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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

4 平城貝塚の価値と特色

長井
 もう時間が長引いているわけですが、ここでお帰りになる方もおられますので、今まで話したところで、何かご質問がありましたらお願いします。

会場
 ホルンフェルスとここの頁岩と、それから香川県のサヌカイト、どっちがどういうところで見分けがつきましょうか。


 皆さん、今の質問分かりましたでしょうか。かなり専門的な鋭い質問なのです。実は私たちが考古学の方から石質を言う場合と、岩石学を専門にしている先生方の場合は違う場合があるんです。私たちはいつも石器を採集して、すぐこれは頁岩だとか、あるいはこれはサヌカイトだとかと簡単に言うんですけれども、これを大学で岩石学を専門にしている先生方に見せますと、何もおっしゃってくれないんです。岩石学では、一応プレパラートに小さな薄片を作って、顕微鏡でのぞいて、その中の鉱物組成がどうなっているかが分からないと、石材の名称というのは言えないと。考古学の人たちが、あんなに簡単に石材の名称を言うのが信じられないということが聞かれるわけです。
 御質問のホルンフェルスという石材につきましては、私も専門ではないんですけれども、流紋岩という石が熱変成を受けて、ホルンフェルス化したという理解で、よく使っています。実際にホルンフェルスとサヌカイトがどう違うのかといった場合に、これは風化した面、あるいは新しく割った面でないと、なかなか分かりにくいのです。私自身の経験では、東九州の地域には流紋岩とかホルンフェルスとかいうものが、大量に使われています。東九州の中で特に大野川の中流域ですと、旧石器時代の遺跡の90%が流紋岩ないしはホルンフェルスと呼ばれる石材の石器です。それに対して四国の方ですとサヌカイトという石が使われているようです。それで見た目で一番の違いを私自身が感じるのは、サヌカイトの方が、割った面を見た場合には、色から言えば黒っぽく感じる。それに対して流紋岩の方は、サヌカイトのような黒さはなくて、しかも、表面の状態が、サヌカイトと比べますと、ホルンフェルスの方が非常に滑らかになっている。そういうふうに、見た時の感じで、見分けをつけています。実際に1,000点の石質を全部当てきることができるかと言われれば、私は自信はありません。ですから今申したような色とか、あるいは表面の手触り、感触で、経験的に判断するぐらいかと思います。たぶん答えになっていないと思いますので、その辺の難しいことにつきましては、長井先生の方で補足をお願いしたいと思います。

