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わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~

◇明治以降の三瓶の海運

 明治に入りますと、21年(1888年)、二及に西洋式帆船幸徳丸(こうとくまる)という、千石船が建造されております。これは、主として銅板を張って、玄米のばら積みをするもので、当時としては、画期的な建造であったように思います。のちに、2号、3号ができて、これは九州から阪神、北海道、朝鮮まで航行いたしております。
 大正から昭和に入ると、三瓶は坑木の積み出し地としてにぎわいます。下泊から周木まで、海岸線の荷置き場は、道路以外は、もうあいた先がないほど、坑木が山積みにされました。ちょうど九州の石炭産業の全盛期のころで、九州の若松港(北九州市)に向けて、日和(ひより)のいい日は、毎日のように坑木船が出航いたしております。
 関連して、当時の林業についてみてみますと、松は植え付けてから20年ないし30年目には伐採できるということで、この三瓶の海岸線は、見渡す限り、畑以外は全山が松林でした。これが昭和40年(1965年)を過ぎると、石炭産業が衰退する一方で、松くい虫にやられまして、一時は、全滅の状態となりました。再生した松が、今ようやく伐採期を迎えておりますが、2度目の松くい虫の被害によって、今また、全山、赤茶けてきております。
 戦後になりまして、いよいよ鋼船時代の幕開けとなります。昭和28年(1953年)、それまでは油はドラム缶によって運ばれておりましたが、二及の上田亀市さん、山下浩一さんたちによって、鋼船、タンカー船が建造され、日本のタンカー業界に進出していったわけです。 37、8年には、プロパンガス船、アスファルト船、特殊タンカー船などが次々と建造されております。
 昭和56年には、内航船が45隻、外航船20隻、合計65隻で、10万トンを越えております。船員の数も800名で、月々払われた給料は3億円を越えているようで、伯方島(越智郡伯方町)に次ぐ県下2番目の海運の町にまで成長いたしておりますが、この陰には、素晴らしい指導者のあったことを忘れてはならないと思います。
 今年(平成6年)4月の調査で、内航船は26隻、外航船は4隻で、合計30隻。乗組員は400名となっております。これは最盛期に比べて、船の数は約半分近くに減っております。と言うのは、当時の500トンクラスの船が、現在3,000トン級に建造し直されております。それで船の数は減りましたが、トン数は、それほど減っていないということになります。ただ、外航船4隻、これは最盛期には20隻でしたので、激減したということになります。皆さん御承知のように、円高ドル安の直撃を受けているようで、先行きはますます不透明ということのようです。船員数の400名、これもちょうど半数に減っておりますが、船舶の自動化が進み、効率化が図られた結果が、このような数字になって表われているものと思います。
 現在、外航船4隻の乗組員は80名、全員外国人だそうです。以前は、外国人船員の給料は、日本人船員の30%から50%前後で、かなり格差があったそうですが、現在は、60%にまで達しているそうで、将来ますますこの格差は縮まっていくと言われております。
 最後に、第二国土軸構想、豊予海峡をトンネルで結ぶか、あるいは橋にするか。現在、議論されているところですが、21世紀を目前に控えて、四国と九州を結ぶための連絡ルートは是非必要である、ということを力説しながら終わりたいと思います。