データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~

◇住民の理解と協力で実現した堀割の再生

広松
 昭和52年の12月議会で、河川浄化計画が正式に市の施策になり、翌53年4月から、河川浄化事業がスタートすることになりました。
 ところで、よく「水は、有限な資源だ。」と言いますけれども、これは大間違いです。私たち人間の体は水でできています。水があり循環していたから、今、私たちが存在するのです。水は、資源ではなく、命そのものなのです。
 柳川の町と堀との関係も、人間と水との関係と全く同じです。人が住めないような湿地帯を、堀を掘り割ることによって、人が住めるような土地に、農耕の適地にしてきたわけで、「堀が先、町は後から」です。生活も文化も、全て堀の上に成り立っている。その堀を埋めるということは、歴史と断絶してしまうことになります。「汚れたから埋め立てる。蓋(ふた)をする。」では、汚濁や破壊に任せてしまうことになります。堀の持っている機能は、あの平野にとって欠かすことはできないのです。今は、荒廃して、住民の生活環境を阻害しているけれど、皆で取り組めば、必ずきれいにすることができる。
 河川浄化事業を成功させるためには、①住民の理解と浄化活動への協力、②浚渫した土砂の捨て場の確保、この二つが欠かせないのですが、土砂捨て場の用地買収交渉はなかなかうまく進みません。あまりうまくいかないものですから、途中から、買収ではなく借地に切り換えて精力的に取り組みましたが、とにかく理解が得られない。
 それまで10数年にわたって、柳川市があの手この手で取り組み、住民も一生懸命汗を流してきたのに、一向に成果につながらなかったのは、取り組みに一貫性がなかったこともさることながら、川の沿岸に住んでおられる住民の理解と協力を仰がずに、行政は行政だけ、住民は住民だけで一方的に取り組んだからなんです。住民と一緒になって取り組めば必ず成功するということで、住民の中に入っていくことから始めました。
 理解を得るために、奥さんたち、区長さんたち、あらゆる人たちの集まりに出て行きました。各会合の事務局の方にお願いして、時間をいただき、堀が作られた歴史的な背景、機能と役割、浄化再生の必要性を、ずっと訴えてまいりました。しかし、2月の終わりになっても、一向に効果が目に見えません。で、「町内会の人たちと、直接膝(ひざ)を突き合わせて話し合いをやろう。」ということで、町内会に出て行って、住民懇談会を開くことにしました。
 柳川は、市街地に三つ小学校の校区がございます。まず、そこの区長さんたちに、新しい市役所庁舎に集まっていただきました。そして、堀がきれいだったころの思い出話から入りますと、すぐ座が盛り上がります。盛り上がった所で、堀が作られた歴史的背景、機能と役割、浄化再生の必要性などを訴えますと、「そうだ、それが本筋だ。」と言って、区長さんたちにはすぐ理解され、拍手で協力の確認がなされたわけです。次に、理解をもっと深めるために、さらに小学校の校区ごとに。
 住民懇談会の案内状の配布に当たっては、区長さんたちに特に念を押してお願いしました。「今度の案内状は重大だから、班や隣組の枚数を数えて、班長さんたちを通じて配布するのではダメ。区長さん自身が、町内を1戸1戸回って、その家の責任ある方に、『大事な話し合いだから、ぜひとも参加してもらう。』という了解を取りながら、この案内状を渡してください。」と、お願いをしたのです。ほとんどの区長さんが、そのように実行していただきましたので、どこの会場もいっぱいになりました。
 いよいよ、本番の住民懇談会です。やはりこの時も、堀や川がきれいだった当時の思い出話から入ります。すると、すぐ座が盛り上がります。
 ところが、掘の機能と役割の説明になりますと、「今はもう水道が完備している。川の水は飲まないのだから、川は大事にしない。」「市街地の中には、もう水田が少なくなったから、堀はいらない。」といった意見が出てきます。
 すかさず、「じゃあ、水道の水はどこから来ていると思いますか。水道の水も、元は川の水でしょう。」「有明海が満潮の時に大雨が降っても、水田がたくさんあれば、水田が雨水をくわえこんで遊ばせてくれるから、少々堀が埋まっていても洪水にならない。その水田が少なくなればなるほど、堀が持っている遊水池としての機能、洪水を防いでいる機能は、より重要になってくる。水田が宅地化することは、新たな洪水の発生源になる。あなたがおっしゃっていることは、全く逆です。」と言いますと、長く土地に住んでおられる方たちばかりですので、すぐ理解されるわけです。
