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わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~

◇愛媛学への期待

 先程は、都市は嫌いだから私はここでタウン誌をやっているというお話を聞いていて、なんとも素晴らしいことだと思うんですが、私のような人間には、どうも都市の水でないとくらせないという、五月の鯉の吹き流しの運命というものがあります。それはどういうものかと言いますと、地方には情報の限界がある。それから、情報を発信する連中の集まり、つまりサロンができにくい。文化を創造する時に一番大事なのは、例えば学問をやっていてですね、同学のものではなくて、一つの研究課題に対して歴史学者もいれば社会学者もいれば民俗学者もいるという集まりの方が、実際的なんです。これは私の場合ですが、愛媛の皆さんのお話をうかがっていて、認識を新たにいたしました。それは、地域の住民の方々の活動からも有力な学際研究と同じ成果が得られる地域であると感じました。やはり一番大事なのは、今申し上げだことでおわかりのとおり、地域学は地域住民が主体の学問でなければならない。これが第一だと思います。ただし、それは素人の方だけの集まりよりも、学際的にいろんな人をチームリーダーにするほうがいいだろうと思うんです。そしてさまざまなサロンを形成する。
 サロンというのは非常に大事な意味を持っています。江戸文化が世界的に評価されているあの錦絵というのもですね、あれは遊びから生まれたんです。その事をちょっとお話ししたいと思います。あの錦絵というのは、あれはお江戸の絵という、江戸絵というものだけに関する名称なんです。浮世絵は関西のものも含めた総称です。18世紀後半の鈴木春信以来、色が重なり合う版画としての錦絵ができるようになったきっかけは、大久保サロンという所で生まれました。大久保サロンというのは、1,600石取の旗本が、飯田橋の近くに住んでおりまして、そこへ春信とか、あるいは刷り師、彫り師、そういう人が毎晩のように、集まった。昔は大の月小の月と毎年違いますから、それを大小暦といって正月に配るんです。その大小暦を絵暦にしようというのが、大久保サロンの試みでした。絵の形も絵画そのものにしようと言い出したんですね。考え出すことを誘ったのは、旗本なんです。玄人ではない。その人がスポンサーで金を出している。けど、絵師は春信なんです。
 ところが、春信だけが名前が出るんですけれど、もし髪の毛一本ですね、彫り違えたら、これはもう作品にならない。10、20の版絵を刷るというと、大変なことですね。また刷り師が見当を間違えると、絵にならない。見当違いという言葉がありますが、それは版画から来ている。2か所ありまして、その見当をピシャッと合わせる。それも勘なんですよね。何cmなんて測っていないんです。ちゃんと勘でピタッと。その見当はずれになると、これはもうダメなんですね。色合いにいたしましてもなかなか難しい問題が残っている。それを完全にやってのけたんですね。これが明和2年という年でありますが。これは日本の文化史上、画期的な18世紀の半ばでございます。これが評判になった。春信の描いた原画が残っているのですが、これはあまり大したことはないんですね。あまり精密ではない。肉筆は凄いものがありますよ。だけど版画の元というのは、デッサンにちょっと毛が生えて、色がついているぐらいのものですよ。それを刷り師、彫り師がちゃんと仕上げている。まさに総合芸術です。それをやりだしたところが、大評判になったものですから、今度は絵だけが独立した。そして次には、よく御存じな歌麿であるとか、写楽であるとか、北斎であるとか、広重であるとか、出てきましたが。
 特に面白いのは北斎漫画がございます。漫画といいましても、絵手本と言われる物で、冊子になっているのですが。どういうふうに絵を書いたらいいかという、順序が書いてある。それが、長崎からヨーロッパに輸出される醤油を入れた陶器の間に、揺れないように北斎漫画が詰まっていた。これがパリで評判になりまして、ジャポニズムが起こりました。ちょうどそのころの日本は、幕末から明治維新への移行期で錦絵・絵手本などは、もう二束三文になっているわけですね。本当に束になって幾らというふうに。しかもそれが外国へどんどん出るということで、特別の貿易商がいて、いい物を全部持って行ってしまった。一時期は、これは文化の損失であって、早く取り戻さなければということが、叫ばれたのでありますけれども。それは今ヨーロッパやアメリカの博物館にあるが故に、今日残っている。もし日本に残っていたならば、その価値観の変動で、先程言った壜の押さえになっていたか、燃やされているという可能性がある。それはどうしてかと言いますと、町絵師の描いたものは価値がないというふうに考え、江戸の町人文化を否定したところに原因があります。
 ところで松山には江戸文学の粋ともいえる俳諧の伝統が正岡子規によって再生され、その伝統が現在にも生かされております。また矢内原忠雄先生のように、東大総長時代卒業式の際に「ただの酒を飲むな」と言われた清廉潔白な学者を輩出している土地柄です。こうした地域の先人の生き様を範とすれば、何事もできないことはないと思います。
 ところで話が飛躍して恐縮ですが、生前井上靖先生にお会いした時、私のような若輩に対する言葉遣いの鄭重さに驚かされたことがあります。また最近お付き合いをさせていただいている永井路子先生の歴史事実探究への深さに驚いたこともあります。
 結局、何をやるにも、最後は「人間」のもてる精神が、どこを向いているかのように感じられてなりません。よき先輩を持ち、それを培った地域におられる皆さんの愛媛学が、日本をリードするものに成長することを期待して終わります。御清聴ありがとうございました。