長井
 僕も分かりませんが、僕の生活しているのは松山の方で、その前は東予の方です。すると、いわゆる香川のサヌカイトは東予が一番多いんです。瀬戸内海側というのは、案外香川県からサヌカイトが非常にたくさん入ってきております。これは縄文時代、弥生時代を通じて、非常にたくさん入っておりますから、そのサヌカイトの石器を、あるいは原石を見る機会というのは、非常に多いわけです。ホルンフェルスも見ております。ですから目で見て、ああこれは違いますと言うためには、本物をたくさん見るということです。そうすると、自分の頭の中にある範疇(はんちゅう)にないものはサヌカイトと違うんだとわかります。絵がそうです。ボロい絵を幾ら見ても鑑識眼は駄目だと。いい絵を多少見ていたら、これはボロだというのが分かる。ボロを見ていたら、いい絵は分からないというのと同じで、結局最後は、学術的・岩石学的な面でない場合には、サヌカイトをよく見る。ホルンフェルスをいつも見る。これ以外に方法はないのではないか。
 言い換えますと、このあたりに出てきていますのは、平城貝塚から出てきているものは、ホルンフェルスか硬質頁岩か、それは知りませんが、サヌカイトでないことはまず間違いない。そういう点で、もし非常に分かりにくいということがございましたら、私の家に香川県から持ってきたサヌカイトがゴロゴロしておりますので、それをお送りします。それを割って、そういうのを見ていただくと、それが一番勉強になる。だからここの資料館にも、実はそういうサヌカイトや姫島で取れた黒曜石の原石を、持ってきて置いておく必要があるのではないかということです。それからここには使っていないけれども、比較検討をするための資料というのは、やはり必要だろうと思います。高松市の栗林公園に行ったら、カンカン鳴らしているのがサヌカイトです。
 それともう一つ、松山から久万へ行く三坂峠あたりに、非常にサヌカイトによく似た石が出ます。岩石学ではサヌカイトと言うんですが、我々はサヌキトイドと呼んでいます。サヌキトイドは、サヌカイトもどきなんです。このイメージでは、分かりにくいんです。しかし先程の話にありましたように、プレパラートにして光学顕微鏡で調べたら、組織が違うんです。見た目には非常によく似ている。だから松山あたりの、僕の祖先などの貧しいのは、そういうのを使っているんです。やはりサヌカイトは使えないから、地元にある石を使おうじゃないかということで、やはり使う。それもまあ十分代用できる。解答にならないと思いますけれども、これは一度に説明することができない。ただ見ましたら、僕の感じでは、ちょっと先生と違うんです。ちょっと白っぽいかなと。そしてホルンフェルスは、何か湿った感じがするんです。そしてサヌカイトは乾燥した感じ。こういう感じなんで、ちょっと分からない、解答になってないんですが、主観がだいぶ入っているということです。またいつかそういうことがありましたら、サヌカイトそのものをお送りしますから、それを見ていただきたい。
 他にないでしょうか。

会場
 長井先生のお話で、いわゆる香川県のサヌカイトは遠いので、地方から出たところの頁岩を代用として使ったんだと。南宇和郡でここの遺跡のグループの鏃などは、それはサヌカイトではないと聞いたんですが、南予にサヌカイトはないんですか。それとも中予ではホルンフェルスが大部分だと、南宇和郡はホルンフェルスや、頁岩だと、こういうふうに思っていいんでしょうか。そこらへんをお教えください。

長井
 それは言えると思います。たぶん土器は、岡山県の羽島に貝塚がありますが、このあたりと同じような土器が、こっちからどんどん入ってきております。似たようなものが入っております。ということは、サヌカイトもそういうものと一緒に入ってくる可能性というのはありますので、これは否定できないと思います。だから全部が全部ホルンフェルス、あるいは頁岩であるということではないと思います。ただ私が見た範囲で、平城貝塚あたりからは、サヌカイトと言えるものはないのではないだろうか。こういうことなんです。もうございませんでしょうか。

会場
 ちょっと幼稚な質問かも分かりませんが、今、お話を聞いていますと、いろいろなつながりがあるんですが、この石器時代の関係と巨石文化との関連はいかがでしょうか。大洲あたりのは有名だと思うんですが。

長井
 はい、大洲あたりには巨石文化というものがありますが、地元としてこれも橘先生にお聞きしたいのですが、私の方でちょっとお話しさせていただきます。巨石文化というものも、ある人によると、国東半島を中心にずっと広がっているのではないかという説もありますし、実際にあるんです。高山の方については可能性としてはありますが、大洲あたりについては考古学的に証明されたものはありません。大洲の人には非常に申し訳ないんですが。だから巨石文化がないというものではないんで、分からないんです。

会場
 冨土山はどうでしょうか。

長井
 冨士山に巨石はありますが、あの周辺からは何も遺物が出ておりません。高山は可能性があると思います。高山は縄文が出ておりますが、はっきりしたというものではありませんので、考古学的には、残念ながら証明されていないんです。将来、調査したら分かるのではないか。そういうものがひょっとしたら、南郡あたりも将来発見されるのではないかという気がいたします。だから、山神とか、石神とか、立石とかいうような地名が、このあたりにあるかどうか。そういう物がありますと、ひょっとしたらそういうものに関連してくるかも分かりませんが。これは一つ気をつけておいていただきたいと思います。
 それで時間がもうあまりありませんので、引き続いてお話を。