 理解が深まったところで、埋立て計画の変更について説明し、「汚れてしまった中小水路は、昨年4月から埋め立て計画がスタートすることになっていたが、その機能と役割を見直した結果、埋めることはできないということで浄化を進めていくことになりました。皆さん方の理解と協力をお願いしたい。」と、話を続けます。「昭和43年から、市が城堀10kmを大々的に浚渫したが、あっという間に、元のもくあみになってしまった。これは皆さん方の協力を仰がずに、市役所が一方的に取り組んだためだ。今度はそうではない、皆さん方と一緒になってやろうと思っている。」と切り出しますと、盛り上がっていた座が白けて、シーンと静まりかえるんです。これには、ずいぶん神経を消耗しました。
 でも、いっぱい集まっておられる中の何人かの方が、「今の話を聞いていると、柳川にとって堀が命だということがよく分かった。このままではどうしようもない。やろう。」とおっしゃってくださる。それで、区長さんが「どうですか。」と言って声をかけられますと、拍手で協力の確認がなされるんです。
 今の話だと、懇談会がスムーズにいったような言い方をしましたが、最初は、つるし上げの状態でした。もうとても話し合いになりません。それでも粘って、ずっと話し合いを繰り返してきたわけです。
 いよいよ浄化事業、浚渫に取り掛かるんですが、観光用の川下りの船が立ち往生している所は、意識的に後回しにしました。夕立程度のちょっとした雨で浸水が発生する、めちゃめちゃに汚れて埋没しているところから、順番をつけるわけです。
 当初は、浚渫土砂の捨て場の確保には相当苦労しました。土地があっても、売っても貸してももらえないという状況でしたが、最初の1本が流れ始めたら、困難な状況が逆転したわけです。
 最初は、住宅地の中や商店街の裏でした。狭くて機械が全く使えず、足の踏み場もないような所でしたが、人海戦術で取り組み、ようやく流れかかったところに、用地買収の世話をしておられた農業委員の方が通りかかられ、自転車から下りて、「この川が流れているのを覚えているのは、自分が矢畄(やどみ)小学校に通っていたころ以来だから、もう20年ぐらい前のことだろうと。こんなに流れるようになるんだったら、わしが、もういっちょ肝入ろう。」と言って、3か所、友人の土地を借りていただきました。同じように、漁師町のお寺のお坊さんで区長をしていた方が通りかかられ、自転車から飛び下りて、「こんなに流れるようになるんだったら、あなたから毎日相談していた、ほかの人に貸している土地を今から取り返してくる。ただでいいから使ってくれ。」とおっしゃるわけです。交渉を重ねておりましたが、ずっと取り合ってもらえなかった方ですが、堀の流れ方が変わったところを見て喜んで、他人に貸している土地を取り返して、浚渫土砂の捨て場として貸してくださいました。
 3本、4本、流れかかりましたら、「うちの町内はまだか、まだか。」ということで、なんと市街地のど真ん中に、浚渫土砂の捨て場が21か所も無償で提供され、全部合わせて、25か所も確保できたわけです。
 浚渫作業は、最初の6か月間は全て、住民参加による人海戦術で、直営で取り組んでいきました。途中で、「ジェットホース」という方法を考案してからは、住民の方の負担を軽くして、最初の日曜日には総出で、ゴミを片付けてもらったり、伸びている枝を刈ってもらったりしますが、2日目からは、何人かにジェットホースのロープを引っ張りに来てもらうだけになったわけです。ただし、区長さんは毎日出て来て、細かいお世話をしていただいたので、大変だったと思います。
 そんなことで、とんとん拍子に浚渫がはかどっていって、もう柳川の町が一変したわけです。こうして、完全に埋没していた27km近くの堀は、4年計画で浚渫する予定でしたが、ジェットホースを考案したことと、住民の方々の理解と協力を得ることができたということで、1年半で目鼻がつきました。それで、浚渫の延長を10kmほど延ばしたところで、3年2か月で浚渫を終わりました。

松井
 やはり、地域の住民の皆さんの理解と協力が肝心ということですね。最後に、柳川で成功されたことを、さらに発展させていくためのヒントのようなものがあれば、聞かせていただきたいのですが。