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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成7年度 愛媛学セミナー集録~

◇「文化周圏論」ではいけない

塚本
 「全国アホバカ分布考」という大変ユニークな番組(残念ながら、その番組は見ていないんですが)を作った関西のテレビ局の方の本が、最近評判になったものですから、それをのぞいて見たんです。これは非常に真面目な企画で、しかも一生懸命勉強されているということはわかるんですが、私はやはり、その考え方にも賛成できないと思ったんです。
 「全国アホバカ分布考」にしても、本居宣長の「田舎に古の雅ごと残れる。」という言い方にしても、結局は「文化周圏論」なんです。「文化周圏論」というのは、たとえば、「ある時期に京都で生まれた言葉は、その周りに広がっていき、京都では新しい言葉ができちゃう。昔の言葉はさらに周辺へと広がっていき、京都ではもっと新しい言葉ができてくる。このように、次々と広がっていくにつれて、京都により近いほうでは忘れられ、古い言葉は一番遠い青森とか鹿児島とかに残っている。」という考え方です。だから、これも実は、「すべての文化は、都に発する。文化は都からどんどん広がっていった。」ということになります。
 さらに、本居宣長の「田舎に古の雅ごと残れる。」が高い評価になったのは、江戸時代の人が「昔は立派なものがあった。古いものはいい。」という考え方だったからで、今の若い人たちの感覚で言うと、要するに「田舎は遅れている。田舎の良さというのは、遅れた良さなんだ。」というのと同じことになっちゃうわけです。これではやはり、私は困ると思うんです。
 では、私と同じような考え方は、昔からなかったのかというと、やはりあったと思います。江戸時代には、「都(みやこ)」とは別に「都会」という言葉もよく使われているんですが、その「都」という字の解釈に、鍵があると思うんです。
 「都」というのは、皆さん御存じのように「天子のいる所」という意味です。お上(かみ)のほうは、「天子様は優れた高い文化を持っており、それがジワジワと世に広まって、人民を教え正していく。」という考え方を持っていたんです。
 ところが、「都の人は、言葉がきれいで、美人だ。」というのは、「もともと都が優れていたからではなく、都にいろんな所の人が集まって、いいところが精選されて取り入れられた結果、質が高くなったんだ。」という主張をした人が、江戸時代にもいるんです。これは、「都会の『都』という字の意味は、『天子様のいる所』という意味ではなく、実は『すべて』という意味だから、都会とは、『人がすべて集まる所』なんだ。」という考え方に基づくものです。漢字の本家である中国の古い本にも、「都」を「すべて」という意味にとる使い方はありましたから、語源的にも正しいと思いますし、江戸なり京都なりの位置を考える上で、大変重要な考え方だと思うんです。
 江戸幕府は、「江戸は将軍家の都で、そこから文化が広がり、田舎の低い文化の連中を、将軍のお膝元が正していく。」といった考え方を、初めはとっていたようです。ところが、人々が江戸の文化を受け入れて江戸風になり、百姓たちがぜいたくになっていくのは、幕府・将軍家にとって困ったことになったんです。そんな時に、「江戸という所は、将軍家の都というよりは、諸国の人のはきだめで、いろんな人がごっちゃごちゃに集まる所である。」という言い方が出てきまして、それに当たるのが「都会」という言葉だと考えていいと思います。
 「田舎に古(いにしえ)のいい習慣がある。」という言い方は、それをカバーすることにもなったわけですが、「都会に何かいいものがあるとしたら、それは、いろんな人が集まって各地の文化がいろいろ交流し合う中で、初めて新しいものが出てきて、都会の文化が生じるんだ。」というふうに「都会」をとらえ、出発点にしたほうがいいと私は考えるんです。