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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

3 記録することの意味

池内
 それでは次に、「記録」についてですが。日々のくらしの記録を、我々はどういうふうにしていくんだろうか、その辺からお話をお願いします。

須藤
 この「日々のくらし」ということも、簡単なようで、いざ真剣に考えたら一口では言えない難しいものがあるわけです。一般的には、朝起きて、顔を洗って、御飯を食べて、学校や会社に行く。これが、だいたいの人がやっている日々の生活だと思いますし、毎日繰り返しているわけですから、日々のくらしの基本形と言っていいかなと思いますが、だれもそう思っている人はいないんで、非常に単調な生活だよという人が多いわけです。
 しかしよく考えてみますと、個人的には毎日の繰り返しですが、朝寝坊の人もいますし、顔を洗わないで学校へ行く人もいるわけです。だから、必ずしも一様ではない。やることは同じでもそのやり方は、家族でも違うし、それから地域でも違うということになります。これをそれぞれのまとまりで締めくくりますと、たとえば一人一人のものを「個性」、家ごとのものを「家風」、古い言葉で今はあまり使いませんが。それから地域ごとのお国ぶり、国に風と書く「国風(くにぶり)」という分け方をすることもできるかなと思うんです。

池内
 国風というのは、愛媛なら愛媛、あるいは松山なら松山の地方の一つの個性ということですか。

須藤
 ええ。要するに、県ごとの国風ということもありますし、もうちょっと狭くて、たとえば一つの集落ですね、それから組とか、そういうことで言ってもいいかなと。これはあまり定義してしまうとまた固くなりますので、あまり定義しないで、要するに一つの集団ということでの国風というふうにしておきたいんですけれども。
 それで、これからちょっと実例を話したいと思うんですが。こちらでは食事をする時や御飯が済んだ後に、お茶も一緒に飲みますでしょうか。

池内
 どうでしょうね。だいたい御飯の時はお茶もありますね。お茶を飲みながら、御飯を食べます。あるいは御飯が終わった後、すぐ飲みますね。

須藤
 私が育った秋田では、お茶の時間と食事の時間は離れていました。食事のとき何を飲んだかと言いますと、白湯(さゆ)なんです。茶碗に白湯を注いでもらいまして、たくわんの残りで、こう茶碗を洗うように、御飯のついた所をこすって。これで飲みますと、たくわんの辛さと御飯粒のちょっとした甘味と言いましょうか。それがミックスされた、お茶ではない何か不思議な物を飲んでいたわけです。
 たぶん、この茶碗に白湯を注いで飲むというのは、箱膳(はこぜん)の食事の名残だろうと思います。箱膳というのは、一人一人が膳・食器を管理していたわけですから、きれいにするために、白湯で洗って伏せておく。その名残が、ちゃぶ台を囲んで御飯を食べる時にも、そういう形で残っていたのではないかなと思います。
 これは、非常に合理的だと思います。お母さんの手を、女の人の手を煩わさないでよいわけですから。一人一人管理して、だからお母さんがまとめて洗うというのは、考え方によっては後退と言いましょうか。

池内
 そうですね。だいたいあのころは、一々食事が終わったらすぐお茶碗を洗うことではなかったわけですね。そういう意味では、後退かも知れませんね。

須藤
 それともう一つ、食器のことなんですが、こちらでは、食べる時に飯を盛るのはたいてい陶器、唐津物でしょうか、それから、汁は木の椀(わん)だと思います。ところが、新潟県あたりに行きますと、飯も木の椀という所があるんです。瀬戸物に御飯を盛って食べる習慣がある者には、飯、汁両方を木の椀で出されると、「オヤッ」と思ってしまうわけです。今は瀬戸物と木の椀というふうに分かれていますが、私が行った昭和46年ころには、まだ木の椀に飯というのが幾つかありました。地域によってそういうふうに異なる風習があり、これも一つの国風なわけです。
 それからもう一つ、家庭の味というのがあります。今でも、東と西とではっきり分かれていますし、特に納豆などというのは、京都あたりというのは毛嫌いしますし。大変おいしいんですけれども。京都とか関西の方は、あんな臭い物と言いますから、たぶんこちらの方は納豆というのは…。

池内
 愛媛の人は、納豆を食べられない方が割合多いです。昨年83歳で亡くなった私の父親は、学生時代に数年間東京で生活したことがあるんですけれども、ついに生涯納豆は食べられなかったですね。私は大好きなんですが。

須藤
 その納豆の味、普通の家は醤油(しょうゆ)なんですが、私の家は塩味なんです。子供には「実は、よそのうちに行ったら醤油なんだからね。」と言ってあるんです。それから、卵焼きもうちは塩味なんです。これは普通の家は砂糖ですよね。あまりうちのことをバラしてはいけないんですが、うちの家内が沖縄なものですから、沖縄というのは塩味なんです。卵焼きの場合ですが。こういうふうに家ごとによっても違う。

