないと昔はなかなか杜氏にはなれんかったのと、先輩杜氏から体で技術を教えてもらっていくため、名杜氏さんのもとで3~4ほどの流派がありましたでしょうか。」

 イ 修業時代-蔵での仕事

 (ア)朝食までの仕事

 「下端の蔵夫は午前1時に起きて、酒米を蒸すために水を入れた釜に火をつけます。経費を節約するためか10日前まで鳥がとまっておったような生木が多く、火がなかなかつかず、湯が沸くまで2時間近くかかり、泣かされたもんです。湯が沸くと『釜屋(かまや)』を起こして、一緒に『甑(こしき)かけ』と言って水切りした漬け米を甑に入れる作業をし、その上にむしろ(後には帆布)をかけて蒸します。その間に、皆の食事の支度もするんですが、初めの頃は『かんち飯』(水が足りずしんがあって固い飯のこと)を作ったり、焦げつかせることも多くなかなか気苦労でした。とにかく、蔵夫は炊事洗濯、洗い物ばかりで、冷たい水のためヒビ・アカギレがひどくなるばかりの毎日でした。
 3時になると『よーい』とおらんで全員起こして、まず皆で井戸から水汲みです。『タメ桶』(18ℓ=1斗入り)に水を入れて肩の上に持ち上げて仕込み桶に運ぶんですが、後から先輩がどんどん追いついて来るので焦って走ることになり、いつも首筋から背中までびしょぬれになりました。いよいよ米が蒸し上がると、『甑取(こしきと)り』と言って全員で米を釜から出す作業となります。一人が、底は板で回りが酒袋の長靴をはいて、釜の中に入ってスコップでひっくり返し、もう一人が『かすり桶』で米をすくっていきます。残りの者で、麴用の米は室(むろ)に入れ、仕込み用の米はむしろに広げて冷やします。間に室から麴を出す『出麴(でこうじ)』の手伝い、『水麴(みずこうじ)』(仕込み前に麴と水を混合する)もあります。これが終わると6時前で、それからようやく朝食です。
 『甑取り』の前には、釜屋が『けんじょう』(検蒸?)をします。蒸米の一部をすくいとって、櫂棒(かいぼう)ですりつぶしてすけて見えるくらいの薄さの『ひねり餅(もち)』を作って杜氏さんに持っていき、杜氏さんはそれを光にすかして、蒸し加減・米質・香り等を確かめて、よしとなったら『甑取り』をするわけです。蔵夫になってしばらくするとこれを習うわけですが、最初の2~3年は餅にならんのです。時間が経つと固くなってしまうので、焦ってやって慣れん時は必ず手を焼き、それでも米粒の固まりがあちこち残って餅も黒くなってしまい、杜氏さんに見せるとポーンと放り投げられるわけですわ。とにかく一人前として認められるためにと、手に豆を作りながらも毎朝練習したもんです。」

