データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇一茶と風早

 風早の俳句というのは、今からだいたい200年ぐらい前、非常に盛んであったようです。その証拠は、高縄山のお寺(高縄寺)にかかっている俳額です。北条の俳額は、ここにいらっしゃる竹田覚先生たちが、非常に御苦心されて、全部調べられています。私もそれを見せていただいて、勉強をしている途中です。その高縄寺の俳額は、1767年(明和4年)と言いますので、今から230年ほど前のものですが、これは愛媛県で4番目に古い額だそうです。そこに載っている名前などを見ても、私は全部はわかりませんが、有名な人が載っているようで、それを見ても、非常に盛んだったようです。それから、話はちょっとさかのぼりますが、今から300年ほど前、すでにこの風早には、中央から有名な俳人が来ていたようです。
 風早を訪れた中央の俳人では、なんと言っても忘れてはならないのが、小林一茶(いっさ)だと思います。一茶の来遊から、今年で201年になります。昨年は、来遊200年記念ということで、法要をしました。また、それを記念して、「風早の一茶の会」という会を竹田先生を会長として作りました。この一茶の来遊を機に、北条では、ますます俳句が盛んになったようです。
 一茶のことは、皆さん、よく御存じなので、詳しいことは省かせていただきますが、ちょうど松山に、中央でも有名な栗田樗堂(ちょどう)という俳人がおり、その人を訪ねたり、山越の十六日桜を見たりするためにこの地を訪れたのです。そして、その途中、この北条へ立ち寄ったわけです。
 一茶の師匠に竹阿(ちくあ)という人がいましたが、一茶はこの竹阿を心の師と仰ぎ、その弟子であった茶来(さらい)が、上難波の西明寺(現在は最明寺)の住職だと聞いていたので、その茶来に会いたくて、この北条に立ち寄ったわけです。今の一茶の道を通って、西明寺へ訪ねて行ったのです。
 ところが、一茶が訪れたときには、茶来はすでに亡くなっていました。そこで、お寺に一夜の宿を請いますが、すげなく断られ、途方に暮れてしまいます。その断られた理由はいろいろあるのですが、ちょうどお寺が焼けて、まだ再建できていなかったので、泊めようにも泊められなかったようです。そこで、一茶は、とにかく困ったわけです。有名な「朧(おぼろ)々ふめば水也まよひ道」という句を残すほど、困っておったわけです。
 ところがちょうど近くに、高橋五井(ごせい)という庄屋の家があり、そこを紹介してもらい、その夜は、そこに泊めてもらいます。紀行文には「百歩ほどにて五井を訪ねあて、やすやすと泊まりて、月朧よき門探り当たるぞ」と、こういうふうに出ています。今でも五井の家が残っていますが、実際には、「百歩ほど」というわけにはいきませんでしたが、いずれにせよ、こうして五井の家へ泊めてもらい、非常にうれしかった様子がこの句に出ています。
 翌日は、八反地の門田兎文(とぶん)の家へ一泊し、そこで、この地区の人たちを集めて、句会をします。
 当時の句会というのは、今ごろのようなものではなく、歌仙(かせん)を巻くと言いますが、順々に36句を作っていくわけです。それを一巻、巻き終わると言うのですが、一巻満巻をして、翌日、松山へ旅立ちます。当時の句会では、一巻の最初の句は、お客さんが作ることなっていましたので、そのお客さん、つまり一茶がこのとき作った句が、有名な「門前や何万石の遠がすみ」という句だそうです。紀行文はあるのですが、この時の様子を記した文書類がないので、兎文さんの家の様子というのが、わからないのだそうです。
 そのようにして一茶は松山へ行くわけですが、帰りにも、またここへ寄って、兎文のところに一晩泊まって帰ったようです。そのあと何年かして、もう一度訪ねて来ております。
 一茶が、なぜこの風早の地に二度も立ち寄ったかということを考えてみると、やはり、この土地に、何か魅力があったのではないかと想像するわけです。難波の道を通っていますと、なんとも言えない素朴さがあるし、そして歓待を受けた人たちの人情というのか、そういうものにも触れることができたのだろうと思うのです。
 それはさておき、一茶の再来によって、この風早は非常に俳句が盛んになったようです。そのことは、北条のお宮やお寺に非常にたくさんの俳額が奉納されておりますが、それを解読していくと、非常によくわかります。