池内
 それは須藤家の家風なのか、それともお国風なのか。家庭の味というのは、そうやっていろんな要素でできるものですね。

須藤
 家風というほどではないんですが、たまたまそういう習慣ですね。実は、おふくろの味というのは、本当はそういうことだろうと思うんです。
 郷土料理も本来は家庭料理だったはずなんです。今は、郷土料理というとどこか高級な所で食べるようになって、だいぶ解釈が違ってきていますが、本来は家庭一軒ごとの味が郷土料理であり、家庭の味、おふくろの味だっただろうと思うんです。
 それで、後半の「記録」ということともかかわってくるんですが、ここで一つ提案をしておきたいと思います。たとえば、一人一人が一つのテーマに沿って、何かを記録するという方法もあるわけですが、今言った家庭の味といいましょうか、たとえば10月23日の夕食の写真を公募してみる。そうすると、たとえば5人家族の家庭で、この日はお父さんが帰っていなくて、夕食にいないかもしれない。それはそれで一つの記録です。写真の中でおかずも分かりますから、どの家はどういう物を食べているとか。たとえば、愛媛県全域で催しますと、北と南でどういう違いがあるとか、これは一つの立派な記録になるのではないかと思いますし、同じ家族が、できたら県全体で、10年後、20年後と続けてやりますと、すごい資料になるような気がするんです。私にはできませんので、これはぜひやっていただきたいですね。

池内
 そうですね。県内のいろんな所から、今日の夕食の写真を、それはもう家族の人を入れ込んだ写真を募集する。これは、やろうと思えばすぐにでもできる企画ですし、それを整理して残すということで、非常に貴重な資料になるということは、今からでも十分想像できますね。

須藤
 たぶん皆さん御存じかと思いますけれども、民俗学では、日々のくらし、普段の生活を「ケ」、普通カタカナで書きます。それに対して結婚式、葬式、お祭りなんていうのを「ハレ」というふうに言います。
 私個人としては、今日のテーマであります日々のくらしの記録の中には「ハレ」を当てはめない方がいいという気がします。考え方はいろいろありますから、皆さんがどう考えられるか分かりませんが、私個人としては一緒にしない方がいい。
 なぜかと言いますと、民俗学ですから「学」とつきますと、一般的には客観性を要求されるわけです。ですから、あまり感情が入るものは、資料としては普通残さないんです。ということは何かと言いますと、その話をしてくれた人そのものが省かれる。学問というのは、だいたい人そのものが省かれる傾向があります。そこら辺に、ちょっと私は不満があるといえばあるんです。
 たとえば結婚式と葬式。結婚式は、今はどこも画一化されて同じようになりましたが、葬式は、今でも地域によってお国風を多少残しています。
 実は、結婚式も、昔は話を聞いただけで大変面白いものだったはずなんです。たとえば長持ちとか、長持ち歌とか、花嫁さんが家の中に入る時はどこから入るかというようなこと。普通三三九度を行うところは見せないというのが多かったわけですが、その部屋のこと。それから、披露宴の席順、披露宴のあり方。山形県で聞いたちょっと豪華な話ですと、昔は1週間ぐらい披露宴が続いて、当然新婚旅行もないわけで、その間婿さんは裏の方でお酒のかんつけ専門、花嫁さんだけが宴の方へ出ているということだったらしいんです。
 そういう話を聞くだけで大変面白いんですが、ゴソッと抜けるのは「二人」のことです。「結婚式でどういう感情を持ちましたか。」というのは、普通は民俗学の資料として、あるいは学問として論ずる時には、ゴソッと抜けてしまうわけです。
 これはやはり、日々のくらしとしてはまずいのではないかと思います。できたら、ごく普段の生活がつつましく、その対極としてそういう特別の時の人々の喜びの表情を並べることで、日々のくらしということがもうちょっと明確になるのではないかと思うわけです。
 風景を美しく撮るのが写真家の腕だと言われますし、このごろの写真展では花とか昆虫とか人のいない風景が多いような気がします。でも、いつ見ても面白い写真というのは、やはり人の顔、人だろうと思うんです。
 それで、もうとうに亡くなった名取洋之助さん、外のロビーに展示されている岩波写真文庫をあとで御覧いただきたいなと思いますが、その編集長でした。名取さんは報道写真の草分けでもあり、いろんな人を育て、木村伊兵衛さんとか、土門拳さんとか、全部その門下なんですが、この方もやはり、人が面白いというふうに言っています。

池内
 これは、岩波新書の『写真の読みかた』という本ですね。
 これはいつごろ、名取さんがお書きになったものでしょうか。

須藤
 亡くなったのは1962年(昭和37年)で、その前、生きているうちに書きためておいたものらしいんです。ですから、この本の著者は名取洋之助になっていますが、実は、門下生が遺稿をまとめて、後で岩波新書から出したものです。
 かなり前、もう30年ぐらい前の話になりますが、ここで話をするのに適当かなとは思いますし、基本的には私の考えと共通するものですから。たぶん記録性については、今、新しい思想なり考えなり方法論なりがあるんだろうと思いますが、とにかくちょっと読んでみます。
 初めに、こういう言い方をしています。
 <共通の経験のない人に、同じ写真で同じ反応を起こさせることは難しいことになります。> 何を言っているかと言いますと、写真の国際化という所なんですが、たとえば日本人だときれいだとかすごいとか言う富士山の写真を外国の人に見せても、外国の人と私たちは共通の体験がないので、必ずしもそういう反応はしないということです。そこで、そういう意味で、国籍を問わずに感動するのは人間の写真だというわけです。
 <もっとも感情的に反応を起しやすいのは人間の写真です。私たちがいろんな感情を体験するのは、大部分、対人関係においてですし、それは日本人であろうと外国人であろうと、共通に経験している事です。ですから人間のいる写真は、すぐ見る人の注意をひきます。特にそれが女性である場合は、「女性は存在するだけでニュースである。」と言われるように、強い吸引力を示します。>最近は女の人だけ取り上げて奇麗だとか言うとあとでしかられますので、ここでは控えますが、やはり人間を撮るというのは、一番面白いことだろうと思います。