 (イ)朝食から夕食まで

 「食事の後、冷しておいた蒸米を仕込桶に入れ、『添(そ)え』『仲(なか)』『留(と)め』と全員がかかっての仕込みが始まります。これは杜氏さんの指示のもとに、仕込み水、麴の量を全部量りながら入れていきます。また『湯打(ゆう)ち』『内廻(うちまわ)り』等の桶の洗浄、『米洗い』、室(むろ)での麴の『床(とこ)もみ』、『(槽(ふね))しぼり』(圧搾工程)と、それぞれ分担を決めてやっていきます。これらの作業は同時に並行してやることも多く、また一人の者が次々といろいろな仕事をしていかんといけません。最近は人手不足で地元の素人さんを雇うこともよくあるんですが、工場の流れ作業のような同じ形式の作業でなく、違った作業を並行してやっていかんといかんので、手順や作業内容を覚えるまでに嫌になって、辞めてしまうことが多いようです。慣れると一定のリズムがあって、そんなこともなくなるんですが。作業の時間は、朝は午前7時から12時まで、それから昼食をして仮眠を取り、午後3時から7時頃まで作業します。
 『米洗い』は、昭和の初めには、手回し式で4枚羽根の米洗い器だったですが、切れるような冷水で全部手でやりよった昔は、一番つらい作業だったでしょう。手回し式でも、70回→50回→30回と廻していくと、パンツ一丁で前垂れ姿ですが、最後の頃は湯気が出るほど汗が出たもんです。洗った米は桶で水に漬(つ)けて翌日の蒸しまで置いておきます。
 午前中に『湯ごもり』と言って、桶に熱湯を一杯張って殺菌するわけですが、その後の『湯打ち』は、桶を横に寝かして長柄(ながえ)の杓(しゃく)で、湯を中に打ちかけていくものです。ズンズンと音がしなければだめで、桶をくるくる廻しながらまんべんなく掛けていき、その後『ささら』(細い竹を何本か合わせたもの)でこすります。熱湯ですから注意しないと自分にかかることもあり、うまい人は均等に湯を無駄にすることなくかけていきます。『内廻り』は、仕込み桶を仕込みがすむたびに洗うんですが、これは『内廻り』の役の者が、桶を立てたまま下駄をはいて中に入り、ほうき(ほうき草で編んだもの)とかすり(ちりとり状で湯をすくう)とふきんでやります。大事な仕事じゃし熱湯を使う中に入るんで、ある程度年数を経た蔵人がなります。戦前はまだほとんど木桶で、酒屋には、やはりそこらへんで一番腕のいい桶屋が毎日来ておりました。戦後になってホーロータンクに変わり、消毒薬もでてきたことから、そんなに洗うこともなくなりました。
 よい酒を造るこつは、『一麴(きく)、二酛(もと)、三造(つく)り(もろみ)』と言いまして、とにかく麴造りが一番肝心です。麴師(こうじし)または室屋(むろや)という役人(やくびと)が専門で(人数の少ない場合他の仕事も兼ねる)あたります。麴師は、杜氏の代わりを務められるくらいの力量が無ければだめで、食事の時も麴師の三役までに高膳(たかぜん)(脚付きの膳部)が付き、酛師とは給金が違っとりましたなあ。土壁で締め切った『室(むろ)』の中は、いつも24~5度ほどで、裸一貫で仕事をしよりました。麴師さんが蒸米に種麴(もやし)(麴菌)をつけてから、こねまわして広げるのが『床(とこ)もみ』で、蔵人も駆りだされて手伝います。その後、『もろ蓋(ぶた)』(麴を入れる木箱)にそれぞれ1升盛って何十枚も棚に積み重ねて、室の中に置いておくと麴菌がはえてきます。
 一定の時間が経つと『切(き)り返(かえ)し』(かたまりをほぐす)をやり、そこからは、麴師さんの専門です。間の『積替(つみか)え』(上下で温度差があるので、均等に生えるように上下の蓋を入れ替える)や『仲(なか)仕事』・『仕舞(しまい)仕事』(『もろ蓋』の中身を手でかきまぜて温度調節と撹拌をする)で、酒の出来が決まってきますんで、麴師の時分は気を抜く暇はありませんでした。
 『圧搾』は、『酒槽』でやりますが、これは舟の形に似ておるからそう言うんでしょうなあ。発酵の終わったもろみを、綿布に柿渋(かきしぶ)を塗った酒袋(さけぶくろ)に入れ、これを何十枚も積み重ねて、上から重しで圧力をかけてしぼるんです。これは『袋はり』というんですが、空気を入れないように袋の口を閉めないと、破れて米のまま外に出て『滓(おり)』になってしまうんで、技術がいったもんです。特に新米の時は、並んで槽(ふね)に放り込んでいきますから、先輩が後からどんどん追いついてきて、焦って袋はりや槽への投げ入れで失敗をやらかしました。
 『槽』で搾られてでてきたものは白濁しており、これを桶に貯めて滓を沈殿させて原酒をとるんですが(滓引き)、この時に『木呑(きのみ)』から『管呑(くだのみ)』につけかえて上の口から酒を出さんといけません。これが『呑(のみ)つけ』で、失敗すると口から噴出する勢いが強くてちょっとやそっとでは止められず、蔵中に酒があふれだしてしまいますから、これも熟練を要するものでした。わたしら新米は、熱湯で練習するんですが、初めての時や無心の時は案外うまくいっても、ちょっと間を置いたりかえって気にしながらやると、失敗することが再々でしたなあ。」

