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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成7年度 愛媛学セミナー集録~

◇愛媛のアイデンティティー

 大阪のアイデンティティー(歴史的連続性)に「自由・創造・活力」があります。それは大阪の、いわばキーワードみたいなものです。旧習や旧慣にこだわらなくて、自由にやっていくということです。その根底には、やはりバイタリティーが潜んでいる。創造性や活力があるというのが、大阪のキーワードなんですね。
 それで私は、今日、愛媛のキーワードは何かなと考えながら来たわけです。なかなか名案が浮かばなかったんですけれども、それはやはり「海洋文化」つまり「瀬戸内文化」としての特質があるのだと思うんですね。松山空港に着く前に、飛行機が高度を下げてずっと目に入ってくる瀬戸内の島々、あの多島海の持っている美しさというのは、地中海とも比べられるものではないでしょうか。私もニースとかカンヌ・マルセイユ・サンレモとかを見ましたけれども、あの瀬戸内の多島海の美しさというのは、やはり世界でも珍しいのではないかと思うんですね。
 それからキーワードのもう一つは、やはり愛媛が持っている生活文化の多様性だと思います。東予、中予、南予のそれぞれが持っている多様性というのは、ある意味で日本の縮図的な面もあるように思います。
 東予は非常に大阪的である。やはり経済的なセンスが抜群です。私の吹田市の家の近所に、東予出身の方がおられます。やはり、私などと違ったバイタリティーがある。新しい事業をやっていこうとする。そして昭和45年(1970年)の大阪万国博覧会の時にホテル建設を思い付かれました。その当時に建てられたホテルの9割方は失敗しているんです。見込んだほどは、万博の見物客がホテルに入らなかったんです。ところがその東予の方のホテルは、非常にはやった。値段が比較的安いんです。別にこれはそのホテルのPRをするのではないんですけれども、やはり企業家的なセンスというのが、東予の方にはあるということです。
 それから南予の宇和島藩は、「薩長土肥」、つまり薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)、土佐(高知県)、肥前(佐賀県)のことですが、それらと並ぶ西南雄藩の一つです。だから、いわゆる勤皇(きんのう)の志士が多くやって来た。そして二宮敬作がシーボルトの弟子になって、新しい医学を身に付ける。息子を適塾に送るとかですね、そういう非常にものすごく開明的な土地柄です。また明治維新の時に、宇和島藩主の伊達宗城が、維新政府の大蔵卿になっていましたけれども、伊達家が大活躍されるわけです。そういうところを見ましても、南予はまた東予とも中予とも違うんです。
 それで中予は何かと言うと、道後温泉があったり過ごしやすい地域ですね。夏目漱石もやってきて正岡子規とも交流していますね。あの漱石が宇和島に行ったら、小説「坊っちゃん」は書かれなかったかもしれないですね。松山は先ほど申しましたように私の生まれ故郷なんですが、この松山みたいな非常につかみどころのない所、つかみどころがないというのは、自分がそれほどよくわかっていない、つまり「よもだ」(いい意味で)なところがあるということなんですね。あの小説は。ひとつのユーモアではありますが、やはり松山の悪口をいっているのだと思うんです。松山は皮肉られているわけで、本当は松山の人は喜べないと思いますけれども、別に気をわるくもしない。そこに松山人の持っている独特の気質があるのじゃないかなというような気がしてならないわけです。
 そういう愛媛県を3大ブロックに分けてみますと、適塾は南予型であります。そして懐徳堂というのは、中予型であるとは言えないにしても、やはり何か、町衆たちが勉強をするという、そういう学塾を作ったところに、中予の文化性とある種の共通性があるかもわからないと思うんです。
 愛媛県のキーワードは海洋性と多様性。そしてもうーついろいろ考えてみましたが、生活文化の豊かさだと思うのです。つまり愛媛の人は生活派ではないかということです。
 私には姉と妹が一人ずついますが、私が松山に帰って3人になりますと、姉と妹はよく俳句の話をしているわけです。それで俳句の会合へ行って、一句ひねって楽しんでいるんです。私も家内も一句ひねったりしませんし、大阪では俳句をやっていたりという生活の余裕というか、ゆとりというか、間がない。間抜けな生活を送っているわけですが、松山では生活を楽しむ余裕がある。
 それで、先ほど言った住友商事のシンポジウムですね。木村さんらのシンポジウムで、四国遍路のことが出てきます。四国であるから。八十八か所回れる。あれが北海道だったら、ちょっと八十八か所はできないだろうということを言われていますけれども、そういうお遍路さんがフィットするような文化風土が、愛媛や四国全体にあった。これも生活のゆとりじゃないかなという気がします。
 私は今、松山に帰ってお遍路さんに出会うことはあまりございません。子供のころ、春日町という町に住んでおりましたが、しょっちゅうお遍路さんがやって来まして、そして母が、「これを上げてきなさい」と言って、何かお遍路さんに上げるわけです。あれは母が上げたらいいんですけれども、私に渡させるというところに、やはりお遍路さんと私とのかかわり合いを、母が持たせたんじゃないかなという気がします。お遍路さんとの付き合いが、非常に度々ありました。
 そういう中に、私はやはり四国の持っている生活文化の豊かさと、愛媛の持っている、大きなスケールの生活文化というものがあるんだろうと思うのです。お遍路さんが八十八か所を巡るような中に、私は松山や愛媛県の持っている、あるいは四国の持っている精神的な豊かさと言いますか、いわゆる精神文化というものが、深く根をおろしているところがあるような気がするわけです。
 それで今、この愛媛学とか、あるいは大阪学とか、江戸学とか、そういう地域学というものが見直されていますけれども、やはりそれは、いま戦後50年を迎えて、今や経済発展がどうも足踏み状態であるから、もう1回原点に戻って、日本経済とか、生活文化とか、そういうものを考え直さなくてはならない、ということにいやおうなしに迫られているからだと思うのです。歴史の中から、もう1回自分の姿というものを見直そうということではないかなという気がするわけです。
 そういうわけで、この愛媛学の提唱というのは、もう1回。愛媛の歴史像と言いますか、人間像と言いますか、生活像というものを見直し、そして明日を生きる糧をつかみ取りたいというようなところにあるんじゃないかなという気がします。