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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇文化が都市を救う

上田
 御紹介いただきました上田です。今日は「文化薫る宇和のくらし」ということで、都市と文化という話をさせていただきます。
 まず都市に一番必要なもの、これは産業です。産業がなかったら、若い人も、どんなに好きな町でも去っていかざるを得ません。産業、経済、そして豊かさです。二番目は、便利さです。たとえば道路、鉄道、それから上下水道、ガス、それに病院、デパートといったいろいろな施設です。そういう便利さがなければ、生きていくことができません。それから三番目に、最近、いろいろ問題になってきておりますが、環境ということが挙げられます。環境と言いますと、緑とか、水とか、山とか川とか、あるいは町並み、景観とか、こういったものは、皆環境になります。
 そして四番目に必要なものが、文化です。「衣食足って礼節を知る」ということわざがありますが、お腹の足しの次には心の足しが欲しくなるということです。
 日本、あるいはこの宇和もそうですけれども、豊かさや便利さ、環境、そういった点がだんだん整備されていって、最後に文化が必要になるということ、これは日本中の町でいわれていることです。ではなぜ文化かという話をこれからしたいと思います。
 まず、都市と文化ということを言った人に、オズワルド・シュペングラーという哲学者がいました。第一次世界大戦の後です。ドイツが負けた後、彼は、「これからはドイツも、世界も、国家の時代は終わった。都市の時代である。その都市は、文化で生きるのだ。文化都市でならなければいけない。そしてその文化によって、世界の人たちから尊敬を受けるのだ。」と言いました。ドイツ語で言いますと、「Welt Stadt(ヴェルト シュタット)(世界都市)」という言葉を作り出したわけです。
 続いて第二次世界大戦の後で、同じくドイツのウォルフ・シュナイダーという都市学者が、同じことを言いました。ただし、シュペングラーはベルリンとか、パリとかという非常に大きな都市のことを言っていたのですが、シュナイダーは「大きな都市に文化があるのは当たり前ですが、小さな町でも文化があることによって、世界から愛されます。」と言って出した例が、西ドイツのバイロイトという町です。
 このバイロイトという町の説明をしますと、この町は、ルードヴィッヒ2世という19世紀のプロイセンの王様がドイツオペラの創始者リヒャルト・ワーグナーの要請によって、人口5万人ぐらいのこの小さな町にオペラの専用劇場を造るわけです。ルードヴィッヒ2世は、たくさんのお城を造ったお城道楽家として有名で、「Romantisch Straβe(ロマンティッシュ シュトラーセ)」つまりロマンチック街道として、今や世界の観光客を集めている城巡りのツアーがありますが、そういうお城を、次々と造っていった、建築普請の王様です。また、ワーグナーが創始したドイツオペラというのは、イタリアオペラが、プリマドンナの声を聞かせるのに対して、環境そのものを舞台の上に作ろうとするものです。
 この劇場は、まだ自動車がない時代、馬車に頼っていた時代に造られたわけですが、現在も、昔のように残っています。この建物は、ちょっと見ますと、レンガ造りのように見えるのですが、実はレンガのまねをしているだけであって、完全に木造です。
 なぜ木造にしたかといいますと、舞台を木にすることによって、ここで演じられる音楽が、耳だけではなくて、体全体に伝わってくる。つまり建物全体がバイオリンのボックスみたいな共鳴効果を発揮するわけです。そして見るだけではなく、聞くだけではなく、体で感じる。そのために、皆、木のいすに座り、また建物全部を木造にしたのです。バイオリンのボックスのようにしてしまったのです。
 そしてここで例えばニーベルンゲンの指輪とか、さまざまなゲルマン民族の歴史劇などを演じて、ワーグナーは一躍有名になったわけです。吹雪のゲルマンの森の中のシーンといったようなものも、風の吹く音や森のこだまが、客席まで、床まで、椅子まで振動するわけです。そうして、寒さを皆感じてもらおうというような、すごいオペラを創始するわけです。それでワーグナーは世界で大変有名になり、ワーグナーが死んでからも、毎年、このバイロイトで夏の間は、ワーグナー祭が行われて、ワーグナーの曲が上演され、世界からたくさんの人がやって来るのです。そして、ワーグナー愛好家が世界中に満ちあふれました。その結果、第一次世界大戦、第二次世界大戦と2度の大戦争をドイツがやった時に、このバイロイトの町だけは、連合国の攻撃を免がれました。なぜなら、ワーグナーのフェスティバルシアター(祝祭劇場)は木造であり、爆弾を落としたらいっぺんで壊れてしまう。だから、あれは壊してはいけない、と連合国側の兵士も皆そう思って、ついにバイロイトの町は第一次、第二次世界大戦中、多くのドイツの都市が瓦礫(がれき)になった中で生き残ったのです。つまり、一つの劇場が町を救ったわけです。言い換えると文化が町を救ったのです。