 (ウ)夕食後の仕事

 「7時前後に夕食を取った後、1~2時間ほど仕舞(しまい)仕事をやります。室で麴師さんを手伝っての『切り返し』・『仕舞仕事』と、『櫂入(かいい)れ』(櫂で、仕込んだ桶の酛を混ぜる作業で、もろみが均等になるようにして、発酵を助ける)作業が主なものです。この後の1~2時間の休息と風呂が、1日で一番ほっとする時間でした。風呂(食事も)は、杜氏さん、そして三役と、そこらあたりの序列は現在も厳しく守られております。
 夜中皆が寝入る時にも発酵と搾りは進んでおります。そのために、下端の蔵人をそれぞれ1人当番にあて、『泡番(あわばん)』と『槽番(ふなばん)』が残されます。槽番は、圧搾が進んで『締木』が下がって来た時に、『留(と)め石』をずらして吊り直す作業です。『槽番』の方は、これが終われば休んでいいので、早くやって休もうと焦って仕事をします。しかし、そういう時に限って『留め石』を落とし『男柱』から『締木』をはずしてしまい、また最初からやりかえんといかんようになります。石が重たいのとまた倍近い時間がかかるということで、この時ばかりは泣きたいような気持ちですわい。蔵夫の言葉で『酒蔵に杜氏と男柱がなけりゃよい』というのは、そういう意味です。
 もろみが発酵し始めて6~7日たつと湧(わ)き付いて、『高泡(たかあわ)』と言って桶を噴きこぼれるほど泡が盛り上がるんです(炭酸ガスが出るため)。そこで『泡番』は一晩中起きて、『泡消(あわけ)し』(竹を巻いたほうき状のもの)で、表面をかきまぜて泡を消すわけです。一つの桶で20分ほどはかかり、『日仕舞』の蔵ですと、『高泡』の桶が十何本あるんですけん、夜中じゅう起きてかきまぜとらんといけません。そのかわり、早朝の『甑取り』の時に眠れるわけですが、下端の蔵人ですと(役人の世話等もあって)1日4~5時間の睡眠ですけんもう眠とうてたまらん。そこで、うとうとと眠ってしまって、泡が桶を越してしもうた経験は、みんなあるんじゃないでしょうか。越してしまうと、白い泡がそこら中に広がって、跡を残さんように拭くのに必死でした。それで、杜氏さんらに怒られたもんです。そんな風に、酒蔵は一晩中明かりをつけて、働いとったわけです。」

 ウ 蔵人・杜氏としての心構え

 (ア)蔵人としての心構え

 「わたしはとにかく酒屋勤めをするようになった最初から、おやじさん(杜氏)がいなくても、仕事を任されるような人間になりたいということだけを念頭にやってきました。それでも昔は、下に出来る人間がおれば、自分に取って代わられるかもしれないということで、滅多に教えてもらうことはなかったです。おやじさんや先輩の仕事ぶりを見て、怒られながらも、とにかく自分の体で覚えるしかない。また、発酵の状態等は見ただけでは、わかるもんでない。そこで、税務署の役人や酒造技術講習の先生が来られた時に、話を聞きながら後をついてまわって、指に酛をつけてなめ、甘みがなんぼ、辛みがなんぼというように舌のからみを覚えて、だいたいこのくらいの時に酛を分けて(別の半切桶に酛を分けて『添え』『仲』『留め』と仕込みをしていくこと)いかんといかんのじゃのなどということを、つかむようにしておりました。
 足踏みの臼で精米をした時分に、身体が小さいからというので石を背負ってやり、その実直さを認められて一躍杜氏に抜てきされた人の話も祖父からよく聞かされました。とにかく、一人前として認められ、杜氏にまでなっていくには、誠心誠意毎日の仕事をやり、自ら努力し学んでいくことが、肝心であったと思うております。」