池内
 ええ、とにかく人間が面白いと。これは写真に限りませんで、テレビもそうですけれども。
 それでは今日、須藤さんの御専門であります写真の分野について、これからお聞きしたいんですけれども。確かに記録を残すということでは、写真による方法、文字による方法があるわけでしょうが、写真による記録ということについては、どんなふうなお考えをお持ちでしょうか。

須藤
 写真による記録。普通、記録写真と言われています。これに対するのが芸術写真というわけです。芸術写真についても名取さんが書いていますので、ちょっと読んでみます。
 <写真の正確さは、写真に重要な性質を与えます。写真の記録性です。その正確さ故に、どんな写真でも、いかなる目的で写されても、記録としての価値が生まれて来ます。いろいろな目的で写された写真は、それが風景写真であろうと、町のスナップ写真であろうと、主観主義写真などと言って、造型的に写された写真であろうと、誰が写し、誰が芸を凝らしたものであろうと、少し時間がたつと、皆記録になってしまう。>
 <1枚の写真による感動は永続性のないものです。「光とその階調」時代の芸術写真は、(これは後ほど話しますが、こういうことをとらえた人がいらっしゃったわけです。)撮影当時ですら、撮る人だけの個人的な感情、個人的な満足だけの物であったと私は思いますが、たとえそうで無かったとしても、現在、私達には、何の感動も与えません。>光とその階調という思想を持って撮った写真というのは、撮った時点では芸術性があるが、それが継続して、今生きている者には、感動を与えないということを言っているわけです。
 <芸術であると主張しながら、その当時でさえ、床の間から掛け軸を追い出すことはできなかったのだ>と。床の間には、書か何か掛け軸を掛けるわけですが、その代わりに写真を飾ることはなかったということを言っているわけなんです。
 <私達が絵を買うように、写真を買い求めようとしないのも、写真による感動は新鮮なものからしか受けず、また短い時間しか持続しないものであることを無意識であるにせよ、知っているからです。写真はあまりにも現実に忠実な記録であるために、すぐ古くなり、記録となります。一度みた写真は、つぎにはもう過去のものとなってしまうのです。写す人個人の感動ではなく、写真を見る多くの人たちを感動させようとすれば、新しいもの、新しいものと追わない限り、新鮮な感動を与えることはできないのです。>
 確か作家の吉川英治さんが、「良い写真というのは、1枚の写真から1編の小説を書けるような写真だ。」と、何に書いてあったか分かりませんけれども、そう言っていたと思います。

池内
 須藤さんの大変な御労作であります『写真でみる日本生活図引』という本、何冊かロビーに展示してありますので御覧いただきますと、本当に1枚の写真がどれだけ多くの事を語ってくれているかという実例が御覧いただけるかと思います。
 それで、「写真は芸術ではない。」という名取先生の話を、須藤さん御自身はどういうふうにお感じになられてますか。

須藤
 さっきも言いましたように、私は芸術写真を否定するつもりはないんです。ただ、私が教わった宮本先生からは、とにかく民俗学の写真というのは芸術写真ではないんだ、記録写真だから、写真に語らせるのではなくて、写真が語ってくれるもの、それから読めるような写真を撮れと言われました。
 実はひところ、宮本先生も名取さんと一緒に岩波写真文庫で仕事をしたことがあり、その影響だろうと思います。ですから、全部が宮本常一の考えではないと思いますが、これは何度も聞かされたことです。

池内
 カメラはどんどん新しくなりますけれども、写真の基本的な考え方というのは、名取さんの時代と変わっていないということでしょうか。
 それで、須藤さんのお考えになる、民俗学的にいい記録写真の実例、写真がいろいろ語ってくれるようなものとしては、どんなものがよろしいんでしょうか。

須藤
 そうですね。
 それと、これはいつも感じるんですけれども、民俗学者も皆カメラを持って歩いているんですが、たとえば、民俗学という中で、どういうふうに写真を撮ったらいいのかということの論は、ほとんどないんです。
 書いたものとなると、柳田(國男)さんがちょこっと写真のあり方について書いているんですが、それ以外に民俗学をやっている偉い先生で、写真について書いたものはないんです。
 宮本先生も、時々矛盾することを言ってたんです。「写真から読めるもの、写真が語るもの」と言いながら、実は、一方で「見る者を引きつける写真を撮れ。」と。これは大変矛盾することで、考えによっては「見る者を引きつける」というのは芸術写真ですよね。だけどこれは、たぶん美しく撮れとかいうことではなくて、事実の驚きと感動、もう一つは、見る人が「ほう、こんな物があるのか。」という未知の発見をしてくれるような写真。それから、事実。たとえばさっき言った「うちでは、納豆を食べる時は塩です。」というようなこと、ちょっと当てはまらないんですが、そういう家ごとの違いのようなものが写真で表現されることによって、それを見た人が驚くというふうな、非常に日々のくらしの中での驚くでもあるはずなので、そういうことをたぶん言っているのではなかろうかと思うわけです。

