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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇生活の道と流通の道

正岡
 将来の21世紀の道というのは、二つに分かれていく、つまり機能的な移動空間としての道と、人間の日常生活に密着した空間としての道というふうに分離をしていくということでしょうか。
 先程の佐藤先生のお話は、「道は、人間に密着をした、そして非常に人間中心の優しく美しい空間でなければならない。そしてそれが魅力のある地域づくり、小松町づくりに貢献をしていくのだ。」というふうなお話であったと思います。
 この移動空間としての道というのは、先生の御専門ですが、建設省の考えも、以前はずいぶん機能中心で、場合によればコンクリートの固まりがドンとその地域に現れるということでした。しかし、先生が初めて「道路は作品である。」と主張されたのですが、これは確かにヨーロッパへ行くと痛切に思うわけです。佐藤先生の、「道路は空間であると同時に、これは大きな作品だ。」ということに、私は目からうろこが落ちる思いをしたのですが、そのへんのお話を、お願いしたらと思います。

佐藤
 戦後、日本の道路整備が始まりましたのは、1954年(昭和29年)です。戦後の約10年間は、復興、食糧増産ということで、まだ道づくりまでは、手がいかなかったのですけれども、1954年から、第1次道路整備計画が始まって、道づくりや道路整備に取り組んできたのです。
 昭和30年代から昭和40年代までは、資金的な制約もあったので、道路を延ばし早く舗装をして1kmでも長く造ろうということに重点が置かれていました。そのため歩道を造ろうとか並木を植えようとか、あるいは山を削った時の法面を少しきれいにしようとか、そういう配慮が行き届かなかった面があるのです。
 それが、いろいろな公害問題、自動車の騒音問題、排気ガス、沿道住民からのいろいろな苦情もあり、1975年ころから、道づくりについて、景観や道の美しさも考えるようになってきました。歩く人のための歩道の整備や橋を架ける時も、今まではただ機能本位でコンクリートの桁を並べて早く造るということに重点がおかれたのですけれども、少しゆとりが出て来て横から見ても、河原を歩いて下から見ても、ああ美しいなというような橋を架けようということに、ようやくなってきたということです。

正岡
 今、ゆとりというようなことを先生がおっしゃいましたが、日本の国は、非常に豊かになったと思います。これは皆さんも、私的な生活で自分のうちにある耐久消費財の数々や、子供のころの生活水準と今の生活水準を比較してみられると、ずいぶん豊かになったと思われるでしょう。また一方では、一向に精神的なゆとりはなくて、本当に豊かなのだろうかとも思うわけです。ヨーロッパなどへ旅行された方は、社会的な生活水準が、欧米は豊かになっていると感じます。これは何かと言いますと、人の歩く美しい道や移動空間も立派に整備されていたり、河川にしても上水道や下水道にしても整備されています。こういった社会的な生活水準が立派に出来上がっている国では、私的な生活水準が少しビハインド(遅れていること)を背負っていても、人々はゆとりと潤いを持って生活していくことができるわけです。まさにそういうことが、これからハードである道路そのものにも求められるということです。
 さて、佐藤先生のお話にもありましたが、四国はいよいよ3本の橋が架かり、本州と結ばれるわけです。この小松がジャンクション(接続点)になります今治-尾道ルートといいますのは、この3本で1番西にあり、完成するのが最後になるわけです。明石-鳴門ルートより1年遅れで、四国は3本の橋で結ばれ、しかも中国側の広島、岡山にも山陽自動車道ができて、昔の中国縦貫道と違って、向こう岸へ渡ればすぐ高速というふうな時代に入るのが、もうそこまできています。今も既に、瀬戸大橋がそうなっているわけです。そうなると、瀬戸内海を中心にして、はしご状の環状型の交通ルートが出来上がり、観光に、物流に、今までの四国とはずいぶんイメージが変わっていく時代に入っていくわけです。こういう時代を迎えて、外から冷静に見ておられる佐藤先生に、こういう点は、少し気をつけたほうがいいというような、御助言や御提案をいただければ幸いです。

佐藤
 この問題につきまして、私からも補足させていただきたいと思います。
 本州-四国間の三つの橋が完成しますと、四国は今まで島だったのですけれども、半島状態になるわけです。言葉はちょっと上品ではないのですけれども、一種のふん詰まり状態が起きる危険性があるのです。ですから、そういうことを起こさないために、四国の中を周遊する横に寝かせた8の字の高速道路のネットワークを、早く完成させるようにしなくてはいけないと思います。
 先程御紹介がありましたように、高速道路は、着々と建設が進んでいまして、この愛媛県の中ですと、来年の2月には伊予まで開通するということです。伊予から先、大洲までは今工事中ですが、これもあと3年か4年ぐらいかかるそうですが、まあ徐々に進んでおります。ですからこのルートを、ずっと高知県のほうまで届けさせて、できるだけふん詰まりを起こさないようにしなくてはいけないのです。もちろん国道の整備も、この高速道路と並行して進めていかなくてはならないわけです。
 それからもう一つ。実現は21世紀の中くらいになると思いますけれども、近畿圏の和歌山県と四国の中をずっと横断しまして、佐田岬から九州の大分県につながる、いわゆる第二国土軸と呼ばれるものが提唱されています。こういう形で近畿圏と九州とが四国を通してつながってきますと、今度は半島から横の列島に仲間入りできるわけです。
 気の長い話ですけれども、21世紀の中くらいには、そういう可能性もあるということを、御紹介しました。