 (イ)杜氏としての心構え

 「杜氏になりたての年は、とにかく毎日が針のむしろでした。いままで、長いこと先輩の杜氏さんの仕事を見てきて手順はわかっておるものの、果たして本当にうまい酒ができるか、万が一にも『腐造(ふぞう)』(雑菌が入って酒が腐ってしまうこと)が起こりはしまいかと、やり慣れた作業の一つ一つが、今までとは違った重さを持っておりました。麴・酛・もろみとそれぞれの段階で、ちょっとした変調があるたびに、どうすべきか本当に気をもみました。一度『腐造』が出ると、蔵全体が汚染されているため一冬酒造りはできなくなることもあり、その酒は全部捨てなければなりません。3年間はもとに戻りません。(酒造家の)旦那さんの財産と大切なお米を預かっているわけですから、思い通りにいかずに眠れない日も多くありました。実際、昭和23年の全国的な『大腐造』(日本醸造協会が供給していた速醸酛用の培養酵母が汚染されていたとも言われる)では、自殺した杜氏もおったと聞いておりますし、その責任の重さはなった者でないとわからんでしょう。また、日仕舞ですと特に、毎日酒を搾っていかんといかんわけですから、その日の作業はその日のうちにしまわん(終わる)といかん。明日はないんです。とにかく一日一日が勝負でした。
 そのかわり、『皆造(かいぞう)』(火入れがすみ全ての作業が終わること)の日が来て、蔵を出る時の気持ちというのは、言葉ではちょっと言い表せませんなあ。兵隊の満期除隊の時と同じ気持ちですらい。会社を双肩に担ってようやく責任を果たし、一応満足できる製品が出来たという安心感、満足感、充実感の入り混じったものですか。毎年同じ作業とは言え、天候や米質等で同じものが出来ることはないですから、今年も一つの自分の作品を造りあげたという思いもありましょうか。
 杜氏は、何人もの人を預かっとるわけですから、いかに和を保たせるか、人を動かしていくかにも苦労しましたなあ。一人でもぶすぶす文句を言ったり、帰ったりする者がおったら、仕事にはなりませんのじゃけん。不平等にならないように、各自の性格に向くように、仕事を通じて進歩があるように、人の配置・仕事の配分をしていかねばなりません。もちろん叱る時には叱らんといけませんが、後に残らんようにして、おやじ(杜氏)の言うことなら何でも聞いてくれて、手足のように動くようになってもらわねば、いい酒はできませんわい。そのためにも、わが(自分が)努力せんといけませんがな。やってもらう者の気持ちにならんといかんといつも自戒しておりました。ただ、一度だけ失敗したなと今でも心残りなのは、吟醸酒造りのために高精白米を使って蒸米(むしまい)をしておった時です。釜屋が甑取りの前にひねり餅を一生懸命何個も作っておるので、(吟醸用で米が柔らかいため)『おい、もう餅はええが(いらん)』と言ったところ、どういうわけかえらく気を悪くして、とうとう一冬その釜屋とはうまくいきませんでした。わたしの説明が十分でなかったのか、当時は(ひねり)餅は家へのいいおみやげとして喜ばれていたので、そのために作っておったのを止められたからなのかはよくわかりませんが。とにかく、上にたつ者としては、(その場で)よっぽど腹のたつことがあっても、虫をこらえて、全体や今後の影響を考えて冷静に行動していかねば、皆を統率していくことはできませんなあ。」

