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わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~

◇上浮穴へ移り住んだきっかけ

 こんにちは、甲斐と申します。私は、福島県相馬(そうま)市の出身です。東北のほうで、6歳までズーズー弁で過ごしました。
 「桜の木がいっぺえあってな。その下さ、菜の花が黄色いじゅうたんのようにあったんだ。その中で、わらしっこ(子供)ら皆、そこでかくれんぼしたんだ。そうしたらな、友達のひろこちゃんが、夕方になっても出てこねえんだ。それでどうしたと思ったら、菜の花が気持ちよくて、そこで昼寝っこしてしまって、家さ帰(けえ)るの忘れてしまった。それで皆で大騒ぎになってしまったけど、離れている黒い犬がひろこちゃんを見つけて、帰(けえ)った。」と、そういう所で育ちました。
 一方、私の主人は宮崎県の出身です。前が海、後ろが山という所で育って、4月8日のお釈迦(しゃか)さま(花祭り)になったら、「きんしめ」というふんどし一丁で、海に飛び込んでいたそうです。裏の山へもよく遊びに行ったそうです。「行く時は勢いよくかけ上がるんだけれども、帰ってくる時にはもうお腹がすいてしまって、ボロの赤いトタン屋根が遠くに見えて、そこが自分の家だとわかるんだけれども遠くて帰れない。お腹が空いているので、ここから傘でもあって飛んだらどんなにいいだろう。」と、そんな所です。
 私は福島で6歳まで、主人は宮崎で12歳までくらしておりました。それから、各々の両親が東京へ出まして、それで二人は東京で大恋愛。結婚して、志村けんで有名な東村山市(埼玉県)に住んでおりました。そして、3人の子を持ちましたけれど、3番目の息子が、気管支が弱くて年じゅう風邪をひく、目が結膜炎になる、中耳炎になるというふうに、病気の繰り返しだっだんです。
 1歳10か月になってやっと歩きましたので、ある程度ほっとしたのもつかの間、今度は3歳になっても言葉が出なかったんです。東京には医者がたくさんおります。「もうこれは、知恵が遅れているんじゃないか。」「脳波を調べてみなさい。」と、病院を次々に指定されたんです。そんな病院巡りをしているうちに、とても疑問を持つようになったんです。
 言語機能や運動機能をつかさどる脳がどこか欠落していて、しゃべらないとか歩かないというんだったら、それはしょうがないと思います。だけど、脳はちゃんとしている、脳波は大丈夫ということで、脳は完全に揃っているのに、しゃべらない・歩かないというのは、どうしてなんだろうということです。結局、それは病気のための発達遅れということなんです。
 人間の脳というのは、体からいろんなものを感じ取って、発達していくらしいんです。たとえば、赤ちゃんの時にお母さんと外に出かけて、電車がゴーッなんていうのを聞くと、目は見えてなくても、そういうのが刺激になって、フッとビクッとしたりします。ところが、うちの子は、病気がちで家の中で寝てばかりいるという状態でしたので、それが悪循環を繰り返していたということが、ある時、わかりました。ある医者の「どこかへ転地療養をしたら、この子は丈夫になるのになー。」という一言だったんですが、私たちが小さい時に、野山を駆け巡ったりしていた、そんな体験が、この子にも必要だということに気付きました。それで、「これは、やはり水や空気のいい所へ引っ越そう。経済的なものは、皆そこでくらしているんだから、行ったら、絶対に何か働くことはある。」という気持ちで、友達がいたから、小田町(上浮穴郡)に移ってきました。
 関東周辺を探したんですけれども、「土地があいているから、譲っておくれや。」と言っても、やはり知らない者は、なかなか受け入れてくれないんです。そのことは、やはりこちらに住んでみてわかりました。警察に言うと怒られてしまうけれども、鍵を閉めている家なんか、ほとんどないと思います。私も今日、ここへ来るのに、全部鍵は開けていますし、窓も開けています。「こんにちは」と言っても、人がいないんだけれども、戸が開いているという状態です。皆、知らない人はいないんです。つまりもう、住んでいる中で信頼関係ができている。よその家なのに、どこに何があると知っているくらいの付き合いになっているんです。
 それを、新しく入ってきた人が、もし悪い人だったとしたら、全然知らないで土地を売った人とかが、逆に恨まれて村八分とかになってしまう。その団結が怖い面につながる。だから、これはどこどこのだれそれと知っている人でないと、やはり受け入れてもらえないというのが、住んでみてよくわかりました。
 小田町へ引っ越してくると、一番下の子供が、期待したとおりみるみる変わったんです。これ以上高いと、幼稚園とか学校へ通学するのが不可能だろうという山の上に、住まいをかまえました。そうすると、帰ってくる途中で、鼻がどんどんどんどん出てくるんです。でも歩かないと家につかないんだから、「歩けない。」なんて言っていられないんです。それでフラフラして、砂利道なので山から落っこちたり。それで、お腹が空いて家へ帰ったら、おやつがあるということを繰り返しているうちに、どんどん丈夫になりました。
 そして、驚いたのが言葉です。幼稚園に入る時も、「うまうま、ブーブー」ぐらいでした。言葉が出ないから、会話をして友達になるということができないわけです。ですから、幼稚園に入っても友達がいない状態でした。幼稚園の先生に、「友達は、ウサギやニワトリ、動物ですよ。」と言われて、本当に驚いたんです。
 小田は、家の前が谷川で、下が田んぼという所でした。姉・兄と一緒にその子が、谷川に入って、3人で石積みを始めたんです。子供が川に入った瞬間に、こっちの言葉で「ひえー」(冷たい)と言葉を発したんです。そうしたら一番下の健二も、入った時に自分が体に感じた水の冷たさと、姉兄(きょうだい)たちが発した言葉に合わせて「ひえー」と言ったんです。体で感じたり、見たり、刺激を受けたりしたものが心に伝わり、言葉になって出るということが、これなんだということをものすごく強く感じました。
 そして、水や空気、それから私たちが作る食べ物。風邪は時々ひいて熱を出しますし、中耳炎にもなりますけれども、お陰様で高校まで行けるようになりました。
 小田に7年住み、平成元年に久万へ引っ越して来たんですが、地域の人と本当に仲良くなりました。近所のあるおばあちゃんが、「甲斐さん、今じゃから言うんじゃけんど、わしゃあな、健二君はものにならんと思うとったんよ。」つて言うんです。つまり、育たないで、途中で命が落ちると思っていた。自分は何人も子供を育てたけど、健二君みたいな子はうまく育たなかったと。
 だから今、医療が発達したということもあるんですが、私は、自然が健二を育んでくれたんだということを、強く感じております。東京にいる時は、医者や薬が本当に頼りだったんですけれども、それは2番目にある補助的なものであって、1番はやはりこの自然が育んでくれているということだろうと思います。