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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成7年度 愛媛学セミナー集録~

◇郷土料理と庶民のくらし、地域の伝統

永井
 私とは専門分野が違いますので、塚本先生の御研究の内容についてはあまり詳しく存じませんが、先生の御著書は、いくつか持っております。その中で、『都会と田舎』という本を読んで、私は非常におもしろいなと感じたんです。「東京があれば、地方がある。」「城下町があれば、その周辺には在郷・村がある。」というふうに、相対する二つの拠点で文化論を展開されていて、それが非常にわかりやすく感じたのでございます。
 先生のお話に関連して、少し「郷土料理」についてお話させていただきます。
 「郷土料理」といっても、根源的には、在郷の庶民の日常食から生まれたものと、城下町を中心とした武士や町人などから生まれたものとがあると思います。宇和島にも、「お城下」を中心とした郷土料理はたくさん残っていますが、歴史的に見て、本当に庶民の生活の中から生まれたかどうかということに対しては、いささか疑問も感じているわけです。
 実際に村(地方)に生活をしている人たちには、町(都会)の人たちに対してあこがれのようなものがあったと考えられますから、少しぜいたくになれば、やはり町の人たちと同じような生活をまねしたいという気持ちがあったのではないでしょうか。ですから、郷土料理というのは、根源的には庶民のくらしの中から生まれたかもしれませんが、城下町(要するにその当時の都会)の文化が地方に流れていく中で、生活の向上に伴って口がおごったり、庶民の日常の食事がよりぜいたくなもの、よりおいしいものへと、次第に洗練され、変化していったと思います。
 先ほどの先生のお話では、「地方の文化は劣っているから、中央のまねをして、近づき向上するというイメージは、いけないんだ。」ということでしたが、昔も今も、そういう傾向はあるように思うのです。塚本先生、いかがなものでしょうか。

塚本
 よくわかりますし、私も、現実の姿はおっしゃられるとおりだと思います。
 さっき申し上げたことが、あるいは皆さんの中に、ちょっと誤解を生じさせたのかもしれません。私は、中国の文明を日本の住民が早くに取り入れたことは、良かったと思っております。また、同じように、都なり江戸なりの文化を各地の文化が取り入れ、その土地の文化を豊かにしていくことも、あって当然だし、これからもあるだろうと思うんです。
 「文化周圏論」のところで名前が出てきた柳田国男先生も、「都の宮中行事には、それが広がって片田舎のお祭りの中に影が残っているという一面と、常民の持っていた文化が、都の人に拾い出されて宮廷の行事になった面とがある。」といった趣旨の御指摘をされております。江戸や都の文化にしたところで、実はその底辺には、田舎の文化があったわけですから、ただ、そのこと(中央の模倣)によって、昔からその土地土地が持っていた文化や伝統が、すっかり消えてしまうのではないはずです。
 私も、食物の歴史というのはおもしろいなと思っていますから、いろんな所で、婚礼の行事のときの献立などを調べることがあるんですが、各地でかなり似たようなシステムが見られたりします。
 郷土料理のことはよく存じませんけれども、たしかに江戸時代に、プロの料理人によって日本料理の格式、何か決まった型というようなものを、あちこちに伝えられていったようです。たとえば、将軍家の偉いお使いが村にやって来るので、御接待をしなくてはならない場合は、きっと江戸風の料理を作ったと思います。どうせ偉い人は少しは残しますから、そのおこぼれを食べて田舎の人がその味を覚える。今度は村の庄屋さんか何かが、ちょっと似たものをやってみようということで、村のお百姓さんを呼んでその模倣をやったりして、都のものが田舎に広がっていくという面は、たしかにあると思います。
 しかし、そもそも都(江戸)の料理がどうして成立したかをさかのぼると、江戸という町は全国各地からいろんな人や物を集める力を持っていたので、京料理の伝統を江戸の料理職人集団が継いだのが始まりでしょう。けれども、たとえば、今の日本料理には欠かせない昆布ですが、京都(の貴族の料理)の料理集団はほとんど知らなかったでしょう。そんな新しい物も、江戸幕府が松前(まつまえ)(北海道)から集めて来て、江戸の日本料理の仕組みができてきたんじゃないでしょうか。
 しかしまた、別の一面として、交通の便の悪い土地には、江戸ではあまり知られないけれども、江戸よりもいいものがあるという例もあります。これは現在でもそうでしょう。今は、いろいろな食物を新鮮なまま飛行機で運ぶこともできるんでしょうけれども、宇和島で本当においしい生鮮食料品を、そのまま東京で食べることはちょっと難しいんじゃないでしょうか。
 また、食べ物というのは、やはり暑い所、寒い所、雨の多い所、少ない所、それぞれの雰囲気によって好みが変わりますから、宇和島という土地では、江戸とは違った味があったりして、そういうものが、やはり残るのではないかと思います。
 さらに、伊達家を通じて仙台のほうから入ってきたものだってあり得るでしょうし、ほかにも、当時の交通体系は現在と違って海路中心でしたから、九州とのつながりをとおして入ってきたものもあったのではないでしょうか。そういうことから、江戸には入らない物が宇和島に入るということも、考えられるんじゃないかと思うんです。