 エ 地域社会との結びつき、杜氏の信仰

 (ア)酒造家と地域

 「酒造家というのは、昔は地主、今でも地域の名士・素封家がほとんどですな。じゃから、ほとんど酒を造らんようになった家でも、名刺には『酒造業……』と書かれよるわけです。一つの名誉職ですけんな。いまだに、経営者を『旦那さん』と呼ぶ杜氏もおるくらいです。戦前勤めておった松野町の正木本店も地主として、年4~500俵の年貢米(小作料として)で酒を造っておりました。昔は『アルコール添加』ゆうもんはないんですけん、全部純米酒じゃったわけです。ただし、酒米ではなく、一般の米を使うことがほとんどじゃったんですが。正木本店は『千石酒屋(せんごくさかや)』(1,000石=180kℓ以上の酒造量のある酒屋)として、外交員が2人おって、自転車で北宇和郡はもとより高知県の方まで売り歩きよりました。
 年貢米で造りよりますけん、杜氏等の人件費は米ぬかと酒粕でまかなえるくらい、もうけは太いもんじゃったでしょう。また、戦中や戦後すぐの時期は物不足で酒と名が付いたら売れ、その後も『末納税(みのうぜい)』で灘(なだ)等の大手メーカーに桶ごと売る時代が長く続きました関係から、一定の収入が保障されとるため、酒屋さんというのは、どっちかというと商売が下手なんじゃないでしょうかな。仕事は番頭さんに任せて、自分は懐手(ふところで)で一日築山(つきやま)を眺めとるような旦那さんもおりましたけんな。しかし最近の日本酒離れ等から、自分も裸になって働き、新しい試みをしておる酒屋さんも増えてきましたし、今後はそのような酒屋じゃないと生き残っていけんでしょう。杜氏は酒を造ることはできても、経営方針に口を挾むことはできませんから、やはり理解のある経営者との出会いがなかったら、いい酒造りはできませんわい。
 杜氏・蔵人の給与は、『皆造』の時に、まとめて渡されます。昭和7年(1932年)で、1日蔵人80銭、麴師1円20銭、蔵におった日数分をかけます。それ以外に、酒・酒粕(さけかす)の現物が支給されます。昔は人余りの時代ですけん、少し酒の出来が悪かったというようなことで、葉書1本で、杜氏の首が切られることもよくありました。ただ、蔵人等は使用人扱いですが、杜氏だけは出入りの者からも『おやじさん』と呼ばれ、食事も別室、脚付きの膳で別格扱いで、大事にしてもらいました。」

 (イ)酒造りにおける信仰

 「酒造りの神は、やはり松尾(まつお)神社ですな。伊方八幡神社(町内湊浦(みなとうら))にも、松尾神社が鎮座しており、戦後になって毎年10月中旬に杜氏組合の主催で、『酒造安全祈願祭』として杜氏・蔵人一同が集まって御祓(はら)いを受けとります。どの蔵にも松尾さんの神棚はあります。またわたしのおった蔵でも、最初の『米洗い』の時は、『もとづけ祝』として蔵人全員が本座敷に招かれて酒・料理がふるまわれます。『もとたて』(もとを造り始めること)には、神主さんに拝んでもらいます。また『甑倒(こしきたお)し』(『掛(か)け留(と)め』とも言い、『火入』を残して、仕込み作業をすべて終わること。杜氏ほか三役以外は帰郷する。)の日にもお祝いの席を設けます。宇和島等では、近辺の人数十名を招いて賑やかにやっておりました。いつ拝んでもらうかについては蔵毎に流儀が違います。他には、釜場には『荒神さん』井戸等には『水神さん』のお札をはっております。昔は、他にもいろいろと縁起かつぎがあったらしいですが、わたしらの代ではそれ以外には、大きい行事としてはなかったですな。
 ただ、女性は不浄として酒屋の奥さんでも蔵には入らないということは、つい最近までありました。今は、女性の酒造技能士が出ておるほどで、そのようなことはありませんがな。それと、『くまうじ(くまお)』(干支(えと)に合わせて、出立の際の方角・日の善し悪しを決める)言うて、方角の縁起かつぎだけは、今の杜氏さんでも強いようですよ。自分の行く蔵の方向に縁起のいい日を選んで、出るようにしております。」