 そこでウォルフ・シュナイダーは次のように言います。「ベルリンやパリといった大都市でなくても、小さな町が世界に愛されるような文化、世界文化を持ったら、その町は世界都市になります。そして戦争という悲劇の中にあっても、文化が都市を守るのです。」
 第二次世界大戦は、日本の都市をほとんど壊滅しました。ところが焼けなかった町が幾つかあります。例えば、奈良は古代、京都は中世、金沢は近世というように、これらの町が日本文化をたくさん残しているので、アメリカのB29戦略爆撃機隊は、この三つの町を爆撃しなかったのです。京都には師団、金沢には連隊、奈良には軍需工場があったにもかかわらず、爆撃されなかったのです。それで戦後、日本人はびっくりしたわけです。科学者たちは、最初原爆投下は京都と決めたのです。ところがトルーマンが反対したので、京都は免れたのですが、そのために、広島、長崎が原爆投下されてしまったのは、本当に悲しいことです。ともかく、日本人は文化をあまり考えなかったのですけれども、アメリカは明らかに文化のある町は差別したのです。文化のない町ばかりと言うと語弊が生じますが、爆撃してしまったのです。
 ところが、その中にあって、一つだけ、日本の歴史都市ではなくて、近代都市で、爆撃されなかった所があります。これが倉敷です。御存じのように、倉敷は倉敷川沿いの白壁の町です。これは古い町ではなくて、大原孫三郎という倉敷紡績の創始者が自分の町を守ろうとして、川を残し、白壁を残し、新しく建てたり、他から持ってきたりして、ある意味で人工的に造りあげた町です。倉敷は昔からの町ではないのです。ところがこの町が第二次世界大戦の時に爆撃を受けなかった。一体それはなぜだろうか。実はこの壁のためではないのです。これは大原美術館のためなのです。この大原美術館は、1931年(昭和6年)に大原孫三郎が、西洋の美術品を収集して、それを展示するためにオープンしたのです。日本最初の西洋美術館であり、もちろん民間の美術館としても最初ですが、しかし、オープンした当時、ほとんど入館者はいませんでした。同じ、1931年に満州事変が起き、翌1932年に、リットン調査団という、イギリスのリットン卿を団長とする国際連盟の調査団が日本にやって来ました。日本の満州における軍事行動は侵略かどうかということの調査に来たわけです。日本政府は、この調査団に対して下にも置かぬもてなしをし、休日には「御一行の皆さん、どちらへ御案内いたしましょうか。箱根にしましょうか、日光にしましょうか。」と言いました。ところが、リットン調査団一行数十名が「いや、箱根や日光もいいが、それより倉敷の町を見たい。」と言い出したのです。何のことかと思うと、「開館したばかりの大原美術館を見たい。」と言ったので、日本政府は慌てまして、特別列車を東京から仕立てて、リットン調査団を倉敷まで案内したわけです。
 大原美術館が日本にできたということは、日本にはあまり知られていなかったけれども、欧米には知られていたので、本当かどうか見に来たわけです。それで彼らはこれを見て、確かに欧米の美術品がある。しかも、セザンヌをはじめ、印象派前後の優れた絵がたくさんある、ということでびっくりし、「日本人は決して西洋文化を理解しない野蛮民族ではない。その証拠には大原美術館がある。」というような認識をもったものと思われます。リットン調査団の報告書でも、そのことがとても大きく影響したといわれています。
 大原美術館は、日本人はあまり知らなかったけれども、リットンを通じて世界的に有名になったのです。ところが日本は第二次世界大戦中には、金属を供出するということで、大原美術館は、ロダン作の「カレーの市民」のブロンズ像といったものまで供出させられるのではないかと思って、隠してしまうのです。確かに戦時中の日本人は、いろいろな金属を、軍に供出しました。つまり芸術品を供出して、弾丸に作り変えたのです。ところが、連合国軍は、この芸術品があるが故に、倉敷を爆撃しなかったのです。そういうことが戦後分かってきたのですが、文化が町を救うというケースは、何もバイロイトだけではなくて、日本でもあったことなのです。