 それでは少しだけお話をしたいと思います。私の方は鋭い質問で、目がすっかり覚めてしまいましたけれども、皆さんの方はいかがでしょうか。それで私が今これからお話したいことは、もう時間があまりないんですけれども、二つ目の平城貝塚のことについて少しだけ。詳しいことについては、のちほど木村先生の方からお話があるかと思いますので、ここでは貝塚というものだけお話をしてみたいと思います。
 普段私たちが大昔の人々のことを調べる場合は、冒頭で長井先生からもお話があったように、土器だとか石器。そういう遺物を頼りにして研究するわけなんです。普通の遺跡の場合は、土器か石器ぐらいしか出てこないんです。ところが実際には縄文時代の人々は、粘土を素材にした土器、あるいは石を素材にした石器。それだけで生活をしていたんだろうかというと、むしろ違っていて、本当の姿は、動物の皮、あるいは木の皮や繊維、かづらとか蔓(つる)、さらに貝殻とか骨など、自然界にあるものを、いろんなふうに利用しているわけです。ところがたまたま貝塚や、洞窟というような遺跡では、今申しました、竹、貝、木、骨、皮などの有機質の材料が、石灰分に守られて残るんです。ところが普通の遺跡では腐って残らないわけです。たとえば木なんかにしても、地中に埋もれると7、8年すれば朽ち果ててしまいます。ましてや3,000年とか3,500年ぐらい前に作った木の道具が遺存するということは、よほどのことがないと無理です。縄文時代の貝塚というものは、当時のいろんな物が遺されている一種のタイムカプセルだと言えるのです。
 実際に平城貝塚でもそうですし、他の貝塚でもそうですけれども、貝塚を掘りますと、土器・石器以外に、縄文時代の人々が食糧とした貝殻、それから動物・鳥・魚の骨、あるいはイルカやクジラなどの海生哺乳類の骨が遺っているわけです。貝塚だから残っていて、実は骨でも、30年前のお墓をもう一度建て直そうとしたら、もう骨が残っていなかったとよく言われます。普通の土だった場合は、人間の骨などにしても、何十年も持たないんです。貝塚の場合は、この平城貝塚でも3,500年前の人の骨が発見されています。そのように、貝塚というものは、普通の縄文時代の遺跡と異なり、非常に多くの資料を、私たちに提供してくれます。
 そういう意味では、貝塚というものは、ものすごく大切な存在だと思うわけです。では実際に、どのようなものが残っていたのかということになるんですが、具体的な遺物については、また後で出てくるかと思いますが。たとえば今まで何回も話に出てきた土器。この土器については、煮炊きしたものか、盛ったりしたものかは、大きさとか形でもって、何に使ったかという当時の人々の食生活の一部を私たちは知ることができます。それから石器は、当時の人々がどういう生活をして、どういう方法で食べる物を得ていたのか。たとえば石鏃が出土すれば、弓矢による狩猟活動が、石のオモリが発見されれば、網を使った当時の漁撈(ぎょろう)活動が分かるんです。
 貝塚では、これ以外に骨や貝などが出土します。そうした場合に、貝があることによって、たとえばハマグリなどが多量に出土するということになれば、このあたりは砂浜の海岸であったことがわかります。あるいはサザエが出てくれば、ここは岩礁というか、岩などがある所で、潜って取っていたんだなというように、具体的に、どういう貝を食べていたのか、さらにはその貝はどういう所でとれるかということから、当時の人々が住んでいた周辺の環境が分かります。また、どのような種類の魚をとっていたかということは、普通の遺跡では分からないんですが、貝塚では魚の骨が出てきます。たとえば平城貝塚でも、マグロやサメなど、大型の魚骨が出土しています。それからタイ、サバのようなもの。それにエイ、イルカ、クジラ、ウミガメ。そのようないろんな魚の骨が出土することから、貝塚の人々が、どういう種類の魚を食べたかということが分かるわけです。