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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇風早に生き続けてきた「むかし話」

 では、具体的な「むかし話」を紹介させていただきながらお話をしたいと思います。
 「風早のむかし話」のうち、浅海(あさなみ)地域については、全部の地域、小さい集落に至るまで、それぞれ古老の皆さんや多くの方々に話をお聞きして一応まとめました。現在は、難波(なんば)、立岩、正岡、河野などで、お話を聞きながら収集を続けていますので、またいろいろと教えていただきたいと思っています。
 「むかし話」と地域やそこでくらす人々との結びつきの中で、俗信とか、あるいは信仰・風習・占い、こういうものの結びつきが、大変強いわけです。俗信というのは、早い話、迷信です。たとえば、「犬神にとりつかれた」というような話をよく聞きます。これは西日本一帯に伝わる一つの迷信ですが、そういう迷信とのつながり、あるいは信仰・風習・占い等も、地域や人々のくらしと大変結びつきが深いものです。
 浅海地域の一番向こうで、越智郡菊間(きくま)町との境の海岸に、非常に切り立った仙波(せんば)が嶽(たけ)という岩山があります。そこから、ちょっと南に来ると小さい川が流れていますが、この川を仙波川といいます。その川を百メートルほど上の方へ行きますと、今はもうダイナマイトで崩して、一部分しか残っておりませんが、昔は田んぼの中に大きな岩があったのです。その岩肌に、小さい穴が幾つもあいていたそうです。私もそこへ行ってみましたら、穴が二つほど見つかりました。小竹に住んでおられる高橋栄一郎さんからお聞きした話ですが、その岩は「いちいちの大岩」と呼ばれており、子供たちは学校から帰ったら、いつもそこへ集まって、遊んでいたそうです。「いちいち」というのは、その岩の付近の地名ですが、その大岩へ行って、いつもどんなにしていたか聞いてみますと、子供たちは、「イチイチクララ、穴ほりねずみ、猫見てひっこんだ。」というような小唄を歌いながら、小石でカツンカツン大岩を叩きながら遊んでいたそうです。その当時のことを考えますと、こういうことによって、小さい子供当時の、ふるさとに対する意識が、心に刻みつけられていったのではないかと思うのです。
 話が一転しますが、立岩地域の入口の所に、嫁が石橋という橋があります。その橋のたもとに、「嫁が石」と呼ばれる大きな岩がありますが、あの岩には嫁と姑の大変厳しい対立の話があります。それは、立岩の民話・郷土伝説によりますと、次のような話です。
 権現山のふもとの尾儀原(おぎはら)の里に、母親と孝行息子の二人が住んでいました。ある日のこと、この家に美しい娘が訪ねてきて、「一夜の宿を借りたい。」と言うので、親切な親子は快く泊めてあげました。このことから、若者と娘は結婚しました。嫁になったこの娘は、気だてが良くて働き者のうえ、夫婦仲はとても良かったのです。そのため、母親はねたむようになり、二人の仲をさこうと思うようになりました。そして、息子のいない間に嫁を家から追い出すことにしました。泣く泣く家を出た嫁は、村はずれの大岩の所まで来て、家に帰ろうか迷っていましたが、息子の母親は、この大岩の上で、嫁を追いたてたのです。すると、嫁の姿が消え、母親の履(は)いていた草履(ぞうり)が岩にくっついて離れなくなってしまいました。そこへやって来た息子が、さっそく権現様にお祈りをしたので、草履は岩から離れました。それで、この大岩を誰いうことなく、「嫁返し」「嫁が石」と呼ぶようになりました。
