データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成7年度 愛媛学セミナー集録~

◇大三島での稲の栽培は1,700年前から

 古い時代と言うけれども、いつごろから大山祇神社で稲が作られていたのでしょうか。
 今は「明治(めいじ)川」と言われておりますが、神社の西側に川が流れております。これは、古くは「明智(みょうち)川」と呼ばれておりましたから、私は「みょうち川」と言っております。この明智川をずっとさかのぼっていきますと、川のほとりに田と畑があります。水の引ける所は田に、水の引けない所は畑になっていて、1kmも2kmも奥まで続いています。その畑の部分を歩いてみますと、弥生の土器の破片がパラパラ落ちております。その一番奥に田があるんですけれども、その田のほとりでも、弥生の土器を拾うことができます。
 昨年(平成6年)、大三島南小学校の郷土クラブの人たちと一緒に、その田のほとりに行ったのですが、子供たちは、そこで弥生の土器の破片をたくさん拾って、大変喜んでおりました。私も拾っております。
 そうしますと、この明智川の左右の田と畑は、弥生時代からここに人々が住んで、稲や作物を栽培していたということがわかります。この明智川をずっと上がっておりますと、少し入った所に、右側に下池(しものいけ)という池があるんです。さらに上がって行きますと、その下の池の倍ぐらいの大きな池があります。それで下が下池だから、上池(かみのいけ)と言えばいいはずなんだけれども、この名前が実は、宮祇池(みやずみいけ)なんです。「みや」はお宮の宮、「ずみ」は大山祇の祇ですから、この池の名前からすると、大山祇神社と何か関係のある池だということは、だれが考えてもすぐわかることなんです。
 その宮祇池に続く大きな谷から分かれて、右側にもずっと谷が続いております。この谷をウシガタニと言いますが、そこには田もなければ畑もなく、全くの谷間です。このウシガタニに砂防ダムが三つ造られたのですが、谷の行き詰めの所に三つ目のダムを造る工事中に、そこから弥生の土器の破片が転がり出た。その土器は、このお隣の歴史民俗資料館にちゃんと展示されております。
 そのことを知り、工事をした方に「どこかな。」と尋ねたら、「そこは難しい所だから、連れて行ってあげましょう。まだ残っているかも知れませんよ。」と言われて、現場へ案内してもらいました。
 そこを掘りましたら、たくさんの破片が出て参りました。それを全部復元したのが、この前にある壺です。向こう側の三つが、弥生土器です。弥生土器というのは、粘土をそのまま使って作りますから、土器の中に砂粒がまじっているんです。
 ところが、その同じ場所から、一番こちらの土師器(はじき)という壺(これは半分なんですけれども)が出てきた。これは土が違う。土師器と弥生土器はどこが違うかと言いますと、土師器は粘土を大きな入れ物に入れ、それに水を入れてかき混ぜるんです。こうしてかき混ぜますと、砂は底へ沈殿して上に粘土だけ残る。その粘土を乾かして作ったものだから、肌がツルツルして砂がありません。素人でも簡単に見分けがつくわけです。
 その場所がいつの時代であったかは、焼物が教えてくれます。弥生時代は今から2,300年前から1,700年前ころの600年間を言い、そのあと古墳時代になるわけですが、古墳時代を意味するのが、この土師器であります。同じ所から、弥生土器と土師器が出たということは、「ちょうど、弥生時代の終わりから古墳時代の始まりにかけてのころであった。」ということが御理解いただけるでしょう。ですから、これらの焼物は、今からおよそ1,700年前(30年~50年の差は、この際、私の問題とするところではありません。)の時期だということを、私たちに証明してくれるわけです。
 ところが、実は、それだけではなかったのです。その同じ場所で、その土のそばに、なんだか平べったい石があったんです。「丸い石だったら、上から転がり落ちてくるけれども、この平べったい石は、転がり落ちてくるわけはない。これは何だろうな。」と思ったので、家へ持ち帰りました。土がついていたので、洗ってみましたら、これが「稲の穂刈りの石包丁」だったのです。会場の皆様には、これから実物を御覧いただきます。
 全国的に多い「石包丁」は、緑泥片岩という比較的柔らかい石を、こすって研いでハマグリのようにして、そのままでは稲の穂を刈るのに具合が悪いので、さらに二つ穴をあけるんです。そこに紐(ひも)を通して指をかけ、稲の穂を刈るようになっているんです。
 ところが、瀬戸内海の一部、香川県・岡山県と愛媛県の東の端あたりからだけ、サヌカイトの石包丁が出るんです。これは全国的にも非常に少ないものです。先ほどの石包丁は、実はサヌカイトなんですけれども、これは非常に固いので穴をあけることができません。それで、両側を欠いでそこへ紐をかけるようになっております。御覧いただくと、なるほどとおわかりいただけると思います。
 以上のことをまとめますと、「この土器と石包丁によって、今から1,700年前の古代から、大三島では、稲の穂を刈る稲作が行われていた。」ということになるわけです。これは間違いない。