永井
 宇和島というのは、この愛媛県の中でも本当に郷土料理がたくさん残っている地域だと、私は思うんです。それで、塚本先生のお話を伺いながら宇和島の郷土料理を思い浮かべてみますと、なるほど、江戸(城下町の武家社会)からの料理と、九州(漁師)からの料理といったものも、今なお残っているようです。
 城下を中心に、何かごとの時によく使われる「鉢盛(はちもり)料理」というのがございます。もとはお上が何かごとに使ったもので、決して庶民がそういう料理を作っていたというわけではございません。これなどは、武家社会の料理の名残に当たると思います。
 私が本当に素晴らしい郷土料理だなと思っておりますのは、皆さんよく御存じの「さつま」です。その「さつま」とか「ひゅうが飯(鯛(たい)飯)」と言うのは、その名前が示すように、宇和海の西のほう、薩摩(さつま)(鹿児島)だとか日向(ひゅうが)(宮崎)あたりとの漁民同士の交流に由来するものだということです。先ごろ亡くなられましたが、愛媛の民俗について研究しておられました秋田忠俊先生から、「中央からくる文化よりは、このような漁民同士の交わりから伝わったものが定着して、庶民の中に芽生えたものであろう。」ということをお聞きして、「なるほどな。」と思ったことがございます。
 「さつま」は、おそらく最初は、麦御飯に魚の入ったみそ汁をぶっかけたもので、シャブシャブッと食べたのではないでしょうか。「ぶっかけ飯」とも言われ、本当に素朴な漁民の食事だったのですが、だんだん時代を経るにしたがって、現在のように非常に洗練された上品な形に変容してきたと思います。
 「文化」の伝播(でんぱ)経路は、一般には「中央→地方」「城下→田舎」という方向で考えられていると思います。しかし、これまでお話してきたように宇和島の郷土料理を見てみますと、この宇和島の城下に伝わり、取り入れられて残ってきたものは、どうも「逆の方向性をもった文化」としてとらえることができると思います。素晴らしい郷土料理が残っているということからみても、この宇和島は、本当に豊かな文化を育んだ土地ではないかなと、私は思うんです。
 今でもそうですけれども、どうしても我々は、「中央のまねをすることによって豊かになる。少し劣っているものが上等になる。」という考え方をしてしまいがちですが、そういう意識を改革していくことが、自分たちの文化を大切にするうえで必要なのではないかなと思うんです。この点について、塚本先生のお考えをお聞きしたいのですが。

塚本
 今までお話のあった地域の発展のようなテーマは、歴史研究の中では、どう取り上げるかというスタンスの違いから、「郷土史」、「地方史」、そして「地域社会史」という流れで変化してきております。
 「自分の土地にあったものは、なんでもいい物だ。我が宇和島が、なんでも日本一であって、ほかはだめなんだ。」というのが「郷土史」の考え方でした。「お国自慢の郷土史」なんて呼ばれた時期がありまして、その反省に立って次に広がっていったのが「地方史」です。「地方史」の立場というのは、「中央から地方に文化が広がっていく」という感じで、各地をとらえる傾向を持ちがちでした。地方都市の持っていた「井の中の蛙(かわず)」みたいな、小さな世界に閉じこもってきたものを開放する面では良かったのですが、これも、どうも良くないんじゃないかという反省が起こってきたんです。
 ちょうど、1960年代、昭和40年前後の高度経済成長期に、各地の古い行事やしきたりが、音を立てて崩れていったころでした。どこも東京のまねばかりして、風景も失われていくなかで、「地方史」に批判的な議論が起こり、愛媛大学の篠崎勝先生を中心にして、「地域社会史」という考え方が提唱されました。「地域の住民の側から、各地域地域の小さい集団の積み上げとして、地域社会を考えていこう。」という主張は、たいへん印象的だったんです。
 「地域社会史」の議論の中には、今から見ると、そのまま賛成できないものもありますが、「中央に対する地方」ではなくて、「各地域集団の歴史を積み上げていく」という考え方は全く正しいと思いますし、「日常生活に目を開いて、歴史を見ていこう。」という考え方も、基本的にその立場を取るようにしたと思うんです。
 ただその際に、今おっしゃったことと関連して申しますと、「気持ちを入れ換えて、なんでも東京をまねするのはやめましょう。」というだけですと、まるで何か、「ぜいたくは敵だ。質素倹約がよろしい。都会をまねするのはぜいたくでいけない。」と、皆さんに禁欲を進めるだけのものになって、むしろ「郷土史」的なものになってしまいます。
 やはり、そうではないんだと思いますね。「東京にいい物があったら、それを取り入れたい。」とお考えになる方が多いのを、抑える必要はないと思います。「ただ、なんでも東京だけじゃない。」という気持ちを持つのがいいんじゃないでしょうか。