池内
 宮本先生御自身は、どんな写真の撮り方をなさっていたんでしょうか。

須藤
 先生はハーフサイズのカメラを持っておりまして、汽車の窓からパチパチとまるでビデオを回すかのように撮りまくるんです。あれは無駄だな、絶対に真似できないなと思いながら見ていました。しかし、先生はなぜ撮っているかと言うと、たとえば畑に植わっている作物、田んぼの稲の具合等、見ていて全部分かるわけで、それを記録しておくことによって、後に文章になるわけです。要するに、窓の外から見た風景を読めないと、それはできないことなんです。先程も控室から窓の外を見ていて、宮本先生なら何を撮ったかなと、盛んに考えていたんですけれども。
 写す方にも、物を見る確かな目がなければならないということ、写真を撮る以前に、一つの風景を見て「ああ、これは何かある、ここにどういう人たちがこうやっている。」ということを読める知識、これはいくら私が頑張っても宮本先生に追いつかない。
 そしてハーフサイズで撮った写真が膨大にあるんです。一応全部、密着か名刺版にして整理してありましたから、今でも本箱に2ケースぐらいあります。では、その写真が引きつけるかというと、私なんかは知識がないから、全然引きつけられない。そういう矛盾があるわけです。

池内
 先生がお撮りになった、そういう膨大な写真が残されているわけですね。
 それで、さっき言いかけたんですけれども、須藤さんが御覧になっての、優れた記録写真の具体的な例というのを、御紹介いただけたらと思うんですけれども。

須藤
 外のロビーにも並んでおりますけれども、私は『写真でみる日本生活図引』という、全9巻の本を編集したわけです。これには新田さんからも大変いい写真をお借りしました。その第9巻目は、熊谷元一さんという、もう80歳を越えている方が、昭和31年から32年にかけて、ある農家の1年を、毎日欠かさずに撮ったものなんです。

