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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成7年度 愛媛学セミナー集録~

◇「新地」の成り立ち

 ただ今、御紹介いただきました藤原でございます。
 三島宮司さん、木村先生、中学生の皆さん、どのお話も大変興味深く、とくに神社から直接恩恵を受け、旅館業を営んでおります私どもにとりましては、大変ありがたいお話だったと思います。
 新地で旅館業を営んでおります立場上、大山祇神社を取り巻く町の変遷について、私なりに発表させていただきます。
 門前町としての新地町の成り立ちにつきましては、宮浦出身の菅菊太郎先生(私から申しますと祖父のいとこにあたります。)が、昭和15年(1940年)に『新地町開発沿革』をまとめられておりますので、これにより、スライドを御覧いただきながら少し御紹介させていただきます。
 図1は宮浦新地町の形成について示したものです。上段は、正徳年間(1711~1716年)、今から約284年ほど前の図で、お宮の前で宮浦本川と明治川が合流しています。鳥居の前、この点線の部分で市が開かれておりました。下段は安永5年(1776年)のものです。宮浦本川を北(図の左側)にとって明治川を伸ばし、あたりの水田約2.5haを埋め立てて、新地町を作っております。これは当時の松山藩主、松平定靜(さだきよ)の命により、薬屋五兵衛らによって造成されたもので、藩の「お国潤い政策」の元、大変な繁盛ぶりだったようです。これは今から218年ほど前のお話になります。
 図2は、宮浦新地商店街の変遷を示したものです。上段は、明治17年(1884年)の新地町参道の復元図です。天井川のトンネルのあった場所を境に、上新地に3軒、下新地に6軒の旅籠(はたご)がありました。中段は昭和51年(1976年)のものです。昭和51年と言いますと、茶梅旅館初代梅吉から数えて8代目を、私がちょうど受け継いだ年にあたります。上段と比べていただきますと、私どもの旅館は元の場所にございますが、他の旅籠はすべてなくなっており、別の場所には新しく旅館が立ち並んでおります。そして下段が平成3年の様子で、現在の姿とほぼ同じです。
 藩政時代の新地町は、お国潤い政策などの藩の特別の保護のもとに、門前町として大変な繁盛ぶりだったようです。明治になりますと、門前町の装いを保ちながらも、生活に密着した食料品、日用品の店が多くなっています。