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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

2 平城貝塚を中心とした環宇和海の文化

長井
 今日は、はじめに申しましたように、ここの身近にある平城貝塚を中心に話をしたい。ところが地元の人は、我々考古学を研究している人ほど、重要視していない。その平城貝塚というのが、実はどういう価値があるのか。価値観の問題になってくるわけですが、全国的に見てどれぐらいのところにあるのか。どれぐらい重要なのか。これは私が言いますと我田引水で、愛媛県の人が愛媛県の遺跡を大事だと言うのは当たり前ですから。橘先生は九州というよりも全国的に活躍されている方なので、その先生から見て、眠っている平城貝塚というのが、どんな価値があるのかを、ちょっとお伺いしたいと思います。


 では、少しお話しさせていただきたいと思います。それで今日は、皆さん方にお話ししたい、ぜひ聞いてもらいたいことが、大きく言って三つほどあります。
 実はそのうちの一つが、この南郡(南宇和郡)、御荘町も含めましてですけれども、この地域が、非常に大昔から、東九州の地域、あるいは瀬戸内海の地域と、非常に関連が深かったということを申し上げたいわけです。むしろ今の皆様方よりも、3,000年前とか5,000年前の人々の方が、より積極的に東九州の人たちと、あるいはまた、瀬戸内の人たちと交流を深めていたというような気がするわけです。
 それから2番目は、今、長井先生の方から出ました平城貝塚です。この価値については、私よりも、長井先生なり、あるいは今日見えております木村先生をはじめとする地元の研究者の方が、より詳しいと思いますので、私は「貝塚」という先史時代の人々が遺(のこ)したものから、どういうことが分かるのか。そういった基本的なことについてお話したいと思います。
 そして3番目には、時間も限りがあるかと思いますけれども、考古学という、あるいは自分たちの大昔の人たちの生活を調べるのにはどうしたらいいのだろうかという様なことについて話をしたいと思っています。
 まず西南四国地域、あるいは南予と東九州の交流ですけれども、皆さんは御荘町にいつごろから人が住むようになったとお思いでしょうか。平城貝塚を御存じですから、3,000年とか3,500年前には、この御荘町の地域に人が住んでいたということは、皆さんも御存じでしょう。実はそれどころではなくて、2万年前に近い時期から、皆さん方の古い祖先がこの御荘町で生活をしていたわけです。2万年から1万年ぐらい前と申します時代は、随分いろんな変化があります。その一つは、このころいわゆる「氷河期」といって、地球上が、現在よりもずっと寒い時期だったわけです。それで、現在の東九州とこの南予との間には、豊予海峡・豊後水道という海がありますが、実は2万年ぐらい前の時期には海はありませんでした。ですから、私は昨日船に乗って来ましたけれども、そのころでしたら、おそらく何日間かかけて歩いて、こちらの方にやって来ることができたでしょう。草原とか沼があり、川が流れる陸地が、両地域の間に広がっていたわけです。それは瀬戸内海も同様です。現在では海があって、東九州と四国と言ったら、何となく海を隔てているということで、海外のような気がしますけれども、2万年前ぐらいに住んでいた人たちにとっては、陸続きで一つの地域ということになるわけです。その証拠の一つが、たとえば瀬戸内海や豊予海峡あたりで、漁師さんが網で魚をとりますと、ナウマン象という象の骨だとか、あるいは大角鹿というような鹿の骨が網にかかるということを、よく聞きます。これはやはり東九州の沿岸でもそうです。特に瀬戸内の芸予諸島付近からはたくさん網にかかることから、象の墓場ではないかと言われるぐらいです。象は水の中には住みませんので、当然そういう象の化石骨が網にかかるということは、当時は陸で、象・鹿などが住んでいた草原の環境が考えられます。