正岡
 第二国土軸、私たちはそれを太平洋新国土軸ということでいろいろな運動をしています。私がそのお話をしなければいけないと思っていたのですが、佐藤先生からそのお話を紹介していただきました。なんとか、私たちが生きている間に、佐田岬から九州へつながってもらいたいなというのが、四国の、特に愛媛の私たちにとっては、本当に願望ともいえるものです。これは、坂村真民(しんみん)さんの、「念ずれば花開く」ではありませんけれども、頑張っていれば必ず実現できると信じておりまして、着々と四国の道が大きく変ぼうを遂げているわけです。
 道について様々なことを、先生と話してきましたが、先程、佐藤先生からお話のあった、「四国の道」という立札を、やっと私たちもあちこちで見るようになりました。先生は、もう早々と東海道をお歩きになったそうですけれども、全国各地にそういうものができて、移動のための道を早く通過することによって、どこかにパーキングをして、そこからにぎり飯でも持って歩いていける時代、ドイツでそれが当たり前になっているような、そういうところが四国にも1日も早くできて欲しいなと願わずにはいられません。先生は、道のほかにも、日本百名山をお歩きになられたり、外国も数多く回られておられます。そこで、その御体験の中から、「歩いてみようという気はあるのですが、思いつきが悪くて、やっても三日坊主に終わってしまう。」ということが多い我々に、歩くことを継続し、力を付け宝にするためには、どういうことに気を付ければいいか、お教え願えたらと思います。

佐藤
 それではせっかくの機会ですから、私の経験を踏まえて、皆様に幾つかアドバイスをさせていただきたいと思います。
 まず、毎日歩くには、靴が非常に大切です。今はいろいろないい靴が出ておりますけれども、底の厚い、ウォーキングシューズというのがあります。値段も1万円くらいするのですが、思い切って投資だと思って、いい靴を買って歩きますと、底の薄い安い靴とは全然違った歩きやすさがあります。
 それと、もう一つ、服装とか靴とかも大事なのですけれども、早起きは三文の得と言いまして、やはり朝歩くことです。目覚し時計をかけておいて、午前6時くらいに起きて、朝食前に1時間歩くのです。1時間歩きますと、だいたい7,000歩くらいですから、あと昼間ちょっと買い物に行く時などに、なるべく車を使わないで、1時間半歩くようにすれば、1日1万歩というのは、割合簡単に達成できます。
 それと私もここに万歩計を着けておりますけれども、こういう万歩計をつけると、自分の歩いた歩数が分かります。そしてできれば、毎日寝る時に、私はパソコンに入れているのですけれども、今日は何歩歩いたかを記録しておき、歩き足りない時には、今度は週末などに、もう少し長いハイキングをするというふうに心掛けるといいのです。いきなり1万歩が無理でしたら、5,000歩からでもけっこうですので、ぜひ目標を設定して歩いてみて下さい。そうすれば歩く励みが出てくると思います。

正岡
 私も日本人の習性として、子供のころにすごろくをして、一つずつクリアをしていくことを身につけました。四国遍路にしてもそうです。そういうふうに巡っていくというのは、私も下手なゴルフをしますけれども、ゴルフもやはり18ホール回っていきます。いろんな変化を求めながら、それをこなしていくというのは、やはりなんとなく私たちの、生活習慣に合ったものかなと思っています。
 今日のお話を契機に、皆さんも、ぜひ歩くという、道の原点をお考えいただいて、実践をされてみてはいかがでしょうか。
 最後になりますけれども、先生は、海外の道もお歩きになっておられますので、海外を回られて一番印象に残っている道を一つ御披露いただければと思います。

佐藤
 そうですね。世界にはいろいろな歴史の道が残っています。たとえばローマに行きますと、ローマの市内からわずか20kmぐらいの所に、2,000年前のローマの道が、今日も残っており、この目で見ることができます。
 私が見た、そういう歴史的な道で、一番印象に残っているのは、今内戦が続いていますアフガニスタンと東側のパキスタンとの国境にあるカイバル峠です。ここは、アレクサンダー大王が、紀元前に越えたというような峠道なのです。その道が二千数百年たって、今日少し広げて国道になっているのですけれど、残っております。世界各地には、そういう2,000年前やそれ以上前の道が残っているわけです。日本にも、鎌倉時代の道もありますし、江戸時代の道もあります。
 今朝、見せていただいたのですが、小松の町にもそういう江戸時代の道が、現に、金毘羅道などという名称で残っているわけですから、我々も、そういう歴史の道を大切に保存して、次の世代に残していくことを、もう少し、ヨーロッパから学ぶべきではないかと思っております。

正岡
 ありがとうございました。小松の道が、四国の道になり、そして日本の道になり、またアジア、世界の道につながっていくという、非常に希望のあるお話だったと思います。
 博識の先生とお話を続けますと、切りがないわけですけれども、時間の制約もあります。このあと、ワークショップの中では、小松に住んでいらっしゃる皆さんから、小松の道に関する夢、過去、現在、未来について、お話をいただくということですので、期待をしまして、対談講演を終わりたいと思います。