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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

1 民俗学との出会い~四国とのかかわり~

池内
 今、御紹介をいただきました、池内でございます。私どもの会社で長くやっております「えひめ・人・その風土」という番組も、自分の仕事を通して愛媛の良さを見たいなと思ってやってきているわけです。
 所長さんの御挨拶でも、愛媛学とは何ぞやということがございましたが、私なりに言いますと、自分の住んでいるふるさとである愛媛のことを、もっといろいろ知ろうではないか、恰好いい言葉で言えば、そういう分野での知的好奇心をお互いに満たそうということが、愛媛学ではないかと漠然と理解しているわけです。地域学が各地で盛んになっているようですけれども、私たちは、まず自分の足元の愛媛を見詰めて、愛媛の良さをいろんな意味で再認識していくということで、愛媛学をやったらいいのではないかと思うわけです。
 須藤さんの先生でいらっしゃいます宮本常一先生は、日本常民文化研究所という所においでになったんですが、私は「常民」という言葉が大変好きで、言ってみれば、生活文化とは「常民、つまりそれぞれ平凡ながら生産的な仕事に従事しながら一生懸命生きている人が、長いこと持ってきた文化みたいなもの」ととらえていいのではないかと、思っているわけです。
 それで、今日のテーマは「日々のくらしを記録する」ということなんですけれども。たとえば、御飯を炊くということを考えましても、私の母親ぐらいの世代の人ですと、朝起きたらまず薪(まき)を割って、それから井戸へ行って水を汲(く)んで、お米を研いで、かまどに、この辺の言葉では「おくどさん」と言いますけれども、薪をくべて、それに古新聞だとか小さい木の枝だとかで何段階にわたって火をおこして、それから御飯を炊く。水加減だって、この量だったら手の何節目まで水を入れればいいということで経験的に、火加減も「はじめチョロチョロ、中パッパ、赤ちゃんが泣いても蓋(ふた)取るな。」というふうな言い伝えでもって。それが今はもう、前の晩にタイマーを仕掛けておけば、朝起きたらおいしい御飯が炊けているという時代になりました。おそらく、私の子供たちに「ガスも電気も使わないで、さあ御飯を炊きなさい。」と言ったら、全く御飯が炊けないのではないでしょうか。たかだか30何年前ぐらいまでは、そうやっておくどさんで御飯を炊いていた、その時代のくらしというものがだんだん分からなくなっていく中では、やはりくらしを記録するということは、非常に大事なことではないかという気がするわけです。
 ということで、民俗学写真という分野で非常に優れた仕事をされております須藤功さんに、いろいろとお話を伺います。先程御紹介がありましたので、だいたい須藤さんのことはお分かりだと思いますけれども、どういう仕事をされた方か、あるいはこの愛媛とどんなかかわりがあるかということも、話していただけるかと思います。
 数年ぶりに松山へお越しになり、夕べは道後へお泊まりだったそうで。お天気を心配していましたが、今朝は、あの辺をお回りになっていかがでしたか。

須藤
 そうですね。朝、ちょっとひんやりしていましたけれども、泊まった所のすぐ隣に神社があったので、私は絵馬の研究などもしているものですから、絵馬を見せてもらって、それから子規記念博物館を拝見してきました。なかなか面白いというか、勉強させていただきました。

池内
 お生まれは、秋田だそうで。愛媛とか四国には、ちょくちょくいらしているようなお話なんですけれども。須藤さんと四国とのかかわりをお聞かせ願えますか。

須藤
 ええ、生まれは秋田県の横手という所です。そこに16歳の秋までおりまして、それから埼玉の方に移ってくるんです。今は、神奈川県の秦野、「はだの」と濁るんですが、通称「丹沢」と言われている山のふもとの、ちょっと表通りに出ますと、これからの季節は、毎朝、富士山が見えるような町に住んでおります。
 私は、一人立ちして初めての仕事で旅をさせられたのが、実は四国だったんです。昭和42年ですけれども。その時には、長浜を起点にしてずっと南へ海岸沿いに下りまして、高知に出たわけです。やはり、初めての旅だったものですから、大変印象に残っているわけです。
 その後、何回か四国に来ました。昭和50年でしょうか、高知県の池川町の椿(つば)山、御存じの方もいらっしゃると思いますが、そこに焼畑があり、その取材に来ました。
 昭和56年には、金比羅さんの石灯篭、石垣、絵馬が国の文化財指定になりまして、その記録集を出すので写真を撮りに、延べにして1ヵ月半ぐらい琴平にいたんです。
 それから、私自身ではないんですが、大正時代の初めのころ、私の母方のおじいさんが東京で苦学して、医者になって初めて行けと言われた所が祖谷(いや)(徳島県)だったので、母親も四国にいたことがあるんです。治療代を払えない人が多かったので、クマやイノシシの肉などを治療代だと言ってポンと投げてよこしていたというような話を、私は小さい時に母親からよく聞かされました。また、母親が住んでいた家から向こうの山を走るウサギが見えたと、これはちょっとマユツバですけれども、後に私が民俗学をやりたいなといういうふうになったのは、どうもそういう母の話が潜在的にあったからかなと、思っているわけです。

