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わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~

◇中世における九州との交流

 今度は、九州寺(きゅうしゅうでら)のお話をします。やはり台の話なのですが、昔、お寺があったという平たい所があります。時代は、応仁(おうにん)の乱ののち、つまり天下が麻のごとく乱れた当時のことです。九州に、大友義鑑(よしあき)という人物がおりました。有名な大友宗麟(そうりん)のおやじさんにあたる人です。国東(くにさき)の、豊後高田の出身ですが、ここを根拠にして近隣を切り従えて、一時は、九州の半分ぐらいも取っているのではないかというような時代もあったりして、九州でも有数の大大名になったわけです。その息子さんの大友宗麟になった時は、先はどお話がありましたように、このあたり、南予のほうも、4回も5回も攻撃を受けております。
 この大友義鑑という人は、キリスト教信徒だったために当時攻めていた地域の神社仏閣(ぶっかく)をほとんど焼いたり、あるいは、壊したりしたので九州全土の人々から恐れられたというようなことが書かれたりもしております。このような状況でしたので、ちょうど国東のお坊さんが何人かで相談されまして、このままでは自分たちが、死後、安楽に納まるところがないということで、そのお寺、あるいはお墓を、ここ、台へ持って来ていたことがあるのです。これが、いわゆる九州寺と言われるお寺の由来です。山号はよく分からないのですが、寺号は金宝寺(きんぽうじ)と言います。
 お寺があったという場所の横のほうに、今でも国東石の五輪(ごりん)様が、無造作に置いてあります。亡くなった方を連れて来たり、あるいは墓石まで持って来ておられるようで、ここが、死後も安泰の場所だというようなことだったらしいのです。その後、これも御承知かもしれませんが、大友宗鱗が何回か攻めて来ましたが、台方面には上陸していません。そういうことがあったからかもしれません。墓まで持って来て、死後の安泰を願ったというようなことを考えると、台の辺りは、本当にいい土地であったのではないか、また、交通の便も良かったのではないかというようなことを思うわけです。
 町指定の文化財に「写経(しゃきょう)」というのがあります。般若心経(はんにゃしんぎょう)を筆で書き写したのが地福寺(じふくじ)にあって、これが文化財に指定されているのです。この写経が、年号で言いますと、元弘(げんこう)3年(1332年)から貞治(ちょうじ)3年(1364年)、これは南北朝時代ですが、この間の33年(これは「三瓶町誌」にも書いてありますが、)にわたって書かれたお経です。
 これははじめ、豊後速見郡(はやみごおり)日出小畑光明寺(ひじおばたこうみょうじ)というお寺で書かれたとされているのです。豊後の光明寺。それがどうもはっきりした文書はないんですが、今言いました国東から来た九州寺、金宝寺にあったものを、後日、地福寺へ移したと言われているわけです。
 このように、いろいろと考えてみますと、ずいぶん昔から、海道を通じて文化の交流があったのだなというようなことを、つくづく思うわけです。