永井
 そうしますと、大切なのは「交流する」ということでしょうか。先生もおっしゃいましたように、どっちが上とか、どっちが下とかいうのではなくて、各地の文化が、お互いに同等の価値で交流し合うということでございましょうか。

塚本
 そうでしょうね。それから、「浮気する」ことも必要でしょうね。1か所だけからではなく、あちこちからいい物を取り入れることが大事だと思います。たとえば、江戸時代の宇和島ですと、たとえば都からの文化のほかに、長崎からの文化というのも大きかったでしょうし、いろいろな所から取り入れております。
 現在は、交通手段は東京中心で動いていますが、通信手段に関しては、極端に言うと、外国にまで無限に広がっていると言ってもよろしいでしょう。それから、姉妹都市などの形で、全国で、いろんな遠い所と深い交流を持ったりする例があります。そういう機会を生かしていくことが、一つの生き方かなと私は思います。
 それから、「郷土史」と「地方史」の両方の失敗をくぐり抜けた、今の「地域史」というものの考え方は、やはり「違った地域との比較の目を持ちたい。」というところにきているように思うんです。おそらく、今の日常生活の食べ物などの欲望などにしましても、やや似たことが言えるのではないかと思います。東京だけではなく、他のいろんな土地からも、いいものを学び取ろうとする。こんなふうなことが、食物についても、他の文化についても、もっと考えられてもいいのではないかというのが、今、さしあたり思いつくことです。

永井
 私の大学では、学生の70%から80%が愛媛出身なんですけれども、若い学生を見ておりますと、本当に、地域のことをほとんど知らないですねえ。何を聞いても、知らないんです。
 地域に根ざした文化に目を向け、見直すことによって、愛着を持つということは、やはり大切なことではないだろうかと、最近とみに思うようになりました。そういう意味で、「愛媛学」なんていうのは、本当にいいなと思いまして、我々もこの地域に根ざした大学として、地域に根ざした文化を取り上げる「愛媛学」のような講義を、来年あたりからぼつぼつ、カリキュラムの中にも置きたいなと、考えているわけです。
 やはりそういう意味で、本当にただ一村一品運動とか、ただお題目を唱えるだけではなくて、やはり現在の地域に根ざした文化を、若い人たちにどのように伝えていくかということは、その地域に住む大人の責任ではないかなというふうに、思うわけです。
 これほどの情報化社会になりますと、地域全体が画一化現象をおこして、地域の独自性がなくなってくると思いますし、郷土料理一つにしても、何か特別な所に行かないと、その地域の郷土料理に巡り合えないのが現実の姿です。
 だから、その地域の伝統的な独自性を保ちつつ、いろんな地域の文化やいい所も取り入れていくという、非常に相矛盾したせめぎあいみたいなところ、そのどこかに接点を見出して、その地域地域を大切にしていくという心構えを、若い人たちに伝えていく義務があるんじゃないかなと、教育に携わっている者としては感じておりますが。

塚本
 そうですね。食べ物にたとえるとすれば、私は、たとえばカレーライスにラッキョウとか福神漬が乗っているのは、素晴らしい文化だと思うんです。カレーライスそのものが、インドでもイギリスでもなく、日本の物になっちゃっているんですが、まして福神漬やラッキョウをつけるなんていうのは、あれはほかではありようがないです。そんなふうな知恵というのが、やはり本当の文化だと、私は思うんですね。

永井
 なるほど、ちょっとありようがないですね。
 そういう点では、宇和島も、日本も、そういう受け身で文化を受け止め、自分なりに消化をして、独自の自分たちの文化を作り出すということが、非常に得手のような気がしますが、塚本先生、いかがなものでしょうか。

塚本
 私は、もう退職しているんですけれども、1週間に1時間だけ、大学生相手のおしゃべりをすることがあります。また、市民講座などで、やや年配の方々とお付き合いすることもこざいます。そして、つくづく思いますのは、今の学生さんは、本当に頭でっかちになっているということなんです。先ほど永井先生が、「学生が、地域のことを知らない。」とおっしゃったのは、やはり頭でっかちだからなんじゃないかという気がします。私も教師を長年やってきましたから、そういうゆがみを作った責任が、私どもの世代にもあるかも知れません。
 年配の方々の中には、端的に申し上げて、今の学生諸君より学歴が低い方も大勢いらっしゃるんですが、社会的経験が豊富で、そのうえで何かものをお考えになっておられるので、本当の学力は、むしろ学生さんよりも高いんです。私どもの若いころも、いい加減なものだったのですけれども、特にこのごろの学生諸君は、社会的経験が大変に乏しいと思うんです。
 若い方が、年配の方々の社会的経験から多くを学んでいくことと、地域に目を向けるということは、一つなぎのことのような気がいたします。

永井
 そうですね。やはりいろんな問題がありますが、本日の塚本先生のお話をお伺いして、何かしら「宇和島ことはじめ」の手がかりとして受け止めたいと思います。塚本先生、ありがとうございました。
 この対談は、これで終わりたいと思います。どうも失礼いたしました。