池内
 それがきっかけになって、民俗学にお入りになった…。

須藤
 埼玉に移った後もあちこち住み歩いて、愛知県の豊橋に住んでいたこともあるんです。豊橋から北東に入った山の方は祭りの宝庫なんです。霜月の祭りに花祭りという大変有名な祭りがあるんですが、その祭りなどに行っている間に、本当に民俗学をやりたいなということになりました。
 宮本先生が豊橋に来られることがあったものですから、その時にお話して「実は、勤めを辞めて、写真をやりながら民俗学をやりたい。」と言ったんですが、「写真で食えるはずがないからやめた方がいい。」と言われたんです。でも、近畿日本ツーリストの中に日本観光文化研究所ができて、宮本先生が所長になると聞いたものですから、意志を通すわけです。弟子にしてもらったが、来いと言われたわけではないので、押し掛け弟子なんですけれども。
 写真というのは現地に行かなければいけませんので、そうすると民俗学もやりいいのではという下心もあったものですから。その研究所で、昭和42年から大体20年近く、北から南まで歩かせてもらいました。それで、四国にも何回か来たということです。

池内
 そういうことで、愛媛にも何回かお越しになったわけですが、愛媛については、どのような印象をお持ちになっていますか。

須藤
 とにかく、愛媛に対して大変親近感を持っていることは確かです。と言いますのは、一番最初の時に長浜を起点にしまして、大洲、内子、それから八幡浜、佐田岬も行きました。吉田、宇和島、御荘、一本松と行ったんですけれども、そこでいろんな人に出会ったんです。その印象がすごく良くて、皆、親切だったんです。それから、四国に来て強く感じたことは、宿賃が非常に安いということです。貧乏旅行ですから。これはありがたい。その当時、だいたい一泊平均800円でした。安い所だと650円で2泊という所もありました。そのころ東京に行きますと、一泊が大体1,000円から1,200円ぐらいだったんです。ものすごく安くて歩きやすいんです。それから優しさがある。たぶん、これは皆さんよく分かっているように、お遍路さんの関係だろうと思うんです。それに加えて温暖な気候ということが、たぶんこの愛媛の人たちを、言葉は悪いですが、フワーッとさせているんじゃないかと思うんですけれども。

池内
 フワーッとですか。

須藤
 実は、このフワーッというのはちょっと皮肉な面もありまして。
 今月の初めでしょうか。たまたまテレビのスイッチを入れましたら、国民文化祭の放送をしていたんです。ちょうど画面に牛鬼が出ているところだったんですが、テレビのキャスターは牛鬼のことを分かってないんですね。「あれは何だろう、何と言うんだろう、おかしな顔だ。」とか、「首が長い。」とか、「後ろの方には、ちょっと木で作った剣みたいなのが出ている。」とか。ちょうど2匹出ていましたから「これで喧嘩させるんだろうか、戦うんだろうか。」と言っている。聞いていますと、宣伝が行き届いていないわけです。
 こちらに来る直前ということで、愛媛に関係あるなと思って見ていたんですが、あまりこちらのことを流していない。そういうことが行き届いていない。まあ、別に差し支えないわけですが、そこらへんがのんきと言えばのんき、ゆったりしているなという感じをちょっと受けた。それで、フワーッというふうな言葉を使ったわけです。

池内
 それは、いろいろ御心配いただいて恐縮なんですけれども。そこで、愛媛学ということについては、もうちょっと何かありますでしょうか。

須藤
 愛媛学なんていうふうに「学」とつきますと私も難しいので、「学」のことになるかどうか分かりませんけれども。
 私は、民俗学写真家という肩書を付けているんですが、これは勝手に付けているわけです。もし尋ねられたら、「本当は『民俗学者』と言いたいけれども、『学者』と言うにはちょっと頭がないので、『写真家』とつけているんだ。」と説明しようと思っているわけです。ただ、もっと突っ込まれたら、「民俗学を考えて写真を撮るんだ。」というふうに言おうと思っているわけです。
 愛媛学もたぶん、「学」と言っても偉そうな学ではなくて、皆さんが何か愛媛県のことを考えようということの学なんだろう、学者などが考えるのではなくて、何でもない人たちが、自分の身の回りのことを考えて、その考えたことでもってここに参加するというのが本来の目的ではないか、と思っているわけです。
 それで、こちらへ来る時に、もう一度『愛媛学のすすめ』という本を読ませていただいたんですが、それを見ますと、まだよく固まっていないようで、安心もしましたし、これだったら、何か私の希望と言いましょうか、そういうものを述べればいいのかなと思ったわけです。