 豊予海峡や豊後水道が出来上がって、今のような状態になったのは、おそらく8,000~9,000年前ぐらいの時期からと考えられます。もちろんそれは、陸だったものが急に海になったのではなくて、徐々に海水が増えてきたわけです。それでは海が隔ててしまったら、東九州と南予あたりの行き来が止まるのではないかというふうに思われるかも知れませんけれども、逆に海というものが、私たちの文化とか、あるいは人の交流を妨げるものではなくて、むしろ、海があるために、かえって行き来が楽になることも考えられます。現在は、いわゆる車社会ですので、道路が完備していないと移動が難しい、あるいは時間がかかる。しかし、車とか汽車だとかが発達していない時の一番良い交通機関は、私はやはり舟だと思うわけです。ですから、今度は瀬戸内海とか、あるいは豊予海峡とか、豊後水道あたりを舟でもって行き来をする。そうすれば歩いてくるよりもずっと楽だろうと思われます。1万年ぐらい前から以降、縄文時代になりますと、今度は海を利用して行き来が盛んに行われているわけです。それも時期によって異なりますが、瀬戸内海とこの地域が非常に関連の強い時期もあれば、今度は東九州と非常に関連の強い時期、あるいは両者ともあまり関連がなくて、四国西南部が独自で発達した時期というように、縄文時代の約8,000年間の間にいろんな交流があったわけです。
 つまり、ここでお話したいのは、海というものが、文化とか歴史を遮断したり、あるいは人々の交流を邪魔にするものではなくて、むしろつなぐものだという考え方ができるのではないかということです。そして実際に縄文時代には、盛んに交流が行われています。なぜそういうことが言えるかと申しますと、平城貝塚には、縄文時代の後期、3,500年ぐらい前のことなんですけれども、そのころこの貝塚で作ったり使っていた土器とうり二つと言ってもいい全く同じような縄文土器が、大分市の小池原貝塚から発見されているのです。その小池原貝塚も、平城貝塚と同様に縄文後期の貝塚なんです。ですから、同じような生活形態を、そしてまた同じような文様の特徴がある土器を作る人々が大分市にもいた。そうしてみますと、何か一つぐらい似ているんだったら、偶然に似る場合があるんですけれども、ちょっとオーバーに言いますと、よく見ると何から何までというぐらい類似したものが大分市の貝塚からも発見されるわけです。そうした場合、土器などは一人で勝手に海を泳いでいくことはありませんので、当然土器の文様とか形などの類似については、人間の往来があったと考えられます。どちらが早かったとか遅かったか、即ち南予から東九州に行ったのか、東九州から南予に行ったのか。私は両方だと思いますけれども、そういうふうな両方での強い関係というものが、実際に平城貝塚の調査から分かるということが第一番です。
 それから更に話が飛び飛びになるかも分かりませんけれども、今日の本題の一つに入ると思われる姫島の黒曜石。皆さん、黒曜石という石を御存じでしょうか。天然ガラスと言われる石なんですけれども、これは石鏃(せきぞく)を造ったり、あるいは石の包丁を造ったり、そのような石器を造るのに、非常に恵まれたというか、ふさわしい石なんです。この黒曜石は、それこそ、あそこにもある、ここにもあるというようなものではなくて、原産地・原石地といわれる場所が決まっています。その原産地の一つに、国東半島から5、6kmぐらい離れた姫島という島があります。黒曜石という名前がついているから、黒っぽい石だろうと思われるかもしれませんが、実は姫島の石は黒ではなくて、いわゆるグレー(灰色)、あるいは中に乳白色のような色をしているので、実に分かりやすいのです。もちろん黒曜石は姫島だけではなくて、たとえば九州の方ですと佐賀県の伊万里に腰岳という原産地があります。そこの黒曜石は確かに真っ黒です。またこの他に、最近、今年の9月初めころに、長野県の鷹山遺跡群という所で縄文時代の黒曜石の鉱山が見つかったと新聞に出ましたけれども、あれもやはり黒いのです。それから黒に赤の模様が入ったような北海道の黒曜石―十勝石もあります。
 この南予から姫島の方に人が行ったり、あるいは姫島の周辺に住んでいた人たちが南予の方に来るということがない限りは、ここでしか採取されない黒曜石が、この南予地方の縄文時代の遺跡から発見されるということはないわけです。当然、黒曜石の移動ルート、あるいは道というものがあったのではないかと。こういうふうなことを考えますと、当然、豊後水道なりを航行するための、いかだなり、丸木舟なりで行き来をしていたからこそ、そういう石の交流というものが見られるのです。今、本当に大雑把に言ってしまいましたが、非常に類似した土器、あるいは黒曜石というようなものが、お互いの地方で使われるということは、まさにこの南予と東九州の人々との間の交流があったことを示す、一番良い材料ではないでしょうか。そしてこの町の平城貝塚がそれを証明しているわけです。ですから決して陸の孤島とか、あるいは文化から隔絶された地域として御荘町があるのではなくて、むしろ古い時代になればなるほど、盛んに、積極的に他の地域との交流を、皆さん方の祖先はやっていたわけなんです。