池内
 これはどちらの農家ですか。

須藤
 長野県の阿智(あち)村、一般には伊那(いな)谷と言われている、中部山岳の盆地の村です。熊谷さんは小学校の先生をしていたんですが、昭和31年ころはかなり自由にできたようで、生徒に「先生はちょっと行ってくるから、自習しておけ。」と言って、自転車を飛ばして、農家に毎日行って写真を撮る。1軒の家に毎日行って写真を撮るというのは、口で言うとやすいんですが、これも大変なことなんです。と言いますのは、向こうの人だって、いくら親戚だからと言っても、毎日来てカメラを向けられるというのは、大変なことなんです。実際、飯食っている時なんかは写真撮るには大変面白いんですが、やはり飯食っている時の写真を見ますと、皆緊張しています。そういうふうに嫌がるところも、なおかつ押し掛けて行って撮ったという写真の記録なんです。それが村の1年なんです。
 とにかく、365日毎日撮っているというすごさ、それから、高度経済成長期以前の一つの農家の生活の事実がきちんと写されているということに、私は、感動もしたし驚きもしたわけです。
 熊谷さんに聞きますと、この写真を撮ったあと、あちこちの出版社に声をかけたが、ちょっと難しいと断られていたらしいんです。私が『写真で見る日本生活図引』を編集するために伺った時、熊谷さんに「実はこういう写真があるんです。」と見せられ、最後の巻(第9巻)に入れさせていただいたわけです。
 熊谷さんが写真を撮り始めて大体3ヵ月ぐらい後、昭和31年9月22日の東京新聞-東京新聞というのは中日新聞の東京での名前ですが-に、熊谷さんが書いています。「最近、地方のアマチュアカメラマンの一部の人達が、今まで多く扱っていた家族の記念写真や風物のサロン調の写真から(サロン調というのは、さっき言いましたように光を表現するんだということですが)一歩出て、農民の生活を始め、各地の職業人などの生活に目を向け始めるようになった。これはアマチュアの一つの生き方として、意義深い仕事ではあるが、題材の取り上げ方に、なお今後に残されたものがある。(中略)ずっとある農家の1年を撮ろうというので、今、写し始めている。(中略)こうした毎日のささやかな仕事や雑事にカメラを向けていると、今写団で問題になっている新しいリアリズムなどの行き方から見ると、何か遠い所にいるように思われるのであるが、地方アマチュアには、中央写真団の動きから外れようと、取り残されようと、やって行かなければならない仕事があるような気がする。地味で平凡な毎日の生活の集積の中にこそ、真の農民の生活の姿を浮き彫りにすることができるのではなかろうか。」というふうに言っているわけです。これもやはりすごいことだと思うわけです。
 アマチュアの写真といえども、やはり地方にいて、自分たちの生活をきちんと写し止めておく必要があるという考えの元に熊谷さんがやったわけで、それは見習うべきと言いましょうか、多くの人が共鳴してもいいことなのではないかと思うわけです。
 熊谷さんは、長野県阿智村の生まれで、戦前は東京でも生活していましたから、都会の空気も知っています。今は、阿智村を離れて東京の清瀬市に住んでいるんですが、80を過ぎて、やはり自分の住んでいる清瀬市の周辺の1年間を撮って、キャビネ版に伸ばして、公民館で写真展をやったりしている。ですから、都会の空気に無関心だということではないんですが、基本的にはやはり生まれ故郷の日々のくらしを撮るということに専念したわけです。
 熊谷さんは、昭和13年に朝日新聞社から『阿智村』という生まれ故郷の村の写真集を出しているんですが、これはアマチュアが村を写した写真として、当時、大変評判になったようです。
 その後、これもロビーに並んでいますが、岩波写真文庫から『1年生』というのを出しています。これは、第1回の毎日写真賞を取った本です。学校で自分が担任をしていた1年生のことを撮っているんですが、大変面白い。たとえば講堂に正座して校長先生の話を聞きます。その話を聞いている所を、2分、3分、5分と時間を追ってシャッターを押しているんです。そうすると、子供たちがどうやって崩れていくかが、一目で分かるわけです。今見ても、非常にほほえましいと言いましょうか、校長先生のつまらない話に対する子供たちの反応が、写真を一目見て分かるんです。これも、日々のくらしの一つの発想だろうと思います。
 「日々のくらしを記録する」ということで、最も身近なものというと家庭だろうと思うんです。実は、家族のことは、皆さん記念写真は撮りますが、記録しようという意識では、あまり撮らないのではないかなと思います。
 それと熊谷さんに関連して、こちらの新田さん、上田さんも日々の記録をなさった方です。昨日、県立図書館で、本を改めて拝見しました。やはりすごいなと思いました。
 それで新田さんが、これは『海と太陽の間-佐田岬半島の人々と風土-』という写真集に書いていることも、大変私は感動したんです。実はこの写真のきっかけについて、ここにいらっしゃる新田さんが、こう書いておられます。「少年の頃、私は江戸時代の画家、安藤広重の東海道五十三次の版画に熱中したことがある。もちろん複製ではあるが、江戸時代の庶民の生活や風俗が東海道の美しい風景の中に、渾然一体となり、こころにくいまでに書かれている。感動したものである。この感動が片隅にあったのであろう。私は広重の東海道五十三次に模して岬の人々の生活を記録する、撮影の仕事を考えた。」と書いているわけです。こういうきっかけと、それから広重の絵を見て、その中にある生活を見て、岬の撮影をしようとしたということ。これも素晴らしい発想だと思います。
 それから、先生にこう言われたと書いてあるんですが、「あるがままの写真を素直に撮影しろと言われた」と。これもやはりすごいことだと思うんです。芸術写真ですと、絶対そうは言わないんですが、こういう先生、それから発端があって、新田さんの場合は、すばらしい佐田岬の人々を写したんだろうと、昨日、改めて本を拝見して、私も感動したわけです。
 それから上田さんの写真も、昨日見せていただいて、『人の顔、町の顔』でしょうか。当時の生活の技術、それが見事に写し出されておりますし、顔だけではなく、その背景、何と言いますか、いろんな物が写しこまれているわけで、その背景を読むと、これはもっと面白いのではないかなと思いました。それは今日、後でスライドで見せていただくようですので、上田さんの方からお話を聞いていただきたいと思います。

池内
 それでさっき、我々にとって、手っ取り早いと言いましょうか、一番身近な被写体であるはずの家族が、なかなか記録としては撮れないというようなお話だったのですが、それはどうしてでしょうか。

須藤
 これは、たとえば報道写真ですと、これも記録写真ですが、二度と写せないということで即記録性になるわけです。家族というのは、それこそありきたりなんです。毎日見ていて何も変化がない、同じ顔、だけど面白いと思います。たとえば、親戚(しんせき)が1、2か月たって子供を見ますと「おお、大きくなったな。」と言いますように、これは皆さんうなずいておられるからあらためて言うこともないと思うんですが、実は写真で撮っておきますと、自分の子供がどのぐらい大きくなったかなということが分かるわけです。
 しかし、それはあとで家族のアルバムに張っておく写真でして、公にするということになると、ちょっと別の話で、公にするには、最初にその方法をきちんと設定しておかなければならないわけです。だからちょっとした面倒くささというのがありましょうか。私なども、アルバムに張る家庭の写真は撮るんですが、やはり記録性ということになると、ちょっとちゅうちょして、やらないわけです。

池内
 今ちょっと思い出したんですけれども、富岡畦草(けいそう)さんという写真家が家族の写真をお撮りになるのに、定点観測という考え方で、お子さんを家の中とか門の前とか、だいたい同じポジションに立たせて、ずっと何年も毎日のようにシャッターを押すということを繰り返して、撮り続けておられる。
 私も、これはちょっと真似(まね)してみようかと思いまして、自分に子供ができた時にかなりマメに、と言っても毎日などは撮れないんですけれども、ほとんど同じ場所で撮った写真がかなりの量できました。小さい時はかわいいですからかなり撮りましたが、やはり数年しか続かないんです。
 結局、素人でうまく整理もできませんので、最終的にはセレクトしたものを、3人の子供それぞれにアルバムに張って、だいたい20冊ぐらいずつ、これはかみさんが割合マメにして整理してくれたのでできたんですけれども。
 今言われたように、全く個人的な記録にしか過ぎないものですけれども、本人にとっては、自分の生きて来た過去を見るのにはいい記録かなと思って。娘二人については、そのアルバムが、何よりの嫁入り道具になったという、私のささやかな経験なんですけれども…。