 また、こんな話もあります。大昔、高縄(たかなわ)山の峰に住んでいた嫁が、夫の母親の言いつけで大石を頭に乗せて山を降りて来ました。しかし、川のそばまで来てもう歩けなくなり、そこへ大石を置きました。その石が、今も『嫁が石』と言って残っているのです。この話を、立岩の公民館でしますと、当時の二宮士郎公民館長さん、昨年亡くなられましたが、この方がその話をしたあと、早速私のところに来られて、「私たちが子供のころは、これといった遊びもなくて、学校から帰ったら、あの嫁が石の所へ行って、友達と一緒になってあの大石を小石で叩いていました。ゴツゴツ叩くたびに、大石に傷がつきまして、それが非常に大きくなって穴が2つあいております。嫁が石を見るたびに、昔を思い出して懐かしく思います。」というお話をしてくれました。先ほどの「いちいちの大岩」と同じように、自分たちが育ったその地域、そして特に遊び場として遊んだところは、非常に心に残るわけです。
 立岩校区の小学校の門前を右に上がって行きますと、曲がり角の所にお堂があります。昔は、この付近を花垣の里と言っていました。そこには、お地蔵さんを2つ、胸当てをしてきれいにお祀りしていますが、その真中に、にぎり弁当のような形をした石があります。この石にも胸当てがされ、丁寧にお供えもされて、ちゃんとお祀りされてあります。このお地蔵さんを「しゅんだか地蔵」と言っているのです。立岩小学校で、かつて校長をされておられた重見義弌先生が、先ほどお話をされた竹田覚先生に話されたものを、竹田先生から又聞きした話ですが、このお地蔵さんにまつわる話を御紹介したいと思います。
 子供たちが、学校から帰ると、友達どうし誘い合って「しゅんだか地蔵」のある広場へ行って遊んでいたそうです。そして、男の子は、ちょっと休みますと、「しゅんだか地蔵」のところへ行っては、「ようしゅんだかや、まだしゅまんかや。もう、ようにしゅんだかや、どうかや。」と言いながら、小便をしていたらしいですね。
 ある日のこと、子供たちはいつものように「しゅんだかや、まだしゅまんかや、……。」と言いながら、小便をかけていました。すると、そこへ畑に行くお年寄りが通りかかりました。そして、子供の様子を見るなり、「こら、お前たちは何をしよるんや。お地蔵さんに小便をかけたりしていると、はれるぞ。そんな子は、もうここでは遊ぶな。」と言って、ひどく怒られたのです。それからは、子供たちは一人も遊びに来なくなりました。そのころから、お地蔵さんのある花垣の里一帯に疫病がはやり、多くの人が働けなくなりました。困り果てた里の人たちは、お地蔵さんにお祈りをすることにしたのです。すると、お地蔵さんは「私は子供たちの声が聞きたい。今まで通り、大ぜいの子供たちが来て遊んでほしい。」と話されました。そこで、さっそく子供たちに呼びかけて、また遊ぶようになりました。そのうちに、疫病もおさまり、花垣の里に平和な日々が続くようになりました。このようなことから、誰いうとなくこのお地蔵さんを「しゅんだか地蔵」と呼ぶようになったそうです。
 これも、子供たちの、住み慣れた遊び場にまつわる話の一つですが、やはり子供の心にふるさと意識を植えつけるようなむかし話ですね。
 浅海の、先ほど話した仙波が嶽は、現在網を張っておりますが、あの網のところへ行きますと、その網にちょうど手が入るぐらいの穴が開いていて、その中にちゃんと瓦で作った龍神さんをお祀りしています。この間、どなたかにその話をしますと、「先生、あそこへ行って、いくら探しても、網は破れてなかったで。」と言っていましたが、確かに網が破れて、手が入るぐらいになっているのです。
 浅海海岸の南方にある京ケ森のそばの山の上にも龍神さんが祀られています。浅海の人々は、集落をはさんで両側に龍神さんをお祀りして、4月の第2土曜日には、漁をする人たちが、必ず鹿島から神主さんをお呼びして拝んでもらっており、今も続いています。お米とイリコと豆腐をお供えするのがならわしだそうです。特に豆腐はシケ知らずと言って、いいんだそうです。これは、大石初義さんという方からお聞きした話です。このような話は、北条の鹿島にもありますが、今回は、略させていただきます。ここ北条市は、海とは切っても切れない、そういう関係のところですので、くらしの中に、海と深い関係のあるむかし話が数多く残っているわけです。