 西瀬戸内に面する市や県の、市長さんとか、あるいは県知事さんなどが、この地域を一つの単位としての活性化などを言っておられますけれども、縄文時代人に言わせれば、今ごろそんなことを言ってと笑われるのではないでしょうか。そのぐらい縄文時代の人たちは、自分の地域の特徴を持ちながら、盛んに瀬戸内の方面や、あるいは東九州の地域との交流を通じて、自分たちの生活を豊かにするために、あるいは発展させるために、盛んに外に向かって働きかけている。そのような祖先を皆さん方は持っておられるわけです。
 縄文時代は、たとえば草創期から早期、前期、中期、後期、晩期というように、8,000年間ぐらいを六つの時期で分けて表わしております。平城貝塚は縄文後期ですから、その時期は、3,500年ぐらい前になります。さきほど私が、ここには2万年ぐらい前から人が住んでいるというふうに申しましたが、その2万年ぐらい前の旧石器時代については、この表の中には入っていません。具体的に御荘町の遺跡を挙げますと、御荘町の深泥(みどろ)遺跡、それから和口(わぐち)遺跡があります。これらの遺跡に今から2万年ほど前の人々の生活の跡があるわけです。実は平成3年と4年に津島町で発掘調査を行いましたが、その時もやはり、旧石器時代と思われる石器が発見されているわけです。ですからこの周辺地域で既に2万年前に近い時期から人々は生活をしていたわけです。今から1万年より前の時期は、土器がない時代ですから、先程言った和口や深泥、あるいは津島町の遺跡などでは、土器が出てこない。土器のない時代はもっぱら生で食べるか、あるいは焼いて食べるかしかなかったと思うんです。土器はありませんので、その当時のことを調べるということになれば、当時の人が狩に使った石槍だとか、あるいは動物を解体するための石の包丁だとか、石で作られた物でしか研究することができないんです。その石の道具が、御荘町や津島町から出てきています。そこで、2万年ぐらい前の時期から、この南郡に人が住んでいたということが言えるわけなんです。
 それからずっと時代がだんだん下りまして、1万年ぐらい前の時期に、今皆さん方に示したような縄文時代の一番古い時期が始まるわけです。当然この地域にも、ここにあります草創期、例えば上浮穴郡上黒岩岩陰、東宇和郡の穴神洞、あるいは中津川洞。このように東宇和郡あたりなどで、1万年近く前の人々が住んだ遺跡があり、あるいは生活に用いた土器や石器などが認められます。縄文時代の各時期ごとに、この南郡では人々の生活を見ることができるし、その人々が、ある時は瀬戸内の人々との交流、ある時は東九州の人々との交流を盛んに行っていくわけです。それで縄文時代の一番終わりの時期、2,300年ぐらい前ぐらいから、皆さん方もよく御存じの弥生時代になってくるのです。
 この弥生時代にも、同じような交流があると思いますが、それについて、ちょっと私の方から長井先生にお尋ねをしたいと思っております。弥生時代になってからの、他の地域との交流はいかがなものでしょうか。

長井
 縄文時代は、非常に瀬戸内とそして東九州その両方の文化が、今、橘先生が言われたように、南郡に流れ込む。流れ込むんだったら、一番文化が低いんじゃないかということです。文化というのは、高い所から低い所へ流れる、水の流れと同じなんです。今、橘先生は流れと同じではなくて、逆にひょっとしたら南郡から東九州の方にも行ったのではないかと、こういうことで救われるわけですが。実は、今日は中央公民館にある平城貝塚の資料をじっくりと見せていただきました。その時に橘先生も指摘しておられるんですが、平城貝塚の石器の中に弥生時代の石器がある。いわゆる縄文時代の石器として展示している中にです。これは弥生時代の石器ですよと指摘される遺物があるわけです。土器の中をよく見ていますと、これは弥生時代の土器であるというものも何点か入っております。ということは、少なくとも平城貝塚の一番新しい物は弥生時代の始め、大体今から2,300年から2,400年前で、貝塚が終わっているわけです。だから、間違いなく、やはり弥生時代の非常に早い段階に、このあたりまで弥生文化が入ってきている。それを具体的に言いますと、この御荘町に法華寺というのがありますが、ここから、それよりもうちょっと新しい大体2,200年ぐらい前の弥生式土器が出てきております。この土器は、僕が見るところ、九州から持ち込んだんじゃないだろうか。九州の土器と全く同じなんです。