須藤
 今の家族の話ですけれども、たとえば長男は非常によく撮ったが、その次の子供は少ししかないということは、あるんじゃないでしょうか。

池内
 それはあると思いますが…。実はこの間、家を建て直すために今まで住んでいた家を壊しまして、そのアルバム等も整理して娘の嫁ぎ先へ送りつけてしまったんですけれども、その時に数えてみましたら、だいたい同じぐらいずつありました。
 ただやはり、もう小学校の低学年ぐらいになると、もう子供の方も嫌がってあまり写真を撮らせてくれないので、だんだん少なくなります。今、孫が一人いるんですけれども、せがれは孫の写真を全然撮らないので、もっと撮ってやったらいいなと思っているんです。すみません、個人的なことを言いまして。
 それで結局、家族というものが非常に撮りにくいということになると、それでは一体…。

須藤
 家族を撮らないで何を撮るのかということですが、これは具体的にこれを撮った方がいい、あれを撮った方がいいですよということは、ちょっと私からも具体的には申し上げられないし、それぞれの方が決めていただくしかないわけです。
 ただ、私かこんなのを撮ってくださったら嬉しいなと思うのは、たとえば、漁村の1年、島の1年、段畑の1年。それから、結婚式はもうほとんど昔の面影はないと思うんですが、葬式などは、非常に嫌がるかも知れませんが、大変重要な記録になると思うんです。東京あたりだと『葬儀』という業界誌なども出ていまして、実は私もそれに「葬祭みんぞく学」というのを書いているんです。葬式というものに大変興味がありまして、できたら葬式なんかも撮っておいてほしいなと思うわけです。それから一地域の年中行事や祭り、この場合もそれだけを撮るのではなく、できたらその生活の背景も含めて撮っておいてほしいと思います。

池内
 そうですね。最近はお葬式に行っても、けっこう周辺の方がカメラを持って撮ってらっしゃるけれども、よくよく見ていると、どうもどこから花をいただいたかという記録のために撮っているような感じがしますね。そうではなくて、もっと本質的な部分を撮っておかなければいけないということになるわけですね。

須藤
 それで、何を撮るかということですが、これも難しい。
 記録写真は、芸術写真のように1枚でポンと見せるものではありません。記録写真というのは、その周辺の物がないと、1枚だけあっても意味がありません。それで、組写真という形になると思います。具体的に何を撮るかと言いますと、まず、ポイントに置くものを1枚きちんと撮ります。その時に、これは記録ですからすぐ使うことはあまりありませんが、周辺の物を何でも、時間がたってもなおかつ当時の周りのことがよく分かるような物をとにかく全部撮っておく。
 たとえば、今日でもそうなんですが、神社に行きまして、最初は階段から全景を撮りました。次は何かと言いますと、「説明書き」を撮りました。地元の人ですと、分からなかったら読みに来ればいいんですが、私などはすぐ来ることはできませんから。そこで密着を引き出してその文字を読むことで、どんな由緒の神社なのかとかが分かるわけです。ですから、目に付いたものはとにかく全部撮っておく。これが基本形だろうと思います。
 それから、写真はだいたい横で撮るんですが、縦で1枚撮っておくということも、すごく大事なことです。写真の雑誌によっては縦組が多くなりますから、横で3枚撮ったら、縦で1枚撮るぐらいのことは必要だろうと思います。また、遠景を撮ったら中景とアップ。それもどアップで、要するに口もとだけというのも、編集の段階では必要になるということがあるんです。手先も、特に手仕事などの場合は、手だけアップで撮っておくということも必要だろうと思います。これは技術的なことになりますけれども。
 それから、これは最も大事なことなんですが、だいたい1か月たちますと、撮った時の状態というのは、忘れてしまうんです。だから、できたら現像が終わった段階で、密着(べ夕焼き)を取り、撮った場所と月日はもう絶対入れておいてほしい。たとえば撮影者が亡くなった後で写真を使用したいなと思う場合、場所と撮影年月日がないと使えないんです。そこまで考えて写真を撮るということになると、もうプロに近いんですけれども。
 しかし、これをやっておいていただくと、だれが見ても分かるわけですから、記録として価値が倍増することになるわけです。

池内
 今のカメラというのは、だいたい日付が入っていますね。ビデオでも入りますから、アマチュアの方がお撮りになった日付の入った映像が、テレビの画面に登場することも、けっこうありますから。そうすると、記録性としてはおおいに役に立つ要件と言えましょうか。

須藤
 そうですね。一歩機械が進んでいると言いましょうか。ただ、芸術写真を撮る人はちょっと嫌がるでしょうが、記録写真となりますと、日付が入っていたら便利です。

池内
 それでは、実際にどういうふうにして、記録写真を撮ればいいのか。須藤さん御自身がお撮りになった実例として、これから少しスライドを見ながら、お話を伺わせていただいたらと思います。