それから狩りの対象の動物は何だったのかと申しますと、この平城貝塚から出土していますのは、鹿とイノシシ。ですから実際に鹿やイノシシが、この御荘町のおそらく山手あたりにいたんだということが分かるわけです。それからさらに、ここでは数は少なかったようですが、植物の種子や木の実の殻と思われるものが出土しています。ですからこの当時、狩りをしたり、あるいは漁撈をするだけではなくて、この辺の野山は照葉樹林地帯で、各種のドングリだとか、椎、あるいは栗、そのようなものがあったということが、十分想像できるのです。貝塚では植物遺体やドングリなどの殼などが残る可能性があり、あるいは実際に残っているわけです。そういう意味でも、私はこの貝塚というものは、縄文時代のタイムカプセルではないかと考えているわけです。
 それからもう一つ、貝塚の場合は、この平城貝塚もそうですけれども、人骨が出土しています。平城貝塚で11体の人骨が出土していますが、その人骨から、当時の人々のたとえば頭の形や、顔の特徴、あるいは手足の状態などを調べる学問、形質人類学があるわけです。これは大学の解剖学教室でやっているようですけれど、その形質人類学から、この平城貝塚から出てきた人骨は、どういう特徴があったのかということが報告されています。その一つは、いわゆる頭の骨の厚みが現代人に比べると厚い、頑丈だということが違いとしてあります。それから、頭の形には短頭とか長頭ということがありますが、これは真上から見た場合に、まん丸に近いのを短頭、楕円形を長頭と言います。ここから出ている人骨は、一応短頭という特徴があるようです。次に顔ですけれども、一つは今で言う長顔の人と、それから四角い顔と言うか、丸いというか。この平城貝塚の人骨の顔は、いわゆる横広、あるいは低顔(ていがん)と言って、あまり顔が長くない。あまりいい言葉ではないのですけれども、寸詰まりの顔が特徴だということで、人類学の先生はまとめています。顎も極めて頑丈と言っています。それから身長については、出土した11体のうち、完全な形で残っているのは実際には少なかったのですけれど、一応男性については150cmと155.4cmという二つの推定身長が出ています。ちなみに私が162cmですから、私より少し低いぐらいというのが、ここから出ている人骨の身長です。ですから、一般の縄文人もそうですけれども、平城貝塚の人々は低身長が特徴です。
 それから、これはここだけではなくて縄文時代人と現代人の一般的な違いの一つとしまして、歯のかみ合わせが挙げられます。いわゆる物を嚙む時に、今の人たちは上の歯が前に出ていますが、縄文時代の人たちは上の歯と下の歯がちょうど合うように、毛抜き状をしているということです。縄文時代と現代人では、歯のかみ合わせ方の違いがよく言われるわけです。当然ここの平城貝塚から出ている人骨も、歯のかみ合わせは上と下とがちょうど合うような形をしています。それから手足の骨ですけれども、これは先程身長が低いということから、当然短いわけで、短いんですけれども、頑丈で、筋肉が付着するような所が非常に発達をしている。ということは、よく野山を歩いていた。要するによく足腰を使っていたというような特徴があります。
 最初、この平城貝塚と、大分市の東九州の貝塚が非常に似ている。交流があったのではないかということを申しましたけれども、東九州の人骨はどうなのかを見てみますと、全くと言っていいほどに、東九州の縄文後期の人たちと平城貝塚から出ている人骨の特徴が一致しています。人骨を比較することで、東九州の貝塚と平城貝塚とが非常に類似しているということが、文化の交流が、実際に人間の行き来があったための結果ではないかということが、逆に人骨の方からも言うことができるし、そういうふうな資料を、この平城貝塚は提供しているということです。