 これは、実はこちらから東九州に行くことは絶対ありえない。弥生文化というのは、大陸から北九州に渡り、それから全国に広がって行った。そうしますと、弥生時代の一番始めの文化というのは、全部北九州ないしは東九州を経て、四国に流れて来た。こう見なければならないわけです。この時代に、いわゆる北九州で弥生文化というのが起こりますが、起こって間もなく、あまり時間をおかない状態で、関門海峡からパーッとこっち向いて伝わって来たのではないだろうか。弥生時代というのは皆さんも御存じのように稲作中心ですが、縄文時代から稲作は行われております。これは分かっております。九州の菜畑とか、いろいろな所で縄文時代の後期とか晩期の水田の跡がありますので、縄文時代の後・晩期あたりには、もう稲作が行われていたことは事実であります。しかし、稲作を完全に生活の中心として世の中が動きだしたというのが、やはり弥生時代からであろうと思います。そうしますと、弥生時代の案外早い時期に、もうこのあたりで、ひょっとしたら稲作が行われていただろうと見ていいのではないか。
 案外、そこらあたりの調査が、一番遅れているのが南郡であります。旧石器などの研究は比較的進んでおります。平城貝塚があるというので、縄文時代の人々の研究というのも進んでいる。弥生時代というのは一番遅れていると思います。縄文時代と旧石器時代の生活舞台というのは、河岸段丘上の台地にあります。ところが弥生時代になってきますと、稲作です。僧都川沿いの低湿地とか、山と山との間のジメジメした所がありますけれども、これを谷水田と言いますが、こういう所に人々が水田を営まなければいけないので、そういう近くに家を構えるようになる。ですから将来、ジメジメした所の周辺の調査というのを、今からやっていかなければならない。これが一番遅れているのではないか。僧都川という大きい川が、この周辺にあるわけですから、弥生時代の前期の遺跡がないというのが、元々おかしいのではないか。将来、やはりこういう所を、もし宅地の周辺とか、河岸を工事をするというような時には気をつけて見ていただきたい。そうしないと、大切な遺跡を見逃しているというようなことになってくるのではないか。これは提案とお願いをこちらからしなければいけない。
 橘先生から御質問がありました、どんなんだろうかということは、まさにストレートに東九州の方からです。これは弥生文化は必ず、西から東。これが基本です。特に今言った法華寺から出てきたもの。これは九州の大分県の下城という所がありますが、そこから出てくる土器とほとんど同じなんです。三崎半島の一番先端に野坂貝塚というのがあります。ここで最近、法華寺から出ているものと同じものが出たんです。そうすると案外、宇和海を直接渡るのではなくて、国東あたりから三崎半島に一回渡って、それからこちらに向いてきたのではないか。そうすると、海流をうまく利用することになります。そういう点では、非常に恵まれている。ちょうど、こういうような所に出てくることから見て、どうも通り道があるのではないか。そういう点で、三崎半島に野坂というのがございますが、もし将来遊びに行かれることがあれば、三崎の町中ではなくて、町から三崎灯台に行く途中にある「漁師物語」という観光センターが立っていますが、その下の所なんです。こんな所に遺跡があるのかというような海岸沿いの、山と海が接している非常に狭い所に野坂貝塚があります。ただ言っておきますが、平城貝塚とちょっと違うんです。平城貝塚は、前が僧都川が形成した干潟があります。このような遠浅に恵まれていますから、カキも多いですが、干潟にすむハマグリが一番多いんです。ところが野坂は、半島の突端で砂浜が無いですから、こういう所の貝はアワビとかサザエとか、特に磯に住む貝が中心になります。ですから同じ貝塚と言いましても、出てくる種類がぜんぜん違うんです。弥生時代前期はそういうふうに、九州の文化が非常に強く入ってきているのではないでしょうか。最近は、東九州と南宇和郡の文化伝播ルートは、直接ではなく、佐田岬半島の野坂貝塚などを中継地としていたのではないかと思うようになっています。