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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇はじめに

 「風早の風土と文化」というテーマですが、現在、風早という言葉を使うのは、我々の年代ぐらいまでで、若い人にはちょっとピンと来ないという点があろうかと思います。と言うのは、風早という名前が、地名なり、表示なりに残っている場所が、現在、立岩(たていわ)地区にある風早橋という橋1か所だけしかないのです。そのぐらい、風早という名前は北条市から消え失せようとしているのです。
 風早という名前は、4世紀の初めころに、物部阿佐利(あさり)という人物が風早の国造に任命されたということで出てきます。以後、「伊予の国風早郡云々」と、奈良の平城宮跡から発掘された木簡(もっかん)(当館にも写真を展示してあります)に風早郡という文字が出ています。
 風早という郡名は、それからずっと続き、1897年(明治30年)4月にその風早という郡名がなくなって、温泉郡ということになりました。そしてさらに、北条の町制がしかれ、以後は北条町、北条市ということになりました。