須藤
 このスライドは、昭和47年に、日本ペンクラブが「日本文化研究国際会議」というのを京都でやった時に、外国の人たちに日本の風土を知ってもらおうということで、川端康成の『雪国』の実生活をスライドにしたものなんです。
 当時、僕の年齢で日本ペンクラブに行って何か話をするなんていいのかな、あまりきれいでない事実の写真を見せてもいいのかな、と思ったんですが、今考えてみますと、「そういう実生活をきちんと見せておくことが大事なんだ。」と言っていた宮本先生はやはり偉かったんだなということが、ようやく私にも分かってきたわけです。
 決してきれいに撮っているわけではないし、見事な写真ではない。皆さんも、この程度だったら撮れるのではないかなというつもりで見ていただけたらなと思います。
 それから、記録写真と言いますと、だいたいカラーよりも白黒の方があとあとまで使えるんです。撮影したのは昭和46年ですから多少退色しているんですが、20年もたったら、このぐらい色が変わり始めるんだという参考になるかと思います。

*以下、スライドを映写しながら説明。(紙数の都合により、一部を抜粋)

(写真1)
 場所は、新潟県古志郡山古志村という所です。1郡1村で、たぶん全国でも三つぐらいしかないと思うんですが、大変雪深い所で、新潟市あたりで雪がないという年でも、ここは2m、3mと雪があります。全部、山のように見えますが、ところどころに家があるんです。川端康成の『雪国』の舞台は越後湯沢ですから、これほどひどい所ではないんですが、雪国の背景としてこういう生活があったということを、イメージとして見ていただけたらということで作ったスライドなんです。

(写真2)
 自動車がもちろん通りませんから、こうやって背で物を運びます。

(写真3)
 屋根の雪掘りをしているところです。これがすべり台になって、雪を乗せますと滑って、かなり遠い所まで雪が流れて行くわけです。
 この人は、菅笠、蓑、脚絆をしています。それからかんじきをしています。かんじきというのは、深い雪の上を歩く時の雪国の道具なんです。これは昭和46年ですから、46年当時、この村ではまだこういう姿が見られたわけなんです。シャベルに見えますが、これは木で作ったこしきというもので、これで雪を掘るわけです。

(写真4)
 雪ぼっち。ござで作ったもので、これは大きな作りのもので、たぶんこの人は、赤ちゃんをおぶっているのではないかと思います。これで降る雪を防ぐわけです。

(写真5)
 蓑(みの)づくりです。冬の仕事です。雪国で冬の間は何をしているのか。冬には、春になって始まる農作業の準備がいろいろとあって、写真の被写体としては、かえって冬の方が多いという感じを受けました。蓑を作っている向こうが囲炉裏です。この囲炉裏で、部屋が温まるんです。ただ御存じのように、煙が出ますから、けむいということはあります。

(写真6)
 ドンド焼き。本当は門松などを積むんですが、ここでも後で積みます。藁(わら)を木の廻りに三角錐に組んだ木の廻りに藁を積んで火をつけて、ドンド焼き。こちらでもドンド焼きというのは、あると思うんですが。1月7日、あるいは小正月、14日あたりに、あちこちで見られる行事です。

(写真7)
 さっき組み立てた物に火をつけて、餅(もち)を焼いて食べると、風邪をひかないとかいうわけです。この時に習字を燃やして高く上がると、習字が上手になるなんてこともいうわけです。

(写真8)
 葬式です。ここは座棺なんです。土葬ではないんですが、ここでは座棺を使っていました。地域によっては座棺よりも寝棺、現在の棺桶(おけ)をよしとする所があるんですが、ここはなぜか座棺をよしとしていました。座棺もこれは丸ではなくて立方形なんです。これは火葬場にそりで運んでいるところです。

(写真9)
 火葬場のそばで、今、引導(いんどう)を渡しているところです。白い裃(かみしも)を着ているのが喪主です。頭に、幽霊の絵に必ず出てくるような三角形の紙を巻いています。これはここでも葬式の時は付けるのではないでしょうか。それで引導を渡して、すぐそばの火葬場で焼くんです。その焼く直前ですが。この日は幸い晴れていて、非常に奇麗だったんです。この亡くなった方は、屋根の雪掘りをしていてすべり落ちて、頭から田んぼの中に落ちたものですから、引き上げた時にはもうだめだったという、非常に悲しい死だったんです。

(写真10) 
 火葬場です。これは冬は、町の、この当時は町まで遺体を運べないので、集落ごとに火葬場を持っていたんです。これは薪で燃す火葬なものですから、なかなか燃えないんです。この時も確か午前中に火をつけて、夕方暗くなってから、一部分の骨が出たと思います。それで座棺というのは、足を折るような形で棺に納めるものですから、腹の部分がなかなか焼けないんだそうです。そうすると、焼けないものは、昔は雑木林の中にポイと捨てたんだと。そうするとキツネかタヌキが食っていった。そういう話もしてくれました。今はそういうことはないと思いますが、そういう、昔は荒っぽいことも、荒っぽいと言っていいのか、それも一つの埋葬方法だったと思うんですが、そういうこともあったようです。