 また一方では、この風早の地で自分の土地を耕しながら農業を続けてきた多くの人たちがいますが、この人たちと結びつきの強い年中行事の一つとして「雨乞い」があり、以前はよく行われていたそうです。鹿島の頂上でも太鼓を叩(たた)いて、雨乞いをしていたらしく、坂井正一先生が、「私は鹿島の上でしていたのは、知らないが、その太鼓は聞いたことある。」ということを教えてくださいました。浅海地域では、だいたい5か所で行っていたそうです。萩原と、あの一番高い、名石(めいし)山の頂上でもしていたらしいですね。味栗(みくり)の方まで聞こえていたそうです。そのほか、新畑(しんはた)海岸でもしていたそうです。当時は、雨乞いのときには、東宇和郡野村町の大野ヶ原にある龍王神社まで水をもらいに行っていたそうです。自転車のないころの話ですが、二人一組になってわらじがけで歩いて大野ヶ原まで行き、水を持って帰って来るまでは、こちらで拝んでいたということです。
 もう一つ、九川(くがわ)地域に伝わる「ばかの孫八」のお話を御紹介します。これは、孫八という鉄砲撃ちの名人の話です。
 昔、九川に孫八さんという鉄砲撃ちの名人がいました。この話を松山藩の殿様が知り、一度試してみようと考えて高縄山にやってきました。そして、「お前の腕前を見たい。お供をせよ。」と言って、さっそく狩場へ行き、飛び立った山鳥を見て、「あの山鳥を撃ち落とせ。」と言いました。孫八は、ねらい定めて山鳥を次々と撃ち落としましたが、落ちた鳥のどこにも傷がありませんでした。そこで、孫八に聞くと、「口をあけてみてください。口をあけて鳴いた時に撃ちました。」と言うので、口をあけてみると、舌がありませんでした。これを見て、殿様は大変ほめられ、それからは、孫八をいつも狩場のお供に加えていました。
 ある日のこと、お供をして狩場に行くと、殿様はさっそく狩りを始めました。銃に火薬をつめましたが、玉が飛ばないので、鉄砲をのぞこうとしました。すると、孫八が「ばか」と言って、殿様をたたきました。その時、玉が飛び出しましたが、殿様は大丈夫でした。このことから、誰いうことなく「ばかの孫八」と呼ぶようになりました。
 また、孫八さんには次のような話もあります。
 ある日のこと、孫八は山へ狩りに出かけました。狩場に着くと、突然天狗が出てきて、「お前は、コロリンタンか、タンコロリンか。」と尋ねました。コロリンと逃げてからターンと撃つのをコロリンタン、タンと撃つと、コロリンところげて撃ち取るのをタンコロリンというのだそうですが、そこで、孫八は大声で「わしは、タンコロリンじゃ。」と答えるが早いか、天狗めがけて撃ちました。その時、天狗はパッと消えました。それから何か月かたった冬のある日のことです。雪が降り、一面に白い野原を孫八が歩いていると、片足だけで歩いた天狗の足あとを見つけたのです。それから後、「片足になった天狗」という伝説が今も伝えられるようになりました。
 この孫八さんは、実在の人物で、高縄神社の境内に、ちゃんと、「文化九寅三月施主九之川村孫八」と記した手水鉢(ちょうずばち)があります。この話なども、やはり、地域にあって、その土地の人たちと力を合わせながらくらしている孫八さんの姿に、地域との大変強い結びつきが感じられるわけです。
 こういうむかし話は、話している私自身が楽しいのですから、恐らくお聞きになっている皆さん方も楽しいのではないかと思います。いずれにしましても、こういうむかし話は、子供たちの心を育み、生活に潤いが生まれる源泉であり、ふるさとの宝でもあると思うのです。現在は生活様式も大きく変わり、家族の人数も減り、しかも古老のいる家庭が少なくなってきている現状では、家庭や地域から次第に消えていくのではないかと心配をしています。そこで、最初にもお話しましたが、それらを消さないためにも、今後も積極的に古老の皆さん方にお話を聞き、書き残していくことが必要ではないかと思います。「昔は、こうだったがな。」という気安いお話を、いろいろと教えていただきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。