(写真11)
 雪を掘ってお墓を出して、納骨をしているところです。しかしこの場所も2、3日で雪で埋まってしまいました。もちろん春になると解けて、墓は出てくるんですが、冬の間は完全に雪の下です。

(写真12)
 さっきの葬式を出した家の墓の上に作ったものです。近村では、所によっては、お墓の墓石の形に作って、そこでお参りをするという地域もあります。

(写真13)
 春のお彼岸です。墓が雪の下ですから、その上にこういう雪洞を作って、その前にお参りをするんです。

 こういう生活が、実は『雪国』という小説の背景にあるんですということを、かいつまんで話したということです。ありがとうございました。

池内
 我々、暖かい所に住んでいる者から見ると、珍しいというか、非常に貴重な、見ることのできない記録としての雪国のくらしの一端を、今見せていただいたわけですけれども、もちろん今、現地でもこういう生活というのは、もう残っていないでしょうね。

須藤
 もうないですね。

池内
 しかし考えてみると、たかだか20年余り前ですね。

須藤
 そうなんです。 20年前ですけれども、高度経済成長期以前の生活を残していたということです。

池内
 でもやはり、その雪国ですら、もう今はこういうくらしは一切かどうかは分かりませんけれども、消えてしまったと。

須藤
 ほとんど消えています。

池内
 その辺にも、記録としての写真の大事さ、貴重さというものの一端がうかがえたような気がするんですけれども。
 時間もそろそろ迫ってきましたので、最後にまとめとして、須藤さんの写真についてのお考え、それからさっきちょっと触れられました、記録を整理して保存して残すことの大切さみたいなことについて、お話をいただきたいと思います。

須藤
 まとめですから、今まで述べてきたことを、もう一回まとめて整理してお話するということになりますが、日々のくらしというのは、毎日の同じことの繰り返しなんだ。しかしこれは、ちょっと間を置いてみますと、やることは同じなんだが、やり方はそれぞれ違っている。それは個性、あるいは家風、お国風ということで言えないこともないなということを、最初にお話ししたわけです。
 これは当然、年代にも違いますし、それから職業によっても全部違ってくるわけですから、これを記録しておくことによって、ある時代の生活の事実を、この事実というのを、ここで強いて使うんですが、これは歴史とか民俗というふうに解釈してくださってもいいと思います。とにかく事実を後世に伝えるようなこと、これが記録の意義だろうと思います。
 これはなぜ必要か。先程はすぐには役に立たないと言いましたが、やはり国の歴史があるように、やはり庶民の歴史というものもきちんと残す方策を、これからは考えなければならない。
 自分たちのことは何も残らないというのは、やはり悲しいのではないかなと思いませんか。今、私たちにできることと言いますと、写真に撮って、身近な物を写真に撮っておくことと、できたら文章にしておくということで、自分たちの記録を、歴史を後世に残すために、記録というのは、ぜひ必要なのだと思います。
 写真はいろいろさまざまな記録のために有効なわけです。ただ、何をどのように写すかということについては、先程ちょっと話しましたように、できたら個人で考えていただきたい。そしてテーマを何か決めて、あまり難しいこと、それから長く続きそうもないものを考えても、これは無理なので、できたら何でもいいですから決めたら、続けていただきたいと思います。
 それからもう一つお願いと言いましょうか、これも大事なことだろうと思うことですが、撮影者が亡くなった後も、家族の方がきちんと写真を守ってくれて、使用できるようにしていただきたい。かなり著名な写真家でも、遺族が引き継がないで、亡くなった途端に処分してしまうということが、ままあるようです。
 これだと、日々の生活をせっかく記録しておきながら、それがなくなってしまう。極端に言いますと、一つの文化財がなくなるようなものですから、そういうことはできたらなくしたい。
 これは個人ではどうにもならない部分もあります。ですから、どこか、できたら公でない、役所でない所で、奇特な人がいて、きちんと整理して集めておいてくれて、後々まで使えるようにしてくれるとありがたいなと思っています。実はこれは早急にしないと、今、貴重な写真を撮った人たちがどんどん亡くなっていくものですから、できたらこれは、何か愛媛学というようなことの中で、何かうまくできたらなと。これはよそ者の私が、神奈川県なものですから、ここでそういう素晴らしいことをやってくれたらなと思ったりします。

池内
 ありがとうございました。最後の記録を保存するというか、保存してさらに活用するということが大事なんですけれども、そういうことの大切さ。これはやはり愛媛学にしろ、一番基礎になる部分だろうと思いますので、この辺についても、また皆さんと御一緒に考えていかなければならない点かと思います。
 主として写真を中心にした、日々のくらしの記録ということで、私自身も、全然不勉強で、分からないことだらけで、今日、お話を伺っていて、まさに目からうろこが落ちるというふうな感じの部分が多かったのわけです。また、今後も、また私も皆様と御一緒に勉強していけたら幸せであるというふうに思っております。
 大変つたない聴き手で、十分先生のお話が聞き出せなかったようにも思うんですけれども、写真によるくらしの記録ということについて、いろいろ得る点が多かったのではないかというふうに思っております。
 それでは時間もきましたので、これで一応前半の須藤さんのお話を終わりまして、あと後半は、それぞれ地元で具体的な事例をお持ちの皆さんに発表していただくということにしたいと思います。どうも長い間ありがとうございました。